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網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

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2018年12月1日、東海大報告(2)
まず、ボクが喋ったことを、ボクなりにまとめます。テープを忠実に起こした報告は、いずれ東海大から出版されるはずですが、(二)の広瀬氏の話をまとめたものと合わせて、ボクの文章は喋リあった内容を別の面から補うことができるのではないかと思っています。

(一)
二〇一八年十二月一日(土)、東海大学で「思想史と人類学の対話」といういささか大上段に構えたタイトルのもと、講演と対話をする機会が与えられた。
 ボクは、最近の仕事は「美術史」ではなく「芸術思想史」と公言しているので、「思想史」。「人類学」の方は、大阪にある国立民族学博物館の広瀬浩二郎氏。十三歳のとき失明し、盲学校で点字を習得。京都大学に点字試験で受験入学した。平曲、琵琶法師や瞽女の研究を続け、国立民族学博物館に勤務するようになって、「ユニバーサル・ミュージアム」という展覧会の方法を提唱し、活躍中の人である。
 盲人は点字によって文化を担う。点字は、目の不自由な人が自由に読み書きできる文字である。その文字は触(さわ)ることによって認知される。その「触る」ことによって「美術鑑賞」の場を創ろうとしたのが「ユニバーサル・ミュージアム」である。さらに、その「触る」ことが盲人たちに単に芸術と接する機会を拡大させる場となるだけでなく、目が不自由でない人たちの芸術への接しかた、世界を知る方法を変えていくことになれば、そのとき「ユニバーサル」は語義通りの「ユニバーサル(普遍的)」な働き振りを発揮するだろう、と頑張っている。
 しかし、その活動の現実は、どうしても視覚不自由者がその不自由さに阻害されない環境を獲得することが目的になって完結しがちである。
 そこで、ボクが日頃<土曜の午後のABC>で語っていることを広瀬氏の方法論と突き合わしてみたら、「ユニバーサル・ミュージアム」の思想的基盤を築く示唆が見つけられないかと今回の対話を企画したのが、東海大課程資格教育センターの教員である篠原聰である。篠原などと敬称抜きで呼んだのは、彼は成城大学の大学院生でありながら、横浜国立大学のボクの大学院の演習や講義に参加して、ボクが退職するまでモグリで通い続けた変り者で、ボクも正規の学生と区別なく厳しく勉強し合い、いつも「篠原」と呼び合っていたからである。
 最近ボクがABCで喋っている「無文字文化」論は「ユニバーサル・ミュージアム」の思想の支柱になるという予感を篠原は持ったらしい。対談に先立ち、「無文字文化と文字文化」という考えについての基調講演をボクがやることになった。
 全盲の広瀬氏と語るのだから、ボクは美術の話をパワーポイントや画像資料を一切使わないで喋ることにした。
 まず、「等線分による日本史年表」を参加者全員にじっくり見てもらう配布資料を作り、同時に、広瀬氏には、この年表を点字化したものを作って触ってもらうことにした。当日は、 A4の点字年表のほかに等身大の年表を作り、それを広瀬氏が触って意見を言ってもらうことにした。日本史や日本美術史は、この「縄文」時代に相当する一万五千年に亘る年月をほんの数ページで記述し、「古墳時代」「飛鳥時代」から「近代、現代」に至るまでの記述が、一册の本の主要部を占める。
 しかし、各時代の一年一年を等分して並べてみると、「縄文弥生」と呼んでいる時代は「古墳」以降「現代」までの時代の七倍半の長さを持っていることを改めて感じることができるのではないか。このほとんど土器以外の遺品は残っていない沈黙の一万五〇〇〇年を、ボクは日本列島における「無文字文化時代」と呼びたいと思っている。別の謂いかたをすると、この長い時代を「縄文弥生時代」と呼ばないということである。
 縄文時代は現在出土している土器を検証しただけでも、草創期七〇〇〇年、早期三〇〇〇年、前期二五〇〇年、中期一〇〇〇年、後期五〇〇年、晩期六〇〇年と六期に分けられ、晩期が弥生時代六五〇年につながっていく。
 そんな縄文時代だが、われわれは「縄文」と言うと、まず火焔式土器を思い浮べるだろう。そして「縄文」すなわちあの燃えるような激しい動きのある装飾に溢れた土器を産出した時代、とイメージし、それに対して「弥生」時代の土器の静かな控え目な文様から、「縄文」と「弥生」を対照的な時代の姿として見ようとしてきた。
 ところが、もう少していねいに観察していくと、火焔式土器は長い縄文時代の中期、一万五〇〇〇年分の一〇〇〇年のあいだにしか現れて来ない。しかも出土分布も日本列島の中部の北の方に限られている。火焔式土器を縄文時代の代表(概念規定の基準)にすると、「縄文時代」を見誤ることになる。
 それに「縄文」という言葉自体問題が多い。「縄」の文様が連想させる原始性と荒々しさが、「弥生」の清楚さと対照的に強調させるこれまでの考えかたは改めねばならない。
 縄の文様なら弥生式土器にも使われているし、縄文時代の土器のすべてが縄文の文様を施されているわけでもない。
