木下長宏のウェブログ

網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

埴師/土師 (その3)

埴師/土師 (その3)

                  ☆☆

さて、ここで眼をいっきょに、「埴」や「土師」が登場するはるか以前のむかしむかしへと向けたいと思います。
お配りした「土器変遷図」の傍らに、今回の「言葉」を掲げておきました。まず、「創世記」の第2章7節です。旧い訳でご紹介します。

ヱホバ神(かみ)土の塵以(も)て人を造り生気(いのちのき)を其の鼻に嘘(ふき)入れたまえり 人即ち生霊(いけるもの)となりぬ (創世記 2−7)

ここには、人間は「土の塵」から造られたと記されています。
「古事記」のほうは、

是(ここ)に天(あま)つ神(かみ)諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、伊邪那岐命伊邪那美命二柱の神に、是(こ)のただよえる国を修理固成(つくりかため)よと詔(の)り、天の沼矛(ぬぼこ)を賜いて言依(ことよ)せ賜いき (古事記)

イザナギとイザナミの命(みこと)が「天の沼矛」を与えられて「ただよえる国を修理固成(つくりかため)よ」と命ぜられたという「国造り」の場面です。「ただよえる国」というのは、「天地(あめつち)初めて発(ひら)け」たときの国土(クニ)(註)状態で、その前に「国(くに)稚(わか)くして脂(あぶら)の如く」ともあります。泥っとした粘土のような土地の状態とイメージできます。それを「修理固成(つくりかため)よ」うとするのです。ここには、天地(あめつち)を創成するときに「土」を捏ねてつくり成すという行為が考えられ語り告げられています。「土を捻ること」と「天地創造」、「人間(ひと)の形」の最初の現れとに、なにかひそやかな深い関係がある、というのです。宇宙自然の姿と人間の姿が神によって造られるその造られかたを、東の古代の人間も西の人間も、人類の始まりのころの人びとは、「土を捏ね」て「かたちをつくる」プロセスの喩として思い描いていたのです。「土を捻る」「土によって造形する」という焼物の初原にある行為は、「天地創造」「人類の創出[人がその姿かたちをつくりあげたとき]」と深くつながっているのです。土偶は、そんな「ひと」の「かたち」の初原的な姿をつくり出しています。
「土による造形」「陶磁」の歴史は、ここまで遡ることが大切だと思います。

(註)この「国」「国土」[どちらも「クニ」と訓見ます]というのは、現在われわれが慣用している「日本国」の「国」[国家]とまったくちがいます。本居宣長風にいうなら、なんらかの境界をもっている土地(つち)です。土地に境い目ができたとき「国(くに)」と呼ばれると解釈できます。それは、国境が作られる前の状態です。


「土偶変遷図」をざっと眺めますと、初期の単純な素朴な、頭と胴だけのような姿から、だんだん手や足がつき、目鼻が刻まれ、人体の具象性を表現していきますが、このプロセスは、人間像をだんだんと自然主義風に表現する技術と表出意識を獲得していった過程を証明しているようですが、一方では、「土」から造られた「ひと」の姿と形のその初原的な衝動をすこしづつ忘れていく、忘れ離れていくことによって、より作為的[人為的]に制作しようとする意識が強くなっていくようすを見せているともいえます。
人類は、こうして、「天地創造」をその掌からひそやかに感じて、「土」をつかむという感動の表出として「土つくり」に携わっていたのを始まりとして、製品[器]や作品を作る行為としての「焼物」へと進んでいったといえます。しかし、すべてのかたちはそこから始まるという「土を捏ねる」行為の初々しい感動は遠く歴史の彼方に忘れ去られたかにみえますが、[さっきからなんども使ってちょっと気になっていますが]、ひそやかに、記憶の奧のほうにしまわれていて、現代人の「土」とその製品[作品]との向かい合いのなかに息づいています。
「土」を触わる/握るということ自体にそんな感動がみつけられると思いますが、土を造形し、茶碗や壷などを窯に入れ焼成を待つときの「神頼み」の気持ち[窯に火を入れるとき、登り窯などでは御神酒を捧げ、手を合わすのはいまも行われています]、とにかく、窯に火を入れた以上、もう人間の手には負えない、どんな結果になるかは、ほんとうに「神」に任せるしかないのです。
出来上がった茶碗に対しても、われわれは、そういうひたむきなひそやかな感動を忘れず、日々使いたいと思います。そのためには、日々良い器を使うことを心がけていたい。使い手にその希求がしっかりあれば、作り手ももっとその心がけをもって制作するでしょう―と、こんなことを書いて脱線してしまったのも、最近は、いいかげんな焼物作品がいたるところに出回っているし、いっぽうで、「芸術家」になったつもりの作者による「作品」が、堂々とあるいはのほほんと、展覧会や美術館のガラスケースに並んでいるのを目撃する機会が余りにも多いからです。

