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網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

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ザヴィエル(その6)

ザヴィエル(その6)
 この方法が、現実との関係のとりかたのなかで、きわめてあぶないありかたになっている例を北原白秋の中に見ることができます。
 『邪宗門』は彼の若いときの作品です。白秋は1942(昭和17)年11月に亡くなります。亡くなったときにはたくさんの門下生、弟子の歌人や詩人がいた大家でしたね。
 北原白秋の最後の歌集は『橡(つるばみ)』というのですが、昭和18(1943)年12月8日(12月8日はこの時期生きている人にとっては特別に特別な日です)発行の日付を持つ第十歌集です。もちろん門人たちが白秋の死を追悼して編んだ心の(そして涙も)こもった遺作集(大阪・靖文社刊)です。
 この第十詩集『橡』が1947(昭和22)年2月同じ出版社から再版されています。この昭和18年版と昭和22年版の決定的な違いは、頁数にあります。昭和18年版は総428頁の厚みのある歌集です。それが、昭和22年版は「改訂新版付記」という編者の付け加えた頁を引くと、283頁。
 敗戦を境に145頁文の白秋の歌が消えてしまったのです。門人はこうまでして白秋先生を戦後も称え持ち上げたかったのでしょう。
 白秋は、じつに臆面もなく、ということはほんとうに心の底から大東亜日本の躍進を喜び歌っていたようで、昭和11年にARS(アルス)という出版社から出した『躍進日本の歌』という詩集があります。副題が「国民歌謡集」。
 これは、第「1」部は「皇軍の歌」と題されていて、冒頭の歌は「大陸軍の歌」で、こんな具合です
 「青雲(あをぐも)の上に古く 仰げ 皇祖 天皇の大陸軍 道あり 統(す)べて一(いつ)なり 建国の理想ここに、万世 堂々の歩武を進む 精鋭、我等 我等奪へり」
 これを読んで、じつはボクは「アッ」と思いました。「一なり」とか「建国の理想」とか「岡倉天心」がこんなところにも覗いているからではありません。
 ボクは、京都の同志社大学の卒業なんですが、同志社の校歌は、北原白秋作詞・山田耕筰作曲なんです。そして、入学式も卒業式も欠席した僕ですが、やはり校歌は(英語の応援歌と共に)その歌詞もメロディーも憶えていました。それは、こんなふうです
――「蒼空(あをぞら)に近く 神を思ふ小瞳 挙(こぞ)れり同志社 一(いつ)の精神 伝へよ我が鐘、ひびけ高く 栄光新(あたら)に梢とそよがむ。 樹(う)えよ人を 輝け自由 我等 我等 地(つち)に生きむ。」
 「大陸軍の歌」と「同志社校歌」の詩がいかにパターン化されているか、一目瞭然です。白秋は一つのパターンを使って、しかも「あをぞら(あをぐも)に……」とか「一(いつ)の」とかをくりかえし、最後に「我等、我等」とファッショ的に盛り上げるところまで、同じ語句を使ってその主題に合わせて入れ替えると詞が作れたのです。
 因みに、同志社校歌が作詞されたのは1935(昭和10)年です。「大陸軍の歌」は「昭和9年」と詩の末尾に記入されています。
 さらに驚くべきことには、この『躍進日本の歌』は全体で6部から後世されていますが、その第5部は「校歌」で「東京帝国大学運動会歌」から始まって全国の大学、女子校、中学校、小学校等40校の校歌も収録されているのです。もちろん、そこに「同志社大学校歌」も入っていました。つまり、「同志社大学校歌」は白秋にとって『躍進日本の歌』というタイトルの詩集に収まるべき詩の一つであった、昭和10年代北原白秋が大量に生産した戦争賛美の詩歌の一つだったということです。
 同志社大学の入学式や卒業指揮でこの校歌を斉唱するとき、学生も教師も職員も、「神を思ふ瞳」と声を挙げて歌い、その「神」にイエス・キリストの父を思っているでしょうけれど、作詞者の北原白秋は、そうは考えていなかったかもしれない。いや、同志社はキリスト教主義の大学だから「神」と書いておこうと、本音は「天皇」こそ「神」だと思っていながら、歌う人の都合に合わせて解釈できるようにしていたのかもしれない。
 少なくとも、はっきりしていることは、まず、校歌作詞を依頼した昭和10年時の同志社の責任者、そしてその後この校歌を歌ってきた同志社関係者は、北原白秋にまんまと一杯喰わされてきたということです。

