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蕪村(つづきのつづき)
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蕪村の自画像だと伝えられている一枚の絵があります。真筆を疑う人もいますが、ボクにとっては、それが自画像だと信じられ伝えられてきたという経過があるだけでじゅうぶんです。そう信じられていたところに、「蕪村的なるもの」とはなにかを考える種子が播かれているからです。
それは、「歯あらハに筆の氷を噛(かむ)夜かな」と墨書され、「蕪村」の落款と「謝長庚」と「春星氏」と、二つの陰刻された(文字が彫られて白く出る)、朱色の方印(四角形の印)が捺されています。画面の右下よりに筆を持って文机に向い、なにやら書き出そうとしている坊主頭、黒い羽織姿の蕪村が描かれています。右手に積まれた本は画面にあふれ、その蕪村は横向きというよりななめ後ろの姿に近い。
鏡に映した自分の姿ではない、鏡に映したのをみれば、決してこういうふうには描けない姿の自画像です。これは、すでに観念化された、いいかえれば虚構化された自分の絵です。この虚構意識は、「春風馬堤曲」で娘の述懐に乗り移ったのと同じ種類の虚構意識です。誰かに成り変わることと、行動している自分を背後から眺めること。そこに共通したまなざしがあります。これこそ「不用意」のまなざしです。彼のいう「不用意」は、こういう軽く自分を突き放し、他人に成り変わる眼で自分を見るという俳諧の姿勢であったのです。
頭は丸坊主にしていますが、30歳のとき、「釈蕪村」を名乗った句があるので、その頃には剃髪していたのでしょう。そして、生涯剃髪を通したようです。しかし、仏僧として修行に励んだわけではありません。絵描きが僧形を装うことはこの時代ふつうでしたが、彼の場合、そういう振りをしながら気持ちはもうちょっと深いところにあったように思われてなりません。
つまり、彼のような出自を持つ人間は、僧形で生きるのがいちばん生き易かった。僧形の人は、この時代、「方外」と呼ばれ、つまり、士農工商の身分社会の「方」(枠)の外にいられたのです。画工や医師は「方外」で、僧侶と同じ世捨て人とされていた時代でした。
蕪村は自ら「世捨て人」を装うことによって、俗に住み俗を去る営みを繰り返していた。これを支えたのが「不用意を尊ぶ」思想だったのです。
晩年、「はいかい之草画」を唱え、「奥の細道」の全文を筆写し、絵を描きいれた屏風なども何点かつくりますが、この「奥の細道」の絵など、いずれも、人物しか描かない、旅の風景・山水はまったく描きません。こんなところにも彼の「俳諧」への意志が読めるような気がします。
「不用意を尊ぶ」思想は、彼が人生を生きていこうと決意した頃、彼が巴人の内弟子として拾ってもらった頃から、彼のうちに住みついたにちがいありません。それを「不用意」と呼べるようになるには、もちろん、それから長い時間が必要でした。しかし、彼の俳諧の仕事や画業を、その「不用意」の視点からみていくことは、現代のわれわれにとってとても重要なことだと思います。
なによりも、そういう視点によって、最も「蕪村」に沿える見かたができるだろうということ。そして、そういう生きかたから、現代をどう生きるかについてわれわれが学ぶことがあるということではないでしょうか。
追加:
アルベルティの次なので、蕪村と遠近法にまつわる余談風論議を追加したいと思います。
新潮世界美術辞典などでもそうですが、「遠近法」の項目に、まずヨーロッパで発展した「パースペクティヴ」の説明があって、それに続けて東洋では「三遠」といって、「高遠、深遠、平遠」という「遠近法」があるなどと解説されるのが常です。しかし、この二つは全く別の思想なので、いっしょの項目に入れるのはまずいと思います。
「三遠」は、「パースペクティヴ」の思想とは別種の絵のつくりかたで、蕪村の句に「梅遠近南(みんなみ)すべく北すべく」てのがありますが、この「遠近」は「おちこち」とよむ、つまり、東アジアの「遠近法」は「おちこち」「あっちこっち」の意味合いです。「三遠」の描法の底にあるのもこの「おちこち」です。
「三遠」は、見上げる(高遠)、見下ろす(深遠)、見はるかす(平遠)描き方を意味し、いわば、それは視点の問題で、見通しの問題ではありません。見通しが問題になるところで、タブローが浮上します。つまり、見た世界を持ち運ぶという問題です。同じように絵に枠(画面としての区切り)があっても、タブローは一個の世界(宇宙)がそこに収まっているかどうかが重要課題ですが、東アジアの絵では、絵は平気でその枠を超えていきます。
perspectiveという英語を、われわれの先輩は「遠近法」と訳した、これが問題だったといえましょう。パースペクティヴの本来の意味は「見通すこと」ですから、「透視図法」という訳語に徹していれば、「三遠」との違いをもっと意識できたのかもしれない。しかし、いまや「遠近法」という日本語が「パースペクティヴ」の訳語として完全に定着している以上、このことばを使わないわけには行かない、使う上は、その違いをしっかり心得ておくことを大切にせねばなりますまい。
「おちこち」には「見通す」という意味はまったくないのですから。
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