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9月24日 G:ジャコメッティ (その1-改稿版)
ジャコメッティをサルトルの批評から読み直してみたい。というのが今日の目標です。
なぜサルトルかというと、サルトルの二つのジャコメッティ論は、批評の見本のようなエッセイなのだということが第一の理由。その後、いくつもジャコメッティ論が書かれてきましたが、日本人の手によって書かれたものもありますが、このサルトルの二篇を超えるものはないのです。批評というのはボクの考えでは次のことをやっていなければいけない(やろうとしなければいけない)、そう思ってボク自身も書いてきているのですが、それは、
1)批評する作家あるいは作品の本質を衝いている/説いていること[本質というのは好きな言葉ではないのですが、とりあえず便利なのでここでは使っておきます。要するに、作家を論じる場合でも作品を批評する場合でも、作家はその作品をどういう意図を籠めて作ったかを見抜き言葉にし、その意図がどういう方法で作品に実を結んでいるか、あるいは実を結んでいないのではないか、いるとしたらなぜそうなっているのかを語り切ること]。そして、それを他の権威の言葉を借りて語るのではなく、自分の言葉で語り切ること。
2)作者が現存し活躍中の場合、その批評文が作家の考え/意図を衝くと同時に、その意図には入っていなかったかもしれない、作品の意義を見つけだし語ること[これは、作品―作家ではない―を育てることでもある]、そして作家を批評する場合はとくにその作家の今後の仕事に作家自身が納得できる示唆と刺激を与えること[方向を強制するのとは異る。作家を育てるのとすこしニュアンスがちがうからだ。作家を育てるなんてことは、むしろ考えてはいけない。作家は自分自身で育てなきゃいけない]。
3)作家がすでに亡くなっている場合:鑑賞者[読者]に、その鑑賞者が作品を見ることによって鑑賞者自身の言葉で発見をもたらすものであること。単なる解説は、鑑賞者と作品を出会わさない。鑑賞者が権威ある[と信じる]人の言葉で作品を理解しようとし、自分の言葉/知識/概念でその作品をみようとしない批評、批評者の考えを押しつけるのだけの批評が、現今はびこりすぎている。批評家は、作者/作品と鑑賞者との出会いを用意する媒介人に徹しなければいけない。
こうして三つの目標を掲げてみました。ボク自身なかなか出来ないといつも反省していることですが、サルトルのジャコメッティ論、あるいはカルダー論などは、いささかサルトル流の美文、口を極めた決めつけなどあるとはいうものの、この三つをみごとに実現している文章です。3)は、これからわれわれが判断することですが、1)は、この文章が1950年代、つまりジャコメッティがようやく個展を開けるようになり[その個展の図録にサルトルは文章を寄せたのです]、この文章が書かれてから、15年ジャコメッティは生き、制作します。そして、そういう眼でジャコメッティの仕事をみていきますと、サルトルの批評が1950年という時点のジャコメッティへ示唆を与えただろうことがあらためて納得できる―そういう文章に出会います。
サルトルは、その批評を書くに当って、何かの権威の文を引用して自分の考え、説を裏付けるなどという小賢しいことはしていません。それも現代の批評家がもっと学ぶべきことの一つですが、それよりも学ぶべきこと―これは学ぶとういうより、そのことを知って、あとは自分自身で思考を感じ方と書きかた[言葉の述りかた]を鍛えていくしかないことですが―、それは、サルトルが、作品を前にして感じたこと考えたことを自分の言葉で、綴り、その言葉が言葉として自立して作品を記述していることです。
今回お配りしたサルトルの二篇にボクはちょこっとサルトルが指摘しているジャコメッティの作品の写真を添えたり、ジャコメッティが描いたサルトルの肖像を入れたりしましたが、サルトルの文章を読んでいると、そんな図版はなくても、文章のなかで作品がイメージできてしまう。そんなイメージの喚起力のある文章をサルトルは書いています。それを<自立している言葉>というふうに呼んでみました。
≪アンガージュマン≫[世界はそもそも無意味である。世界に意味を与えるのは人間の行為である。その行為を価値づける根拠は、人間が自由を求めるところにある。作家という者はその作品を通じて、自由の意味を問い、自由の実現のために、世界の全体を引受け、時代の現実に関わるのである]という考えを主張していたサルトルが、ジャコメッティを論じるとき[長いあいだの友人であり、肝胆相照す仲だが、ことアンガージュマンに関してジャコメッティの制作からそれを引き出すのはむつかしい]、彼がどんな視点でジャコメッティの作品とその制作振りを評価するのか。そういう視点から読んでみるのも面白い。