 「ザヴィエル」のことから話を始めて、とんでもないところへ来てしまったように見えますが、じつはこのことがいちばん言いたかったことなのです。
 北原白秋の『躍進日本の歌』の作詞法の方法的根拠は、若い頃の『邪宗門』で用意されていたからです(ある歴史的現実を当時の状況に合わせて〈仮想〉しそこに〈現実〉を喪ってしまって知らんぷりをしている、それどころかそれでこそ充実していられる方法です)。
 16世紀から17世紀へかけて、日本列島に住み着いた「キリシタン文化」は、20世紀初頭、北原白秋の詩に詠まれたような「キリシタン情調」として定着するこの変容と変質のプロセスは、思想のありかたの一つの活動パターンとして、いたるところ「日本近代/現代」の思想のなかにみつけることができるのではないか、ということです。

 一つ、最後に付け加えておきたいのですが、ボクは、北原白秋の作品がとても好きです。いくつかの詩や歌は、暗唱しているほどだし、子供の頃、祖父母の家の近くに教会があって、そこの垣根がからたちで、白い小さな花や棘のある枝はとても身近な情景でした。「からたちの花が咲いたよ」などという歌を、いつもその道を通るとき口ずさんだものだし、「この道」は、ぼくの 幼年時代の思い出をいっきょに吹き上げてくれる歌でもあります。
 ほかの詩や短歌も、愛誦するものがいくつもあり、ボクの〈詩〉に関する韻律感覚を育ててくれた大きな詩人といってもいい。おそらく、ボクだけでなく多くの人が、彼の詩にある種特別な愛着を感じているのではないでしょうか。彼は自分の愛国詩集を「国民歌謡」と名付けましたが、自分でそう名付けるなどなんという不遜な奴、と思いますが、やはりその名にふさわしい仕事をした人といえます。
 韻律は文字以前の言語の地層で人々の共同感覚・共同体意識のようなもの(吉本隆明のいった「共同幻想」と同じ働きをする感覚)を一つの束ねさせる働きをします。島原の乱で反乱者たちが飢餓に耐え「デウス」を賛美して籠城し、歓んで死に向へたのも、〈歌〉の韻律が彼らの心を結び束ねたからです。「国歌」は近代に入って、「国民」を一つにする重要な働きをするようになりました。その韻律は、言葉の奥底に潜んでいて、その隠れた働きを見事に生かした言葉の群を作るとき〈詩〉が生まれます。北原白秋は、この韻律を生かすのに類いまれな才能を持った〈詩人〉であったことは確かです。
 しかし、この韻律の働きは、ときに人びとの心を痺れさせ、物事の善と悪とを区別する能力、現実と現実の関係を見抜く眼力と推理力を不能にさせてしまいます。それほどに韻律は不気味な、隠れたものすごい力を持って人間を動かしてしまうものでもあります。
 ザヴィエルが日本列島の南端に上陸してから100年間の出来事を考え、それが400年後に、どんなふうに受け止められていったかを考えたいということの意義は、こんなところ、つまり〈日本〉語を使って語り歌う人種の考え方の基本構造と特殊性、それらが現代に投げかけるいくつかの問題を知ることにあると思って、今回の《X》に〈ザヴィエル〉を選んでみました。

ザヴィエル(その5)

ザヴィエルから始まったキリシタン文化の風はカトリックの風でした。1639年を境に、プロテスタントのキリスト教が細い糸ながら日本とヨーロッパをつなぐ唯一の道を保ちます。このこともとても重要なことだと思います。
 プロテスタントはカトリックよりも、より自由で世界的(グローバル)な考え方によって、世界の資本主義化を、世界を資本と労働の関係(主〔あるじ〕と従〔しもべ〕の関係)で進めていくからです。
 「南蛮人」という言葉は「ポルトガル人」を指します。つまり、「南蛮」という言葉には「キリシタン=カトリック」の文化という意味が含まれています。ポルトガルに代って鎖国下唯一の西洋文化の交通路を維持した「オランダ人」は「紅毛」人と、江戸の人は言い分けていました。しかし、そう言いわけてプロテスタントとカトリックの宗教教理上のちがい、その歴史的意味のちがいを理解していたわけではありません。
 明治に入って、あらためて開国した「日本」が16世紀半ばから17世紀半ばの100年、日本列島に吹き寄せた「キリシタン文化」を「南蛮趣味」以外の形で遺産として復活できなかった理由もそのへんにあるようです。