 だから、ボクは「縄文時代」はどんな時代だったかを考えるには、出土例は少ないその草創期の作品をじっくり見つめる所から展望するべきだと思ってきた。そして、この長いながい時代を包括的に代表する言葉として「無文字文化」という言葉を見つけた。
 これは、ちょうど日本列島で「文字文化」が誕生したころに書かれた齋部(いむべ)廣成(ひろなり)の『古語拾遺』に「上古之世未有文字」とあったのに励まされた命名である。
「漢字」が朝鮮半島からもたらされた頃、「文字文化」が胎動し出すのだが、それは「弥生」時代中期と考えられる。「弥生」時代は日本列島の西と東を分けて整理すべきで、西部では「文字文化」に入っており、東の方ではいまだ「無文字文化」のうちにあった。「弥生」時代はそういう境=過渡期に位置する。
 この長い時代を「無文字文化の時代」と名付けることによって、いろいろなことが見えてくる。 その一つが、図表にしてみた<表現行為の起源>の姿である。人間の諸感覚の中で最も早く働き出すのは聴覚と嗅覚触覚だろう。早くも胎内で母親の声を聴き、生まれてすぐ、母という存在を匂いで感知し、手脚を動かし周囲に触れて<世界>を感じようとする。そこに<見る>という視覚活動が加わる。<聞く>はすぐに泣き声を誘う。新生児の泣き声は、<歌う>ことの最も初源的な現れである。<触る>は<握る>を誘い、この<握る>はやがて、初源の時代の人が、土くれをぎゅっと握って掌を開いたとき、そこに人の身体の形が現われていたのを発見させる。人体造形の最も初源的な行為である。ボクはそれを縄文草創期土偶の第一号が出土されたとき、三重県埋蔵文化センターを訪ね、実物を観察して、この自分の掌に載せて実感した。
<見る>という行為は<覗く>という行為によって表現行為となる。古くは『古事記』や『日本書紀』に、海の神の娘だった豊玉毘賣(とよたまひめ)が夫との間の子を産むとき、「他国(あだくに)の人は出産のときだけ本(もと)つ国の形(すがた)に戻ります、どうかその姿の私を見ないで下さい」と言ったのに、夫火遠理命(ほをりのみこと)(書紀では彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと))はがまんできず覗いてしまうと、そこには大鰐(わに)がのたうちまわっていた(龍だと伝えるものもある)。<覗く>という行為が真相を見せることを教える最も古い逸話だろう。
 江戸時代の民俗伝承に、夜の山道を歩いていくと、美人の女が現れて、美味しいお団子をどうぞ、お風呂も沸いていますなぞと言うのに出会ったら、両手の人差指と親指を組合わせてその枠のなかから覗くといい、枠のなかに見えるのは狸だ、というような話が各種伝えられている。枠を作って<覗く>という行為は、おそらく絵画の最も原始的な起源だろう。
 こんなふうにして、最も初源の行為<聞く><触る><見る>がそれぞれ<歌う><握る><覗く>という表現行為へ拡大し、さらに<誦む><語る><削る><編む>等、表に記した行動へと展開して行く。表に沿えば右方へ展開拡大するのだが、太い矢印へと向いながらもつねに起源を振り返りつつ、後戻り出来ない展開を重ねて〈文字文化〉の時代に突入していった。これは人類史共通の動きだが、日本列島では、世界に例を見ない長い「無文字文化」の時間を蓄積している。そして、この「無文字文化」は「文字文化」の地層深くに息づいていることを、いろんな時代のいろんなジャンルを少し詳しく観ていくと納得する。詳細に議論する紙幅が足りないが「無文字文化」は「文字文化」の成育を助けようと働いている。しかし、「文字文化」はややもすると「無文字文化」を幼稚(プリミティヴ)と見なして切り捨てる。
「文字文化」は、<見る>原理を最上位にし、視覚中心主義を仕立てていった。たとえば「視聴覚教育」が唱えられるが、そこに<触>が欠けていることに気づかない。その結果、現代は、人類にとって大切ななにかを喪ってしまっているのではないか。それを取り戻すために「無文字文化」の時代に育まれていた<触る><聞く>と分離し背理し合わない<見る>行動の方法を見つけ直し、どうしたら現代にそれを生かすことができるか、それは、急務の課題だと言える。
広瀬氏や篠原が取り組んでいる<触る>ことから始める「ユニバーサル・ミュージアム」の活動に、ボクが提唱した「無文字文化」を大切にという考えはこんなところで出会えはしないだろうか。
点字は「文字文化」の産物である。同時に、点字は<触る>文字である。活字文字は<見る>文字であり、点字は<触る>文字である。点字は<触る>を媒介に「無文字文化」の働きを存分に発揮した文字のありかたである。そのことを活字文化に依存する「文字文化」の担い手に気づかせ、活字文化(コンピュータ文化は結局「文字文化」の究極の姿だとするならば)を蘇生させることにも役立つだろう。−−こんな話をしたあと対話に入り、広瀬氏は、彼個人の盲者としての経験と人類史になかでの盲者(文字を使わないで〈声〉と〈音〉によって世界と相渉る人びと)の生きかたを重ねて「ユニバーサル・ミュージアム」の礎を作る考えを語った。議論を深めていくには時間は足らなかったが、つぎに、広瀬氏の反応と発言をメモしておきたい。(以下は、半月くらいのちに掲載できると思います。)