陶磁器の歴史を、[創世記]と「古事記」の記述からみるという視点を、ボクは大切にしなければならないと思っています。最初に引用した黒川真頼の『工芸史料』は「日本書紀」や「古事記」を典拠にしていて、この本を翻刻した平凡社東洋文庫に註を付けた現代の研究家は、黒川の時代にはまだ縄文時代や弥生時代という概念がなかったから「古事記」や「日本書紀」にたよらざるをえなかったと解説しています。この東洋文庫版が出版されたのが1970年代で、そのころは科学的実証主義が支配していて、科学的に実証すること自体はいまでも大切なことですが、その思想のもと、「縄文」時代とか「弥生」時代という概念が、古代の時代区分として絶対的権威をもっていました。つまり、当時の研究者は、なぜそういう現象が「縄文」と名付けられうるのか、疑ってもみませんでした。その概念を信じきって研究を進めていたのです。当時の考古学者、歴史研究者は、一般の知識人も、まず、「縄文時代」「弥生時代」という時代があったという前提から考えや「古代」の研究をしていたといいかえましょう。黒川真頼は、たしかにそういう概念を持ち合わせていませんでした。しかし[そのおかげでというべきか]、「縄文」や「弥生」を既成概念として「古代」を見るみかたから、逆に自由なみかたが、その『工芸史料』から読むことができそうです。『工芸史料』を細かに読む作業は別の機会に譲らざるをえませんが、たとえば、お配りした「縄文土器・弥生土器変遷図」の縄文草創期から弥生までの土器のシルエットをつぶさに見てください。その個々の土器例の全体の姿[それをシルエットと呼びました]からどんな相違点が、「縄文」「弥生」のあいだからみえてくるでしょうか。
ひとつだけ、たしかにいえることがあります。[すでに最近の縄文遺跡の発掘でだんだん明らかにされていることですが]「縄文」と[弥生]に、従来考えられてきたほどの対立的な対照性はみられない、ということです。だいたい、「縄文時代」といわれる時代は一万年くらいの時間幅を持ち、「弥生時代」は1000年もありません。対等に比較する時間幅ではありません。
で、縄文は、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期と、その一万年を六つに区分して、「弥生」のほうは前期、中期、後期と対比させようとするのですが、それでも、時間幅のとりかたは対称的とはまいりません。谷川徹三や岡本太郎が「縄文」と「弥生」を対立する歴史概念と考えて説を立てたのは、いささか安易に当時の「科学」を信じ頼りすぎていたといわざるをえません。
それに、「縄文」「弥生」という名称それ自体も問題です。こんにちでは、[縄文]「弥生」と呼び分けることによって、「原始的な荒々しい狩猟文明」「洗練された農耕古代文明」という観念が固定化されるほどに、定着してしまいましたが、この「縄文」も「弥生」も明治の中頃から使い馴らされてきた概念・用語にすぎず、それも、「縄文」はその時代の僅かな遺品である土器の模様に縄目(なわめ)文様が見られるから[縄目の特徴だけで一万年!]、そう名づけたのです。この特徴でもって、こんにち「縄文時代」と呼んでいる長い時期の特質としていいか、再検討する必要があるでしょう。「弥生時代」ときたら、もっといいかげんで、たまたま東京本郷の弥生町で発掘したというところから名づけられたにすぎません[明治17年のことです。その対比に使われた「縄文」土器は、大森貝塚から出た遺品くらいしかないころのこと。この弥生町から出た土器は現在東大の総合博物館に所蔵されていますが、発掘された場所も確定できず、「弥生」時代の命名起源になった品としては問題が多すぎるようです]。

いまや、日本列島の古代を考えるのに、「縄文」「弥生」の尺度に頼り切っているのからは脱出すべきところに来ているといえます。では、どうすればいいか。かなりつよく刷り込まれた「縄文」「弥生」概念を解きほぐしていくために、「古代」への自由な、枠にとらわれないまなざしを、まずわれわれは培っていく必要があります。「土を捏ねる」ことの初原性へ思いを至すことも、そんな自由さを見につけるために役立つと思う次第です。

埴師/土師 (その2)

H:埴師(その2)

