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北一輝(その2)
第三の「断念」は、いうまでもなく2.26事件と関わります。『日本改造法案大綱』が秘かに青年将校たちのあいだで読み廻され、それが、2月26日の青年将校[将校・下士官・元将校約100名、兵357名]による蹶起(けっき)(クーデータ)を誘ったとみなされ、北一輝は、この改造法案大綱の私家版の印刷発行責任者として名を出している西田税(みつぐ)と共に、首謀者として逮捕されます。
こういう青年将校たちの蹶起が、北の想定構想していた「日本革命」の筋書きではなかったことを語り、資料をもってそれを証明することはできるでしょう。しかし、選択された事実として、北一輝は一切の弁解をせず、この嫌疑を受容し、銃殺刑に処せられて、散って逝きました。享年56歳でした。
北一輝は、この2.26事件が勃発する1936年(昭和11年)、3月には上海へ行く計画を立てていました。2月26日のことは前もっての相談はなかったようですが、蹶起の報せを聞いてからは、とんでもないことをしてくれた、まだ早すぎるなどという忠告や非難はまったく口にのぼらせず、蹶起当日将校と交わした電話が傍受されて記録にのこっていますが、それを読んでも、この蹶起を成就させるために自分ができることはなにかをわきまえた、冷静な[冷静すぎる]発言をしています。
こんなやりとりからも、この2.26事件に絡む北一輝の「断念」が読みとれます。それは、すべてを語らせようとする検事取調べの口述調書の「言葉」にも掬(すく)いとれない、「言葉」の背後に封印された「断念」です。
われわれは、生きていくかぎり、その死に直面する瞬間まで、大なり小なりの「断念」を選択封印して生きていかなければならない。「表現」というのは、どんなジャンルの形態を採ったとしても、その「断念」をどんなふうに封印したかの表しかたであるといえます。なにかが表出されるところには、なにかが棄てられるのです。そういう「表現」のありかたを、みずからの生きかたとして、北一輝は鮮やかにわれわれの前にその一例を提示してくれています。彼の生きかたから考えさせられることは多いと思います。ことが政治・時務情勢への行動に関わっているから、いっそう複雑にその問いは姿を現わしてきます。政治の問題は政治の場面で、と押し返さないことが大切だという気がするのです。いいかえれば、政治・時務情勢論のレヴェルの問題をどうすればわれわれの内面生活の問題とつなぐことができるか、ということです。
北一輝が、改造法案「第三回公刊頒布に際して」という序文で、自分は「一貫不惑」だと、その若いときに書いた『国体論及び純正社会主義』から『支那革命外史』『日本改造法案大綱』を通じて、自分自身が一貫していたこと[それは20歳のときに書いた「国民対皇室の歴史的観察」という一文から一貫しているということですが]声高に述べています。それは、「国体論」というのは贋物で、日本の天皇は万世一系というのも捏造だ、天皇という地位は権力闘争の結果獲得することの出来たものだ、それは「日本」の歴史が証明している、という考えでした。
彼は、歴史のありかたを一貫して権力闘争の経緯として見ようとしていたといえます。彼の著述も、この権力との闘いに耐えうるものであろうとしてきた。その三冊の著作がすべて、あるいは発禁を招き、あるいは謄写版刷りで極秘裏に配布する運命をたどらなければならなかったことも、それを物語っています。
彼は、つねに、言葉による表現は、人間を動かす力を持っていなければならないと願い、そういう言葉を紡ごうとしてきたといえます。行為の責任をとらされる関係をもちつづける言葉のありかた、です。これは、言語の初原的/古代的なありかたといいかえることができます。法華経を傍に置いたのもこのことと深くつながっています。
北は、若い頃から「一貫」して、そういう言葉を紡ごうとし、それに見合う行動をしようとしてきた。それにはあの「断念」が不可避だった。近代という、表現が表現という領域のなかで自律している時代、言葉が行動へ直結する力なぞとっくに喪くしてしまった時代に、北は、このことを希求しつづけたのです。「第三回公刊頒布に際して」で、彼は自分のことを「革命者」と呼んでいます。「革命者」とは、政治体制を転覆させる戦略行動家の謂ではない、行動への責任をとりうる関係を持つ言葉を紡ぎつづける者、これこそが「革命者」の生きかたなのだ、と彼は告げているのです。
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今回の「言葉」は、彼の処女作『国体論及び純正社会主義』の「緒言」から、冒頭の一句を選びました。
現代に最も待望せられつゝあるものは精細なる分科的研究に非(あ)らず、材料の羅列事実の豊富に非らず、誠に渾(す)べてに渉る統一的頭脳なり。