2019東海大報告(1)

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2019年12月1日、東海大学松前記念館で、
《ユニバーサル・ミュージアムが「近代」を問い直す 思想史と人類学の対話》
と題した集まりがありました。
そこで、ボクは小一時間(「思想史」の代表として)《「無文字文化」と「文字文化」》について話をし、そのあと、広瀬浩二郎氏が人類学の立場から、《「無文字文化」と「触覚文化」》について語り、篠原聡の司会で、対話を始めたのでした。
その報告をしたいのですが、その前に、当日配ったボクのレジュメと、情景写真を掲載します。

レジュメの一つは<美術史以前>と題した<無文字文化>論メモ。
もう一つが、冒頭に載せた「等分線日本史年表」です。
       
 
             <美術史以前> 無文字文化と文字文化
  

     1 <無文字文化>について

「等線分日本史年表」を見ながら。
長い沈黙の一万五千年。
       「縄文・弥生」時代と呼ばないで<無文字文化>と呼ぶ。
        「弥生」時代は<無文字文化>と<文字文化>の境界に位置する。
        なぜ、この時代を<無文字文化>と呼ぶのか。
『古語拾遺』(斎部廣成著、807年)
<無文字文化>は<文字文化>の地層深く息づいている。


     2 <無文字文化>時代に観察できる<表現>行為の起源

       a 聞く→ 歌う→ 誦む → 暗誦する→ 語る→
       b 触る→ 握る→ 削る → 結ぶ → 編む→   →
       c 見る→ 覗く→ 線を引く→ 染める→ 塗る→

        聞く:胎内→ 歌う:新生児
      触る:成人→ 握る:土偶(縄文草創期=最初期、粥見井尻出土土偶)
   見る:成人→ 覗く:古事記日本書紀(豊玉毘賣逸話)江戸期民俗伝承etc.


     3 現代/近代は「視覚」中心の時代。

    たとえば「視聴覚教育」が唱えられるが、「触」が欠けていることに気づかない。
    視覚中心主義の結果、人類にとって大切なものが喪われている。見えなくなっている。
    それを取り戻すために<無文字文化>の重要性を見つめ直し、現代に生かさねば。
    旧来の美術史では取り組めなかった領域へ。

     <無文字文化>はわれわれの内面(意識、身体)の深くに眠っている。
     a,b,c の営みを分離(隔離)させない美術活動、表現/鑑賞活動を企てること。
     <美>の活動、営みを考える枠組を新しくすること。

2月9日(土曜日)のABCは、いつもの部屋が取れず、4B の隣の「大会議室2」です。
お間違えないよう、お願いします。

<「老子」から教えられること>を続けます。

『老子』がほんとうに何時、初めて、いまわれわれが手にしているような形の書物になったのか。判りません。

1973年に前漢時代(紀元前2世紀初から紀元1世紀)の貴族のお墓から「老子」を絹地に書き写した写本が見つかり、1993年には楚の時代の竹簡(紀元前4世紀ごろのものか)が見つかり、それまで、ほんとうに長い間『老子』は前漢以降に成立したと信じられてきたのですが(その間2000年!)、この考えは覆されることになりました(現在われわれが書店で手にする『老子』の本は、まだ、ほとんどそのことを活かしていないままの本が多いです)。