ある意味でこの二篇は、ジャコメッティと向い合いジャコメッティ論に取り組むことによって、サルトル自身自分の主張[思想・主義]を逸脱してしまっているところが読める。(註)
それは決して破綻ではない。生きた思想とはそんなふうに伸び縮みし、流れの勢いや色合いを変えて息づくものなのだ。<読む>ということの面白さもそんな発見に支えられている―ということをじゅうぶん堪能できる文章なのです。
まさに生きた彫刻・絵画(家)と生きた批評(家)が出会い、対話する情景がここには読めるともいえます。そして、そういうことを読ませてくれる批評は、やっぱり稀です。
(註)もちろん、サルトルのジャコメッティ論二編は、サルトルの実存主義の思想をベースに展開しており、随処にその「哲学」「思想」「主義」が顔をみせています。たとえば、「人間とは後から見られるために差処にあるのではなく、他人のために生存することを真髄とするところの存在である」という文章とか、ジャコメッティの「石膏の女を見ながら、彼女の上で、私は自分の冷たくなった眼差しに出会う。感pじょの眼差しが私に投げこむこの可笑しな不快さはそこからくる。私はなにか強制されたように感じsる。それが何のために、誰によってなのかわからないのだが、しかし、結局それは見ることを強いられ、しかも自分によって強いられているのだということに気づく」とか(人文書院『サルトル全集10、p.220)を例に挙げてもいいでしょう。
前の引用は、彼の実存主義のテーゼ[根本主題]を語っており、そのテーゼを適用して説いたジャコメッティの彫刻作品の描写です。なかなか鮮やかな描写です[面白いのは、このやや謎を含んだような文章をよく読んでおくと、その後の多くの人のジャコメッティ論が、ここでサルトルが示した謎を解くことに精出している―つまり、そのごの多くのジャコメッティ論がサルトルを超えていない―こと気づきます]。
サルトルは、その達者な粘りのあるレトリックで、自分の思想をいろいろな問題にすり合わせ、論を繰りひろげますが、ジャコメッティ論では、そうしてジャコメッティにのめりこんでいくなかで、はからずも、彼自身のジャコメッティについて語る言説がその実存主義思想を逸脱してしまっている。足をすくっているというほどではなく、実存主義に背を向けているのです。その例を一つだけ挙げてみると、同じ彫刻論「絶対の探究」のある一節、サルトルはこんなことを言っています。
ジャコメッティは彫刻が持つ<絶対>性を求めて制作をする。その<絶対>を彫刻するために彼が空間を圧搾する。「ジャコメッティが空間を圧搾するためにどんな圧搾機をつかったか」「距離だ」、「指さきでふれてみても、遠いところにいる」―これは同じ物が同時に近くらも遠くからも見られることはありえないのだから、不可能な話ではないかという反論を招く[サルトルの記述が面白く生き生きしているのは、こんなふうに対象と向い合いながら自問自答するようにして、その対象に迫っていくところです]。サルトルは、この問いに答えるために、「彼[彫像]が遠ざかったとしても、彼が小さくなるように感じられずに、彼の諸特質が凝縮され」「いつも同じでいる彼の<風貌>が」そこにあるという彫刻をジャコメッティが作っているのは、「人間が他人の眼にとって絶対的な次元もっているという事実」(全集10.p219)があるからだというテーゼめいた一句を付け足します。ジャコメッティの彫刻の謎を説明するためにサルトルはこの一句が<哲学>として必要だったわけです。この一句でジャコメッティの彫刻[その絵画も!]の謎が鮮やかに解けていくきっかけが開かれるのですが、実存主義という立場からみると、これは危うい発言です。サルトルの実存主義にとって、「存在は本質に先立つ」ものでなければならない。「存在」はつねに相対的であり、本質は絶対的です。とすると、人間という相対的存在は、他人というもう一つの相対的存在の眼から見ると絶対的な次元をもっているということはどういうことでしょうか。「存在」が「本質」に先立たない次元をもっている、いいかえれば「本質」が「存在」に先立つような現れかたに他人の眼から見られることが、人間にはありうるといっているのです。実存主義のテーゼというようなものは、決して<絶対的>な公理としてつねに有効であるというより、この公理を基準[ベース]にして物事を眺め考えていくとしても、いろいろ例外ともいえる現象がみてとれる、それらを大切にしながら思索することこそ、生きた思索だということを、サルトル自身が実例として教えてくれているとでもいえばいいでしょうか。
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