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網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

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尹東柱(その2)

Y=尹東柱(その2)
 延禧専門学校を戦時学制の特例で3ヶ月繰り上げて卒業した東柱は、日本へ留学しようとします。宋夢奎も留学していて、その跡を追うように東京の立教大学から京都の同志社大学へ移ります。宋夢奎は京都大学にいましたが、下宿は同じ建物でした。その建物がかつてボクが京都にいたとき勤めていた京都芸術短期大学の分校(高原校舎)と同じ番地だったので、そのことについては1995年『死ぬ日まで天を仰ぎ―――キリスト者詩人・尹東柱』(日本基督教団出版局)に書きました。
 この本は宇治郷毅氏、森田進氏その他の人々の共同執筆です。ボクがその執筆陣の仲間に入れてもらえたのは、上記のお二人のおかげで、こうして「尹東柱」を書く仲間の一人になれたことを感謝しています。二人はどちらも韓国語に堪能、宇治郷君(いつもそう呼んでいるのでそう記しますが)は国立国会図書館の副館長を勤め、朝鮮・韓国の図書館史についても権威だけど、ボクにとっては、大学時代の同期の友達で、大学時代以来、ずっとつきあいの続いている稀な友人の一人です。尹東柱のことを発掘し、ボクに教えてくれたのも宇治郷君です。まだ伊吹郷訳『空と風と星と詩―――尹東柱全詩集』(影書房1984)が出版される前で、彼は彼で独力で尹東柱と同志社の関係を調べいわば尹東柱を発掘したのでした。
 森田進氏もボクの大学の二年先輩で、同志社大学美学専攻を卒業したあと、早稲田の国文に学士入学し、日本文学の専門家になって現在は恵泉女子大学教授。交換教授として釜山で教鞭を執ったこともあります。
 こんな肩書より、彼自身詩人で何冊も詩集を出し、韓国・在日問題のほかハンセン病患者さんの行方やありかたを追ったり、つねに〈弱者〉の生き方へ眼を配り、そうした韓国詩人、在日韓国人詩人の訳詩集、ハンセン病患者詩人の詩集も出しています。
 最近、『在日コリアン詩選集』(佐川亜紀と共編、土曜美術社2005)というのを出しました。
 ながながと二人のことを書きましたが、ボクにしてもなかなかお二人をボクに引きつけて紹介出来る機会がないので、この機会にと思った次第。あとでこのお二人の尹東柱の訳詩を紹介するので、このお二人に対するボクの積年の感謝の気持ちをこういう形でまず表明しておきたいと思います。
 お二人とも、深く尹東柱に関わっていて、宇治郷氏にも『詩人尹東柱への旅』(緑蔭書房2002)という著書があるし、森田氏は先述の『死ぬ日まで天を仰ぎ―――キリスト者詩人・尹東柱』の巻頭を氏の新訳の「尹東柱詩集」で飾っています(最近その新版を出して尹東柱の詩の部分をほとんど「全詩集」と呼んでいいものに増補しました)。
                             ☆