それまでは、王弼(おうひつ)という3世紀の魏の国の人が作った『老子註』が、テクストの古さと完成度の2点から、いちばん頼りにできるので、もう一つ、古くから読まれてきた河上公(かじょうこう、漢〔紀元前2世紀から紀元3世紀初〕の人、しかし「註付河上公本」は六朝〔3世紀〜6世紀〕成立と考えられている)の本と合わせて、長い間、『老子』底本(テクスト)の権威でした。われわれも王弼本を底本に読んできました。

もちろん、それらのテクストを批判的に読んでいかなればならないことは言うまでもないのですが、馬王堆前漢墓から出土した、王弼より500年は前のものと推定される帛書(甲本乙本二種)、さらに古い楚墓の竹簡などは、破損部分が大きく読めなくなった部分も多く、テクストの全体像が掴めないくらい不整備で、これを底本にするわけにはいかない。で、それらを「老子」の元の形を尋ねるときの重要参照史料として勉強してきました。こんな勉強のしかたはやっかいなのですが、現状では、そういう読みかたをしていかないと、いろんなところで落とし穴に陥ってしまいそうで、そういう注意深い読みかたを心がけてきたつもりです。そう心がけて読むと、逆にエキサイティングです。

その結果、「大器晩成」は「大器免成」と読むべきだというような発見もありました。(つまり、ほんとうのところ、老子は、「大人物はゆっくりと大成する。優れた作品は時間をかけて完成する」ではなくて、「大器は完成することを免ずる=大人物とかすごい作品などというものは未完成なのだ」と言おうとしていたのだ、と解釈できるのです。)

そんな勉強の成果を踏まえて、次回の2月9日は、31章を読んでみたいと思います。

この章は、24句に分節することが出来ますが、その文体・文章構成は、重複感が強いのです。
じつは、31章は、王弼が註をつけなかった(註がついていない)唯一の章なのですが、そんなこともあって、従来から現代に至るまで、多くの老子研究家が、この章は、のちの写本過程の早い段階で(いうまでもないことですが、王弼自筆本は遺っていません!)王弼の註書きを本文と混同して入れてしまったのだ、それならこの重複は説明がつくと推測し、ではどこが、王弼註でどこが「老子」原文か、いろいろな説をいろいろ述べ立ててきました。王弼註が本文に紛れ込んだことを、物的証拠はなにもないまま、それを前提に、みなさん議論を積み重ねてきたのです。ついこのあいだまで。
 
じつは、1973年に発見された馬王堆帛書には(甲本乙本ともに)、通行の王弼本とほぼ同じ配列(24句から成る章句構成)になっていたので、この長い期間に亘って繰り返されてきた議論は水泡に帰した、というわけです。

これは、「近代」の知的建造物が、一瞬にして崩壊したような劇的な例ですが、ここから、われわれが「近代」批判を追究するうえでどんな心構えを持つべきか、教えてくれるような気がします。今回はそんなことを考えてみたいと思います。

それから、帛書を読んでいると気になる、たとえば王弼本では「聖人」とあるのが、帛書では「聖」の下の「王」が省かれ、「耳」と「口」を組み合わせただけの文字が書かれています。

「聖」の場合は、どちらでも意味解釈上とんでもない違いは出てこなかったので、いままでこだわってきませんでしたが、31章では、「泣」(王弼本)が「立」(帛書甲本)になっていて、これは、かんたんに「(さんずい)」を略していると言って済ませられない意味の違いが生じてしまいます。

ここいら辺で、いよいよ、漢字の独特の性質である「象形」「指事」「形声」「会意」と「転注」「仮借」(昔から「六書」と言われている漢字の分類法)の役割を改めてじっくり理解しておくときが来たような気がします。

これは、じつは、日本語の運命と深く関わっている漢字の特性で、金曜日に勉強している<無文字文化>、とくにそのなかの<見立て>を考える上で押さえておかなければならないことだ、ということを発見しそうです。
 
楽しみに!

前回読み進められなかった21、26章が残っていますが、これは、そのあと勉強したいと思っています。

kinoshitan

2019年最初のABCは、19時から、いつもの波止場会館4Bです。

<無文字文化>をめぐって、今回は<見立て>について考えてみます。

<美術史以前>のタイトルのもと、扱う材料は、「美術史」の渦の真ツ只中。江戸後期の鈴木春信と葛飾北斎の予定。この二人の仕事を<美術史以前>の光の下に眺め考えてみたいと、準備中です。

楽しみにしていてください。

kinoshitan

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今年もよろしく。
今年は、イノシシとなって、時代の裏山で、光っては消える流れ星を探し続けます。


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