この埴輪を墳墓に設置する制度が廃され、かつては吉凶の公式儀式を司っていた埴師は、凶礼や葬祭の式のみを行う職に限定され、だんだんとその位置づけが変っていき、のちには公の職務から排斥されてしまう。それに変わって重用されたのが「陶工(すえものつくり)」だといえます。現代では「陶器」ということばで焼物すべてを総称しますが、「陶器(すえもの)」が「土物(はにもの)」にとって変わった時期、そういう習慣が始まったといえます。西暦5世紀から7世紀にかけて、「埴(はに)」から「陶(すゑ)」へ、日本列島における土器製作の歴史はその概念、技法に大きな転換を遂げたのです。
「埴」は、材質は赭褐色系の粘土で、原始的な轆轤(ろくろ)は使っていたかもしれません。しかし概ね手捻りで、野焼き、窯を使ったとしても野焼きに近い構造で低い火の温度で焼き上げ、土質は脆弱です。最大の特徴は、釉薬は使っていないことです。それに対して「陶」(すえもの)は高火度還元焔[不完全燃焼させて、土に含む鉱物質に独特の発色をもたらす焼きかた]の技術も獲得し、窯や轆轤の構造も進歩し釉薬を活用するようにもなります。素焼きの場合でも、薄く形に張りのある器が作れるようになる[須恵器などの例をみて下さい、10月8日は少しばかり拙いコレクションの中から参考になるものを披露し、掌で触ってもらいました]。朝鮮、中国から渡来した人たちによる技術が大きな役割を演じていることは確かです[この4,5世紀から7世紀にかけての須恵器や陶土器に国籍はありません]。
土師、埴師、須恵、陶などの文字を冠する地名の分布を眺めてみると、日本列島の焼物の歴史が<埴>から<陶>へ移行したこと、そしてこの移行は、日本の焼物の歴史の[たぶん第一の]大きな転換期であることが、別の側面から見えてくるように思います。
「土師郷(はじのさと)」というのは土師部(はじべ/はにべ)に属する工人が住んでいた集落・村を指す呼称で、『倭名抄』[『倭名類聚抄』のことをふつう『倭名抄』と略しますのでここでもその慣用に従います]には「はし」と記されていたりします。河内国丹比郡、志紀郡[東大阪][以上「垂仁紀(すいにんき)」]、丹波国天田郡[京都北部]、備前国邑久郡[岡山]、下野国足利郡[栃木]、因幡国八上郡[鳥取東部]、阿波国名方西郡[徳島]、筑前国穂浪郡、山本郡[福岡北西部][『大日本地名辞書』]、などあり、ほかにも、上野[群馬]、和泉[大阪]、筑後[福岡南部]などにもあったと伝えられています。
現在、「埴師」の名をその住所表示にのこしているのは、鳥取県八頭郡智頭町だけのようです。
現在「土師」を名乗る土地は、もう少し増えて、茨城県東茨城郡茨城町、西茨城郡岩間町、三重県鈴鹿市、京都府福知山市[字土師、土師町、土師宮町、土師新町などあり]、大阪、堺市、兵庫県龍野市揖西町、神埼郡香寺町、鳥取県八頭郡八頭町、岡山県瀬戸市長船町、御津郡建部町、広島県安芸高田市八千代町、福岡県嘉穂郡桂川町、長崎県諫早市、大分県豊後大野市大野町など、みつけることができます。
これが、「須恵」「陶」になると、どっと増えます。一つ一つ町名まで列挙するとたいへんなので、県と市名だけ挙げてみます[()内の数字は町名の数]。まず「須恵」―静岡県磐田市(1)、滋賀県蒲生郡(1)、奈良県五條市(3)、岡山県瀬戸市(3)、同浅口郡(1)、山口県宇部市(宇部市には大字東須恵のあとに地名をつけるのが21町村あります)。山口県山陽小野田市に8町村、福岡県宗像市に一つ、同県糟屋郡須恵町は22の大字があり、ほかに佐賀の唐津市、熊本の球磨郡などに一つずつみつけられます。
「陶」を名乗るのも、「須恵」と同じくらいあって、岐阜県多治見市(1)、瑞浪市(3)、土岐市(6)、愛知県瀬戸市(15)、常滑市(4)、名古屋市(2)、尾張旭市(1)、三重県四日市市(1)、山口県山口市(14)、香川県綾歌郡綾南町(1)といった具合です。
地名としての「須恵」の古名は、備前邑久郡須恵郡[『倭名抄』]、山口県厚狭郡小野田村[これは『大日本地名辞書』に出てくるのですが、前出の8町村ある小野田市の古名で、『日本近世窯業史』(全4巻、大日本窯業協会編、明治40年刊)など繙くと、ここ小野田村にはいろいろな歴史が隠れているようです]、福岡の糟屋郡も安永年間(1772−82)に再興した以降の歴史しかよく判っていないようですが、そのとき興した中野焼という磁器を「須恵焼」と呼んでいて、先に挙げたように22の大字が現在も名乗っており、なにやら昔むかしの古い歴史が隠れていそうです。
滋賀県蒲生郡の鏡山村というのは現在の竜王町の古名なのか、調査を怠けていますが、ここは、『日本書紀』の「垂仁紀」にある鏡谷の陶人の遺跡だと伝えられおり、「鏡谷(かがみのはざま)
」と読み、新羅の王子「天日矛(あめのひぼこ、天日槍とも書く)が、渡来帰化し、近江国の吾名邑(鏡谷の古称)にしばらく滞在、その天日矛が連れてきた工人と子孫が新羅風の陶器を鏡谷で作ったという言い伝えがあります。
ほかにも、旧名岐阜県稲葉郡各務村大字須恵のお寺に遺された話では、弘法大師が製陶法を伝えたという、旧い窯跡が周辺に散在します。加藤藤四郎景正が陶業を始めたのもこの辺りという説もあります。筑前国宗像市の須恵の隣に「土穴」おいう村落があり、須恵村の山地には祝部窯跡があるということです。『山城志』には、京都の嵯峨野、清涼寺の東南に陶野(すえの)というところがあって、深草と名乗る者が土で椀を作ったとあります。

