木下長宏のウェブログ

網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

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返信: 78件

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[ 白犬ロン ]

2005/9/12(月) 午後 5:38

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はじめは、襖絵を「見に行く」つもりだったのに、大乗寺ですごすうち、木々をぬって吹き込んでくる風の匂いや感触、建物の息づかい、そういったものを全身で「感じている自分」に気づかされます。襖絵はただ「絵」ではなく、建物と一体になって空間を創り出し、そこに居る自分という存在をつよく感じさせてくれます。ひるがえって、普段の日常生活を省みると、この「五感」を知らぬ間に封じている自分に気づかされます。大乗寺ですごす「時」のように、自分の感覚のスイッチをオンさせていたら都市生活では耐えられないのかも。

[ che**ashu*a ]

2005/9/8(木) 午前 2:13

韓国も最近は先進国化との勘違いの元、伝統芸術やら仏教美術として扱われ「小ぎれいで成金みたいにださくて思考のない箱」の中に移されつつあります。みんなどこへ向かおうとしているのでしょう。世の中悲しいことばっかりです。 (字数制限で3回にも渡ってしまいました)

[ che**ashu*a ]

2005/9/8(木) 午前 2:12

大乗寺、また行きたいです。仏教徒の私としてはお寺でごろごろするのが日本では初めてで本当に楽しかったです。しかも美しく奥深い襖絵に囲まれて寝たりすることができるなんて幸せでした。夕日と、朝日の中でまた観たいです。個人的にはお寺が観光地化ばかりするのは寂しく悲しく、昔のままではなくても素朴なままいてほしいものです。

[ che**ashu*a ]

2005/9/8(木) 午前 2:10

金柔政です。初めて書き込んでみます。みなさん、どうもお疲れ様でした。頭痛がするなど言ってご心配かけてごめんなさい。夜の酒かこむ座にはぜひ参加したかったのに、日々運動不足で体力がついていきませんでした。

[ 遠藤知恵子 ]

2005/8/2(火) 午後 1:10

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エロシェンコの要約を読んで、「汎生命共同体思想」が面白いと思いました。 私の好きな詩人の山之口獏ヒト社会的な上下関係を取り払おうとするところがありますが、動物と同じ地点に立とうとはしていないように感じます〈山之口獏の場合、放浪生活で得た感覚に基づいて、人と動物を意識的に分けたようにも思えますが)。 でも、だからといって、エロシェンコの汎生命共同体思想的「擬人化」は「擬動物化」にはならないのかな、と思いました。種の違いを乗り越えて人間らしく書かれるから「擬なんとか化」なわけですが、エロシェンコの書くお話では、命があって生活していることを出発点にして、その出発点が有効な限りでいろんなものが交流しているんですよね。エロシェンコのお話では「擬なんとか化」が成り立たないんですね。

蕪村 その3

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[ 竹の屋 ]

2005/6/26(日) 午前 4:55

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「パースペクティヴ」と「三遠」とは全く異なる考え方(概念)である、ということの重要性に心を奪われました。横山や菱田らの新しい東洋画の創造ー所謂「朦朧体」とよばれる明治30年代の絵画も「六遠」などという考え方から新たに見つめ直す必要を切に感じました。そのように考えると、同時代の日本の近代詩や近代小説など文学の領域における「改良」と歩みを共にした烏合会や无声会に所属していた画家の造形文法が、テクスト(小説の領域には日本画と洋画といった区別はない)の「改良」を通じて、西洋の思想(タブロー)の一端を、まがりなりにも体現している、というようにも思えてきました。木下先生はご著書『岡倉天心』(紀伊國屋書店)から30年を経て「岡倉天心のアジアは一つ」が岡倉覚三の中心思想ではないと気づいた(『アートトップ』最新号204号)と仰りますが、幾星霜を重ねた含蓄あるご発言はわたしたちに勇気とひとつの指針を与えてくれました。

言葉

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[ kn_*e*hien ]

2005/6/15(水) 午後 11:05

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えーっと、木下長宏です。ご質問の件ですが、「本当の自分は…」と混乱しなかったかというのは、今日投稿しました要旨でお答え出来ているかと思うのですが。いかがでしょうか。まだ、はっきりしないようでしたら、突っ込んでください。 それから、アルベルティは、なぜ二種類の<言葉>を選んだか、これは、大事な質問ですので、あらためて投稿します。

言葉

内容報告

[ 白犬ロン ]

2005/6/14(火) 午後 1:26

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現代の美術作品といわれるものが、あまり心に響いてこないのはなだろうと考えたとき、蕪村の「不用意」という言葉の新鮮さ、鮮烈さがとても印象にのこりました。 ところで、蕪村は南宗画、北宗画のうえに、マンガちっくな俳画も描いていたのですが、彼のなかでは画法が分裂していることに混乱していなかったんでしょうか。「ほんとうの自分はどこになる」なんてことは考えなかったんでしょうか。もうひとつ。アルベルティの「言葉」がふたつ挙げてあるのは何故ですか?

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