 この1543年から1639年のあいだのキリシタン文化がわれわれになにを遺してくれたか、それを南蛮屏風や祇園祭の飾り、秀吉の陣羽織に見るだけでいいのかどうか。もっと考えてみる必要がありそうです。
 でも、いまのところボクには失くしてしまったものの方が大きい気がしてならないという以上のことを的確に語れそうにありません。
 禁制の高札が撤去されて、キリスト教の信仰は、(カトリックもプロテスタントの諸派でも、ギリシァ正教でも英国国教会も)自由になりました。獲得することによって喪うものが必ずあります。その喪ったものをどう考えるか。その一端を探っておくことにします。
 100年の遺産は「南蛮文化」とか「キリシタン文化」といわれて江戸時代の地層に沈み、異国憧憬として文明開化とともに復活します。それは、異国趣味から西洋憧憬への変身復活といっていいものです。その沈潜の期間が250年と長きにわたっていますから、そのあいだに「西洋」はほとんど幻想化されていて、一種の〈不在〉 の〈西洋〉への憧憬となってイメージされています。
 江戸初期にはポルトガル人を「南蛮人」、オランダ人を「紅毛」と呼び分けができていたようですが、しだいにその区別が概念化できなくなります。そこへ「毛唐(けとう)」というような言葉がはびこってきます。「毛唐」という言葉は、海の向こうの人はみな「唐人」(すなわち中国の人)だとみなしてしまおうという「異国」意識で、こういう意識の醸成が、幕末から機能し始め「日本」のナショナリズムを支えていきます。この「異国」意識と<不在の西洋>憧憬は、コインの裏表のような形で、意識に貼り付いています。
 明治の開国とともに溢れるように押し寄せる「西洋」文明、その巨大で豊饒で輻湊(ふくそう)する文明を、それを受け容れるのにまだ充分な下地を持たない精神が、なんとか嚥下し、消化しようとして、遠い昔の影を引きずり出して造形しようとした、その遠い昔の影を、たとえば北原白秋は、『邪宗門』(明治42年、易風社)のような詩に読むことができます。
 そこで7月8日の<ABC>では、『邪宗門』から一篇「赤き僧正」を選び、じっくり読んでみました。残念ながら、この三連と一行から成り、「四十一年十二月」の日付を持つ詩を、ブログにそのまま掲載することは不可能です。旧仮名遣いはともかく、旧漢字にたくさんのルビを振り、ルビと一体となって一つのイメージとメッセージを備え、字句の配置(とくに最後の一行)に至るまで気を配って、一篇の<詩>の表現体にしています。
 「赤き僧正」というタイトルですが、「僧正」と呼んで、これはカトリックの祭司=神父です。もちろん、黒い僧服を着ているのですが、「赤き」とは、詩の第一連三行目にあるように「赤々と毒のほめき」に「恐怖(おそれ)」「顫(ふるい)戦(おのの)く」、つまり麻薬にむしばまれた神父の内面、その「怖れ」を「赤き」と形容しています。
 神に仕え、神の言葉を伝える身の司祭が、麻薬に蝕まれて溺れる姿を、その内面と身振りをきらびやかな漢字と言葉づかいによって、象徴的に造形化した詩です。
「詩」という面から読むと、なかなかよく出来た、ほとんど完璧なまでに練り上げられた一篇です。
 しかし、ここで見ておきたいのは、詩の出来の良さではなく、かつての自分たちの歴史の遺産からなにをどう汲みとり学び自分の表現・生きかたの糧としているか、です。
 この「赤き僧正」の舞台は、詩だけを読めば、ヨーロッパの南の方のどこかの、寺院か僧院の庭とも読めます(詩の中に場所の固有名詞を特定する言葉はありません)。
 しかし、『邪宗門』という詩集のタイトルは、禁制の宗門という意味を示していますから、ここは「赤き僧正」は17世紀のバテレン、舞台は長崎か天草かどこかの南蛮寺の中庭という気配です。
 そういう自分たちの歴史の昔の出来事、それも禁制であったという秘密の匂いを漂わす出来事へ、興味を掻きたて隠微な喜びに詠っている詩です。
 バテレンの本来の役割であり任務であるイエス・キリストの教えを信じ伝えることについての関心は一切覆い隠して、バテレンが<禁制>であったことから唆かされたイメージを、彩り濃く描くことに淫しています。<禁じられてある>ことへの戦く興味。<禁制>であることによって、かえって抑えようもなくうごめきだす、ほのめく明かり。昏い官能が疼かせる誘惑。そういう禁制を犯すことによってこそ見える自由の匂い。
 彼はもともと切支丹の名残りもあったかもしれない柳川で生まれ育っただけでなく、1908(明治40)年には、平戸、島原、天草などを友人たちと旅し、キリシタンの現場をみてきています。その上でこういう「赤き僧正」のような詩を発表しているのです。
 その嗅覚の鋭さ、感性の繊細さには感心しなければならないと思います。が、結局こういう隠微な非現実の世界にしか歴史を生かせなかったことは、ちゃんとみとどけておきたい。
 現実と現実の避け難いつながりが提起する〈現実〉へ踏み込むことを回避して、想像の濃密な世界へ身を売る、という姿勢(生きかた)がここにはあります。
 これは〈現実〉を〈仮構〉の場にあずけてその〈仮構〉を〈現実〉のように思いなして無事でいようとする一つの生きかたの戦略ともいえます。現実と現実との避けがたいつながりを追っていく厳しさに倦んだ人間が見つけ出した方法といっていいかもしれない。そういう意味では、〈日本〉という風土、日本列島の上に育まれた思想風土は虚構と現実の関係をいつも逆転させ、或る〈仮構〉に現実とその概念を委ねて世界を知るという方法を醸成させてきました。象徴主義は仮構としての記号を信奉しながら決してその仮構(記号)と現実との関係を切り捨てない、その点でこの〈日本〉 の思想と詩の方法は象徴主義ではない。〈仮構〉に現実を預けて、二つの関係線を消してしまうのです。これは〈日本〉的思考法の原型といっていいかもしれない。天皇制はその典型だといえます。
 或る名辞・概念をある仮構のレヴェルで用いるとき、その概念の起源への問いは切り捨ててしまうのです。切り捨てて平気、というより、切り捨ててこそ概念は自立するように思ってしまうのです。
 少し、抽象的ないいかたとなりましたが、北原白秋の「赤き僧正」という詩一篇に見て取れる「バテレン」の扱い方に、〈キリシタン〉という現象の現実的総体をある虚構像に映し出して、その像をその概念の総体であるかのように思いなしてしまう場と方法が成立している、ということはどういうことかを考えてみたかったのです。(つづく)

