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埴師/土師 (その3)
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さて、ここで眼をいっきょに、「埴」や「土師」が登場するはるか以前のむかしむかしへと向けたいと思います。
お配りした「土器変遷図」の傍らに、今回の「言葉」を掲げておきました。まず、「創世記」の第2章7節です。旧い訳でご紹介します。
ヱホバ神(かみ)土の塵以(も)て人を造り生気(いのちのき)を其の鼻に嘘(ふき)入れたまえり 人即ち生霊(いけるもの)となりぬ (創世記 2−7)
ここには、人間は「土の塵」から造られたと記されています。
「古事記」のほうは、
是(ここ)に天(あま)つ神(かみ)諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊邪那岐命伊邪那美命二柱の神に、是(こ)のただよえる国を修理固成(つくりかため)よと詔(の)り、天の沼矛(ぬぼこ)を賜いて言依(ことよ)せ賜いき (古事記)
イザナギとイザナミの命(みこと)が「天の沼矛」を与えられて「ただよえる国を修理固成(つくりかため)よ」と命ぜられたという「国造り」の場面です。「ただよえる国」というのは、「天地(あめつち)初めて発(ひら)け」たときの国土(クニ)(註)状態で、その前に「国(くに)稚(わか)くして脂(あぶら)の如く」ともあります。泥っとした粘土のような土地の状態とイメージできます。それを「修理固成(つくりかため)よ」うとするのです。ここには、天地(あめつち)を創成するときに「土」を捏ねてつくり成すという行為が考えられ語り告げられています。「土を捻ること」と「天地創造」、「人間(ひと)の形」の最初の現れとに、なにかひそやかな深い関係がある、というのです。宇宙自然の姿と人間の姿が神によって造られるその造られかたを、東の古代の人間も西の人間も、人類の始まりのころの人びとは、「土を捏ね」て「かたちをつくる」プロセスの喩として思い描いていたのです。「土を捻る」「土によって造形する」という焼物の初原にある行為は、「天地創造」「人類の創出[人がその姿かたちをつくりあげたとき]」と深くつながっているのです。土偶は、そんな「ひと」の「かたち」の初原的な姿をつくり出しています。
「土による造形」「陶磁」の歴史は、ここまで遡ることが大切だと思います。
(註)この「国」「国土」[どちらも「クニ」と訓見ます]というのは、現在われわれが慣用している「日本国」の「国」[国家]とまったくちがいます。本居宣長風にいうなら、なんらかの境界をもっている土地(つち)です。土地に境い目ができたとき「国(くに)」と呼ばれると解釈できます。それは、国境が作られる前の状態です。
「土偶変遷図」をざっと眺めますと、初期の単純な素朴な、頭と胴だけのような姿から、だんだん手や足がつき、目鼻が刻まれ、人体の具象性を表現していきますが、このプロセスは、人間像をだんだんと自然主義風に表現する技術と表出意識を獲得していった過程を証明しているようですが、一方では、「土」から造られた「ひと」の姿と形のその初原的な衝動をすこしづつ忘れていく、忘れ離れていくことによって、より作為的[人為的]に制作しようとする意識が強くなっていくようすを見せているともいえます。
人類は、こうして、「天地創造」をその掌からひそやかに感じて、「土」をつかむという感動の表出として「土つくり」に携わっていたのを始まりとして、製品[器]や作品を作る行為としての「焼物」へと進んでいったといえます。しかし、すべてのかたちはそこから始まるという「土を捏ねる」行為の初々しい感動は遠く歴史の彼方に忘れ去られたかにみえますが、[さっきからなんども使ってちょっと気になっていますが]、ひそやかに、記憶の奧のほうにしまわれていて、現代人の「土」とその製品[作品]との向かい合いのなかに息づいています。
「土」を触わる/握るということ自体にそんな感動がみつけられると思いますが、土を造形し、茶碗や壷などを窯に入れ焼成を待つときの「神頼み」の気持ち[窯に火を入れるとき、登り窯などでは御神酒を捧げ、手を合わすのはいまも行われています]、とにかく、窯に火を入れた以上、もう人間の手には負えない、どんな結果になるかは、ほんとうに「神」に任せるしかないのです。