このあと、「固(もと)より微小なる著者の斯(かか)ることの任務に堪(た)ふるものに非らざるは論なしと雖(いえど)も、僭越(せんえつ)の努力は、凡(すべ)ての社会的諸科学、即ち経済学、倫理学、社会学、歴史学、法理学、政治学、及び生物学、哲学等の統一的智識の上に社会民主主義を樹立せんとしたることなり。」[いうまでもないことだが、若輩の自分がこんな仕事を全うできるはずがないことはよく承知している。しかし、わきまえなんか金輪際気にしないで、精一杯頑張って努力し、あらゆる「社会的諸科学」[人間社会に関する全学問分野]、すなわち、経済学、倫理学、社会学、歴史学、法理学、政治学、さらに生物学と哲学も勉強し、それらの統一の上に、「社会民主主義」を打ち立ててみた]と続きますが、20世紀が始まったばかりの時期、学問知識の専門分化[と、それに伴う深化]からくる領域間のディスコミュニケーションを批判し克服しようとしていたこの発言に注目したいと思った次第です。
「現代に望まれるのは、分野の中に閉じ籠もった精細な研究ではない[もちろん、そういう研究は続けられ深められねばならないが、それが「分科」しているかぎり問題なのだ]、材料[資料]を「事実」として並べ立てるだけの研究ではいけない、全領域に眼を配り、各分野の研究を「統一」して考えることのできる「頭脳」「知」の働かせかたこそ、いま必要なのだ」と、この一句で、若い北は言い切ります。
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若い北輝次郎が、こういう「統一的知」を獲得したと自負する『国体論及び純正社会主義』に至る前、十代後半から二十代にかけて、短歌をつくったり、時務情勢論や文芸批評を書いていること、それらがそれぞれに異なる筆名で、異なる文体で書かれていることに、ちょっと注目しておきたいと思います。それは、単に表面上の「文体」の問題ではなく、文体という言葉の表出の姿[ありかた]を通して、思索[行為へ責任をとる言語表現のありかた]を探求していったプロセス=生きかたの問題として考えることができるからです。
その三年ほどのあいだに彼は、大きく分けて三種の文体を試みています。
A.漢文調
B.弁舌調
C.詩歌
の三つです。Aの文体をとるとき、それは時務情勢論を語り[たとえば「国民対皇室の歴史的観察」、筆名は「卓堂」]、Bの弁舌調では文芸談を[「鉄幹と晶子」、筆名「武藏坊弁慶」]。Cは短歌や長歌の詩作品となり、「なにがし」とか本名で掲載しています(註)。この三種の文体に鍛えられて、『国体論及び純正社会主義』の文体が誕生するのです。その場合、『国体及び純正社会主義』は、AとBが合体熟成して育ち、Cは切り捨てられます。つまり「詩歌」は「断念」の彼方へ押しやられるのです。「詩歌」を拒絶することによって『国体論及び純正社会主義』とその後の著作は誕生しえたということができます。一種の「歌のわかれ」の現象がここに見られます。「詩歌」が拒絶・断念されることによって近代日本の思想が成熟する[詩と思想はつねに背反する]という問題は、北個人の問題ではないように思われます。柳田国男など典型的な例です。こいう構造を見極めることが「近代日本芸術思想史」の課題のような気がずっとしています。
(註)棄てられる「詩歌」にだけ、彼は筆名として本名を使っていることも、見逃してはいけないところです。そのとき、北輝次郎は、詩歌を発表するときだけ、「本当」の「裸の」自分たりえたという思いが潜んでいたのです。そして、そういう「詩歌」を棄てることによって願望としての「本当の自分」を「断念」し、『国体論及び純正社会主義』へ向って「転換された自己」「別の新しい自己」を表出していきます。「詩歌」を棄てるという「断念」は、自分の生きかたを変えるというぬきさしがたい決意と向かい合っていることがここからも読みとれます。これはやはり、「自己からの離脱」(M.フーコー)のひとつの型ではないでしょうか。
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長じて、彼は、財閥の寄金で暮し、高級車に乗り、書生を置き、恫喝も辞さない怪文書事件にも関わり、といった、カリスマといわれるにふさわしい生活をしていた一方、2.26事件の判決を下した裁判官が日記に死刑判決を下すのは誠に惜しい人物と誌さずにはいられないような居ずまいと風格をそなえ、他者への思いやりに長けた人物だった。書生たちは、その死後も、北を想いつづけた。
こうした多面的な顔をもっていたのも、若年のころ、そのさまざまな文体でさまざまな「自己」を演じたそのときの鍛えかたが身についていたからかもしれません。
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