ザヴィエル(その5)

「南蛮人」という言葉は「ポルトガル人」を指します。つまり、「南蛮」という言葉には「キリシタン=カトリック」の文化という意味が含まれています。ポルトガルに代って鎖国下唯一の西洋文化の交通路を維持した「オランダ人」は「紅毛」人と、江戸の人は言い分けていました。しかし、そう言いわけてプロテスタントとカトリックの宗教教理上のちがい、その歴史的意味のちがいを理解していたわけではありません。
 明治に入って、あらためて開国した「日本」が16世紀半ばから17世紀半ばの100年、日本列島に吹き寄せた「キリシタン文化」を「南蛮趣味」以外の形で遺産として復活できなかった理由もそのへんにあるようです。

 この1543年から1639年のあいだのキリシタン文化がわれわれになにを遺してくれたか、それを南蛮屏風や祇園祭の飾り、秀吉の陣羽織に見るだけでいいのかどうか。もっと考えてみる必要がありそうです。
 でも、いまのところボクには失くしてしまったものの方が大きい気がしてならないという以上のことを的確に語れそうにありません。
 禁制の高札が撤去されて、キリスト教の信仰は、(カトリックもプロテスタントの諸派でも、ギリシァ正教でも英国国教会も)自由になりました。獲得することによって喪うものが必ずあります。その喪ったものをどう考えるか。その一端を探っておくことにします。
 100年の遺産は「南蛮文化」とか「キリシタン文化」といわれて江戸時代の地層に沈み、異国憧憬として文明開化とともに復活します。それは、異国趣味から西洋憧憬への変身復活といっていいものです。その沈潜の期間が250年と長きにわたっていますから、そのあいだに「西洋」はほとんど幻想化されていて、一種の〈不在〉 の〈西洋〉への憧憬となってイメージされています。
 江戸初期にはポルトガル人を「南蛮人」、オランダ人を「紅毛」と呼び分けができていたようですが、しだいにその区別が概念化できなくなります。そこへ「毛唐(けとう)」というような言葉がはびこってきます。「毛唐」という言葉は、海の向こうの人はみな「唐人」(すなわち中国の人)だとみなしてしまおうという「異国」意識で、こういう意識の醸成が、幕末から機能し始め「日本」のナショナリズムを支えていきます。この「異国」意識と<不在の西洋>憧憬は、コインの裏表のような形で、意識に貼り付いています。
 明治の開国とともに溢れるように押し寄せる「西洋」文明、その巨大で豊饒で輻湊(ふくそう)する文明を、それを受け容れるのにまだ充分な下地を持たない精神が、なんとか嚥下し、消化しようとして、遠い昔の影を引きずり出して造形しようとした、その遠い昔の影を、たとえば北原白秋は、『邪宗門』(明治42年、易風社)のような詩に読むことができます。
 そこで7月8日の<ABC>では、『邪宗門』から一篇「赤き僧正」を選び、じっくり読んでみました。残念ながら、この三連と一行から成り、「四十一年十二月」の日付を持つ詩を、ブログにそのまま掲載することは不可能です。旧仮名遣いはともかく、旧漢字にたくさんのルビを振り、ルビと一体となって一つのイメージとメッセージを備え、字句の配置(とくに最後の一行)に至るまで気を配って、一篇の<詩>の表現体にしています。
 「赤き僧正」というタイトルですが、「僧正」と呼んで、これはカトリックの祭司=神父です。もちろん、黒い僧服を着ているのですが、「赤き」とは、詩の第一連三行目にあるように「赤々と毒のほめき」に「恐怖(おそれ)」「顫(ふるい)戦(おのの)く」、つまり麻薬にむしばまれた神父の内面、その「怖れ」を「赤き」と形容しています。