出来上がった茶碗に対しても、われわれは、そういうひたむきなひそやかな感動を忘れず、日々使いたいと思います。そのためには、日々良い器を使うことを心がけていたい。使い手にその希求がしっかりあれば、作り手ももっとその心がけをもって制作するでしょう―と、こんなことを書いて脱線してしまったのも、最近は、いいかげんな焼物作品がいたるところに出回っているし、いっぽうで、「芸術家」になったつもりの作者による「作品」が、堂々とあるいはのほほんと、展覧会や美術館のガラスケースに並んでいるのを目撃する機会が余りにも多いからです。
陶磁器の歴史を、[創世記]と「古事記」の記述からみるという視点を、ボクは大切にしなければならないと思っています。最初に引用した黒川真頼の『工芸史料』は「日本書紀」や「古事記」を典拠にしていて、この本を翻刻した平凡社東洋文庫に註を付けた現代の研究家は、黒川の時代にはまだ縄文時代や弥生時代という概念がなかったから「古事記」や「日本書紀」にたよらざるをえなかったと解説しています。この東洋文庫版が出版されたのが1970年代で、そのころは科学的実証主義が支配していて、科学的に実証すること自体はいまでも大切なことですが、その思想のもと、「縄文」時代とか「弥生」時代という概念が、古代の時代区分として絶対的権威をもっていました。つまり、当時の研究者は、なぜそういう現象が「縄文」と名付けられうるのか、疑ってもみませんでした。その概念を信じきって研究を進めていたのです。当時の考古学者、歴史研究者は、一般の知識人も、まず、「縄文時代」「弥生時代」という時代があったという前提から考えや「古代」の研究をしていたといいかえましょう。黒川真頼は、たしかにそういう概念を持ち合わせていませんでした。しかし[そのおかげでというべきか]、「縄文」や「弥生」を既成概念として「古代」を見るみかたから、逆に自由なみかたが、その『工芸史料』から読むことができそうです。『工芸史料』を細かに読む作業は別の機会に譲らざるをえませんが、たとえば、お配りした「縄文土器・弥生土器変遷図」の縄文草創期から弥生までの土器のシルエットをつぶさに見てください。その個々の土器例の全体の姿[それをシルエットと呼びました]からどんな相違点が、「縄文」「弥生」のあいだからみえてくるでしょうか。
ひとつだけ、たしかにいえることがあります。[すでに最近の縄文遺跡の発掘でだんだん明らかにされていることですが]「縄文」と[弥生]に、従来考えられてきたほどの対立的な対照性はみられない、ということです。だいたい、「縄文時代」といわれる時代は一万年くらいの時間幅を持ち、「弥生時代」は1000年もありません。対等に比較する時間幅ではありません。
で、縄文は、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期と、その一万年を六つに区分して、「弥生」のほうは前期、中期、後期と対比させようとするのですが、それでも、時間幅のとりかたは対称的とはまいりません。谷川徹三や岡本太郎が「縄文」と「弥生」を対立する歴史概念と考えて説を立てたのは、いささか安易に当時の「科学」を信じ頼りすぎていたといわざるをえません。
それに、「縄文」「弥生」という名称それ自体も問題です。こんにちでは、[縄文]「弥生」と呼び分けることによって、「原始的な荒々しい狩猟文明」「洗練された農耕古代文明」という観念が固定化されるほどに、定着してしまいましたが、この「縄文」も「弥生」も明治の中頃から使い馴らされてきた概念・用語にすぎず、それも、「縄文」はその時代の僅かな遺品である土器の模様に縄目(なわめ)文様が見られるから[縄目の特徴だけで一万年!]、そう名づけたのです。この特徴でもって、こんにち「縄文時代」と呼んでいる長い時期の特質としていいか、再検討する必要があるでしょう。「弥生時代」ときたら、もっといいかげんで、たまたま東京本郷の弥生町で発掘したというところから名づけられたにすぎません[明治17年のことです。その対比に使われた「縄文」土器は、大森貝塚から出た遺品くらいしかないころのこと。この弥生町から出た土器は現在東大の総合博物館に所蔵されていますが、発掘された場所も確定できず、「弥生」時代の命名起源になった品としては問題が多すぎるようです]。
いまや、日本列島の古代を考えるのに、「縄文」「弥生」の尺度に頼り切っているのからは脱出すべきところに来ているといえます。では、どうすればいいか。かなりつよく刷り込まれた「縄文」「弥生」概念を解きほぐしていくために、「古代」への自由な、枠にとらわれないまなざしを、まずわれわれは培っていく必要があります。「土を捏ねる」ことの初原性へ思いを至すことも、そんな自由さを見につけるために役立つと思う次第です。
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