いろいろと並べ立てましたが、ここから、いろいろなことが考えられます。まず、「土師」や「埴」「須恵」「陶」の地名がなぜ関東以北には見当たらないのか。関東ということでいえば、「土師」や「埴」のほうが東に分布していて、「陶」「須恵」になるといっそう西に傾きます。ここには、やはり、古代の日本列島における権力の重点のありかたと関係があることがみられる。焼物という技術が深く当時の権力層と絡んでいたことは確かです。焼物師たちは、大和朝廷か、それと対抗しうる出雲の勢力、朝鮮と近い九州の勢力に支配されていたし、製品は、そういう支配勢力の人びとの嗜みものあるいは祭祀ものであり、庶民にはとどかないものであったろうと推測できます。こうした焼物の器が、いっきょに多くのひとに[庶民にも]行き渡るようになるのは、13〜15世紀以降、鎌倉〜南北朝時代を経て以降のことです。配布したボクの手書きの「メモ・陶磁史略年表」には、備前や常滑、丹波、信楽、そして唐津、有田、京焼、楽焼などが、鎌倉以降、秀吉の朝鮮侵攻後から江戸初期にかけていっせいに花開いていくさまがみてとれるように表を作っておきました[ついでに、参考品として、琉球のパナリ焼の碗、湧田焼(わくたやき)の茶碗も持ってきて、列島の南端での焼物の営みにも眼を配っておくことのおもしろさをお伝えしたのですが、ここの報告では省略します]。

こうしてみてきて、日本列島での陶磁の営みの歴史は、二つの転換期を持っており、一つは4〜7世紀にかけての<埴>から<陶>への転換。ここにあって、粗野で素朴な素焼中心の造形から、高度な轆轤と窯の技術によって陶磁製作する時代へ移って行きます。
もう一つは、13〜16世紀にかけて、列島全域に窯が多数築かれ大量の陶磁器が生産されるようになった転換期です。いずれの転換期にも、朝鮮半島からの中国の影響を受けた高度な技術が伝えられたことが背景にあります。第二の転換期を通じて、人びとが焼物を日常的に使うようになっていきます。陶器(すゑもの/すゑのうつわもの)についての概念・手法・素材も多様化し細分化され、精密になっていきます。こんにちのわれわれが「陶磁器」とか「陶器」と言って頭に思い浮かべる世界は、この転換期以降に形成されたものです。

焼物は、大きく分けると、土焼と石焼に分けられます[これは昔からやっていた分類法だと言えます]。土焼は、釉薬をかけない土器、釉薬をかけた陶器などをいい、石焼に属するのが磁器です。磁器は硬く焼き上がり、吸水性が陶器とくらべてずいぶんちがい、水を吸い込みません。磁器が焼物のなかで高級品と考えられたのは、もともと中国朝鮮伝来の技法による物であったからで、渡来人の李参平[金ヶ江三兵衛と名乗った]が始めたといわれる有田焼が、日本での創始といわれています。磁器と陶器(土器)のあいだに、セッキ[火偏に石と書く漢字ですが、ボクのパソコンでは手書き入力を試みても出てきません、すみません。そのセキという漢字と器で「セッキ」です]と呼ばれる焼物があります。素地に気孔性がない点で陶器と区別し、その素地が不透明な点で磁器と区別できます。セッキという名称は[英語のstonewareから考えられたのでしょうが]明治40年ごろから使われ始め、現在では焼物を、「土器(陶器)ムセッキー磁器」の三つ[あるいは四つ]に分類するのが常識になっています。こういう概念の細分化と整備がわれわれの掌中に入るのも。第二の転換期を経験したからこそなのです。
(つづく)

全1ページ

[1]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事