 神に仕え、神の言葉を伝える身の司祭が、麻薬に蝕まれて溺れる姿を、その内面と身振りをきらびやかな漢字と言葉づかいによって、象徴的に造形化した詩です。
「詩」という面から読むと、なかなかよく出来た、ほとんど完璧なまでに練り上げられた一篇です。
 しかし、ここで見ておきたいのは、詩の出来の良さではなく、かつての自分たちの歴史の遺産からなにをどう汲みとり学び自分の表現・生きかたの糧としているか、です。
 この「赤き僧正」の舞台は、詩だけを読めば、ヨーロッパの南の方のどこかの、寺院か僧院の庭とも読めます(詩の中に場所の固有名詞を特定する言葉はありません)。
 しかし、『邪宗門』という詩集のタイトルは、禁制の宗門という意味を示していますから、ここは「赤き僧正」は17世紀のバテレン、舞台は長崎か天草かどこかの南蛮寺の中庭という気配です。
 そういう自分たちの歴史の昔の出来事、それも禁制であったという秘密の匂いを漂わす出来事へ、興味を掻きたて隠微な喜びに詠っている詩です。
 バテレンの本来の役割であり任務であるイエス・キリストの教えを信じ伝えることについての関心は一切覆い隠して、バテレンが<禁制>であったことから唆かされたイメージを、彩り濃く描くことに淫しています。<禁じられてある>ことへの戦く興味。<禁制>であることによって、かえって抑えようもなくうごめきだす、ほのめく明かり。昏い官能が疼かせる誘惑。そういう禁制を犯すことによってこそ見える自由の匂い。
 彼はもともと切支丹の名残りもあったかもしれない柳川で生まれ育っただけでなく、1908(明治40)年には、平戸、島原、天草などを友人たちと旅し、キリシタンの現場をみてきています。その上でこういう「赤き僧正」のような詩を発表しているのです。
 その嗅覚の鋭さ、感性の繊細さには感心しなければならないと思います。が、結局こういう隠微な非現実の世界にしか歴史を生かせなかったことは、ちゃんとみとどけておきたい。
 現実と現実の避け難いつながりが提起する〈現実〉へ踏み込むことを回避して、想像の濃密な世界へ身を売る、という姿勢(生きかた)がここにはあります。
 これは〈現実〉を〈仮構〉の場にあずけてその〈仮構〉を〈現実〉のように思いなして無事でいようとする一つの生きかたの戦略ともいえます。現実と現実との避けがたいつながりを追っていく厳しさに倦んだ人間が見つけ出した方法といっていいかもしれない。そういう意味では、〈日本〉という風土、日本列島の上に育まれた思想風土は虚構と現実の関係をいつも逆転させ、或る〈仮構〉に現実とその概念を委ねて世界を知るという方法を醸成させてきました。象徴主義は仮構としての記号を信奉しながら決してその仮構(記号)と現実との関係を切り捨てない、その点でこの〈日本〉 の思想と詩の方法は象徴主義ではない。〈仮構〉に現実を預けて、二つの関係線を消してしまうのです。これは〈日本〉的思考法の原型といっていいかもしれない。天皇制はその典型だといえます。
 或る名辞・概念をある仮構のレヴェルで用いるとき、その概念の起源への問いは切り捨ててしまうのです。切り捨てて平気、というより、切り捨ててこそ概念は自立するように思ってしまうのです。
 少し、抽象的ないいかたとなりましたが、北原白秋の「赤き僧正」という詩一篇に見て取れる「バテレン」の扱い方に、〈キリシタン〉という現象の現実的総体をある虚構像に映し出して、その像をその概念の総体であるかのように思いなしてしまう場と方法が成立している、ということはどういうことかを考えてみたかったのです。(つづく)

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