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網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

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H:埴師−土師 (その1)

今日のタイトルは<埴師(はにし)>です。<埴師>というタイトルで、焼物―日本列島における焼物の歴史のことを考えようと思います。<埴師>は、<埴師>と書くより<土師(はじ)>と書くほうが一般的です。<土>と<師>と書いて「ハニシ」と読むんですね。『倭名類聚抄』という平安時代に編集されて、日本で最も古い辞書には、「土師」で「はにし」「はし」などと表記されています。
<埴>は<埴輪>の<ハニ>です。埴輪など土偶を作る職業の名称です。今回は、<人物>といっても固有名詞ではなく、いわば<大乗寺>や<ラスコー>と同じように、一人の個人の固有名とその人の行為・思想に帰してしまうことのできないニンゲンの仕事を問題にしようと思うわけです。

お配りしました資料、まず「土偶変遷図」、「陶磁史略年表メモ」、題名のない地図「日本列島窯跡図表」とでも呼んでおきましょうか、しかし単なる窯(現存しているものと跡だけのもの)ではなく、一応、古代・中世・近世とその活動期を判るようにマークした地図です。4枚目が「縄文土器・弥生土器変遷図」とその「目録」です。
そして、「土偶変遷図」の傍らに言葉が添えてあります。これが今回の「言葉」です。個人じゃないので、といっても大乗寺だって應擧の言葉を選ぶことができたのですが、今回は、そういうこともできません。その代りに、といったらなんですが、今日のは世界でも最も古い歴史の地層に刻みつけられた言葉、『創世記』と『古事記』にある一節です。
この「言葉」についてはもうちょっとあとで。

まずは、ボクの手書きのメモ「陶磁史略年表」をみていただきたいのですが、これは、いわゆる「陶器」「磁器」「土器」が日本列島でどんなふうに展開し、消滅しまた生まれていったかを、ざっと把握出来るようにと作ったものです。
最も古いものは「縄文土器」と呼ばれているものですね。新石器時代に属する1万年以前から作られていたと考えられています。それから「弥生土器」、つぎに今日のタイトルに挙げた「土師器」「埴輪」が来ます。もうそのころは「古墳時代」で、西暦400年頃は須恵器が登場します。「スエキ」を「須恵器」と書くと、全く別もののようにみえますが、「陶器」の「陶」という字、これをヤマトコトバで書くと「すゑもの」「すゑ」です、つまり「陶工」と書くときむかしは「すゑものつくり」と訓んだのです。ここに黒川真頼という人の書いた『工芸史料』という本があります。この本は明治11年に刊行された本ですが、その年のパリ万国博に間に合わすように書かれた本です。というと、ハハンとお気づきの人も多いと思います。明治33年パリ万博には『稿本日本帝国美術略史』のフランス語版豪華本が作られ、その十年前のパリ万博には「日本史」(『稿本国史眼』)和綴7冊[日本で最初の近代史観と歴史記述の方法に基づいて書かれた政府公認の日本歴史]が出されています。『稿本日本帝国美術略史』はその「日本史」の達成の上に、世界(諸外国列強国)へ「日本」という国家のその文化的に優れているところを列挙し、誇示し、その歴史的淵源を明らかにすることによって、国家的アイデンティティーを確立しようとしたものです。いわば『工芸史料』はその1900年に達成される政府公認「日本美術史」の完成への前段階の試みだったそんな本です。
脇道にそれましたが、その『工芸史料』の巻の三には「陶工」です[ついでにもう少し脇道にそれておくと、この「工芸史料」は七巻から構成されていて、1織工、2石工、付玉工、3陶工、4木工、付葺工、仏工、彫工、5革工、6金工、7漆工に分けられていて、ここには彫刻(木工)は入っているけれど絵画は入っていません。明治10年の段階では、世界にしろしめす「日本」の文化の代表をどのように価値づけていたかが透かしみえて興味深いです。それからどんどん急速にこの文化に対する価値観・ヒエラルキーは変わっていきます]。この巻三「陶工」には「すえものつくり」と読み仮名がつけられています。ちょっとこの出だしを読んで見ましょう。
「陶工(すゑものつくり)は太古[神代という]よりあり、而(しか)して其(そ)の誰に始まるを知らず。当時和泉(いずみ)の地に陶邑(すゑのむら)あり、陶器を造ること最も多きを以て此の名あり…。」
「陶」という漢字を「すゑ/すえ」と訓んでいます。「陶」という字は中国から入ってきて、焼物や土器を意味した語として定着したのですが、「陶」という概念が輸入される前、そういう土器の仕事は、「すえ」と呼ばれていたようです。こちらは土着の訓みです。それでは「埴(はに)」と「陶(すゑ)」は、どこがちがうか。
「埴師」と「土師」はどちらも「はにし」と訓みます。「土師」はのちに「はし」「はじ」と訓するようになっていきますが、どちらの字も漢字で音を表現する制度が確立されるころ当てられたと考えられます。のちに「「埴師」は埴輪などの土偶を作る職名として定着したのですが、それは垂仁天皇の32年7月、皇后日葉酢媛命が亡くなったとき、それまではその墓に従人(つきびと)たちを埋めて殉死させる風習だったのを、土で作った人形、馬などの動物、器物を埋葬することにした(註)、それを提案遂行したのが野見宿禰(のみのすくね)で、彼の功績を称えた天皇は宿禰に「土師職」の称号を与えたと『日本書紀』などに伝えられています。大宝律令(701)によれば、土師は、天皇皇族三公以上の葬儀を掌り、祭祀を掌るとありますから、土を扱っていても、日常の器には関与しなかったようにみえます。ただ、この「埴」という言葉はもっと広く使われ、「土物」「土器」という文字も「はにもの」訓ませていますし、「埴瓮」「はにべ」[「埴」という字と「公」の下に「瓦」と書く二字からなる]という語が日本書記神武天皇の集に出てきます。これは、埴で作ったかめのことを意味します。住吉神社の祭事に、「埴使」(はにのつかい)というのが登場して、大和(やまと)の香具山の土を穫って天平瓮(あめのひらか)を作り神前の供える儀式をやります。「埴安」(はにやす)という言葉もあって、埴粘とも書き、焼物を作る粘土の別の呼び方ですが、それは、神武天皇のとき、香具山の埴を取って儀式用の土器を作った、その埴をとった地名ともいわれています。
「埴」というのは、本来、粘土、あかつち、を意味する語で、赤黄色い粘土、「へな」などともいいます。焼いて土器に作られ、また衣にすりつけて染料にもしました。「はに」という音は、初めて掘った土の上の方のことをとくに指し、「初土」という字を当てると言う説もありますが、こういうところから推察できるように、もともとは、捏ね上げて器(うつわ)や像(にんぎょう)を作る材料だったのが神事祭祀でそういう器物像が重要な役割を果たすようになり、そちらの呼称が記録に遺されていったと考えられます。
こうした公の記録では、「埴師」「土師」の語の力は、8世紀頃から弱まって行きます。葬送のさいに埴輪の制度が廃されたのです。

(註)
埴輪は最初の形は円筒形で、のちにいろいろ込み入った装飾造形がなされて行きますが、この土管形の円筒埴輪について、二つの説がありました。墳墓の崩れを防ぐために土留めの用として作ったのが始まりで、のちに神社の玉垣のように墓域を定める働きをするようになったという説と、いや始めからそんな実用性はなく、墓を飾る装飾として、殉死の制度の代りとして考えられたのだという説です。

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