 尹東柱は、延禧専門学校を卒えるとき、その記念に詩集を出版しようと考えました。いままで書きためたものを集めて選び、一冊にしようとしたのですが、これは周りの人から賛成を得られませんでした。この時制下、ハングルの詩集を出すのはとても危険だったからです。で、彼は三冊だけ手書きの原稿を作り、『天(そら)と風と星と詩』と名付け、学校の恩師や友達のチョン・ビョンウックにプレゼントしました。もう一冊は自分のためです。
 この三冊のうち、教授に渡した一冊は、教授が自分の身の安全を考えて「処分」したようです。尹東柱自身が携えて日本へも持って行った一冊は、逮捕されたとき、証拠物件として押収され、京都の下鴨署か地方裁判所に敗戦のときまでは他の詩集や証拠書類と共に保管されていたはずです。日本が戦争に敗けると、尹東柱(や宋夢奎、彼も福岡刑務所で獄死します)を摘発し刑務所送りに加担した京都の特高刑事や裁判官たちは、自分の身の安全のため、それらの証拠物件を燃やしてしまったようです。尹東柱の携えていた『天(そら)風と星と詩』一冊は現存しません。
 三冊のうちの最後の一冊、これがあったばかりに、尹東柱という詩人が、朝鮮解放後、朝鮮民族の人たちに知られることになります。もちろん日帝植民地下、ハングルで詩を書き続けた「英雄詩人」として、です。
 その一冊は、友達のチョン・ビョンウックが持っていたもので、彼はそれを戦争に徴兵されるとき(この徴兵は日本政府が米英連合軍と戦うために朝鮮の若者も壮年も学生も駆り出したものです)、お母さんにこれはとても大切なものだから大事に隠しておいてくれと頼んだのだそうで、お母さんはそれを壺に入れて地中に埋めておいたのだといいます。この最後の一冊が、日本が負け朝鮮半島から退いたあと現れ、尹東柱という詩人がいたことを、朝鮮半島の人たちもはじめて知ったのでした。
 こうして尹東柱は、韓国の国民詩人となり、小学校や中学校の教科書に彼の詩が収録され、韓国で彼の名を知らない人はいないくらいです。
 彼の書いた詩のうち、日本に留学しているあいだに書いたものは、立教大学に半年間いたとき書いたもの数篇のみしか伝わっていません。もっとあったでしょうし、京都時代(10ヶ月)に書きためていたはずです。
 下鴨警察に拘留されている東柱を訪ねた従兄弟(宋夢奎とは別のいとこ)がちょうど東柱が取り調べを受けているところに出会わした回想があります。なにやら東柱は書かされていて(自分の詩を日本語にしていたらしい)、わきにどんと積まれた紙束が一尺(30センチ)以上あって、担当の刑事が、これが証拠書類だと言ったとか。
 いずれにしても、その紙束は彼が日本にきて書いた詩の束なのか、と思うとそれらが全部灰になったことを悔しく、且つ僕らの親の世代の人たちはこんな始末におえない愚かなことをしたのだ・・ということと、僕らもまた情況次第でこんなことはやってしまうかもしれないと恥ずかしく思い合わせます。
                     ☆    
 さて、この彼が、母国を去る前に、青春の一つの区切りの記念に出版しようとして果たせなかった詩集が『天(そら)と風と星と詩』でした。この巻頭に一篇の8行の短い詩があり、(7行+1行といいたい構成です)、この詩が「序」詩として、とりわけ有名です。尹東柱を少しでも知っている人なら、「ああ、あの〈死ぬ日まで・・・〉の詩人ね!」というほどです。
 この詩が日本語に訳され出版されたのが1984年。敗戦から40年も経ってやっと日本語になったのですが、その「序」詩の最初の日本訳は、「日本人」が、日本語生活者ならでこそ犯してしまった間違いを犯しています。それは、あとで申しますように、いろんな事情があって、じっくりその間違いを検討し、共有しておかなければいけないことなのです。
 その前に、これは小さなことなのかもしれないけれど、この序は、一般に『天(そら)と風と星と詩』の「序」詩といわれて通じることも問題にしておきています。たしかに「序」に当る位置にその一篇はありますが、原稿は「序」という言葉は見あたらないということです。
 それから、この「序」詩の日本語訳に検討に入る(これは「その3」でやります)前に、詩集のタイトルの日本語訳を検討しなければなりません。とくにその「天(そら)」が議論の対象になります。
 ボクは『天(そら)と風と星と詩』としてきましたが、『空と・・・』としている人もいます。原文の「ハヌル」に当たるハングルには「天」と「空」と両方の意味があります。尹東柱はカトリック教徒として生まれ、福岡刑務所に服役中も新訳聖書の日英対訳版を差し入れに頼んだりしていますから、クリスチャンであるということから「天(てん)」と訳すべきだという断固とした主張を持って訳しているのが森田進氏です。
 その通り。とも思います。しかし一方、彼の他の詩篇の中に「空」と訳してもいい「ハヌル」もあり、このタイトルは神の座す「天(てん)」でもあり星の瞬く「空(そら)」でもあるその両方のイメージを備えた(多義的なままの)「ハヌル」であるように訳した方がいいのではないか、とボクは考えたくて、今年の三月、横浜国立大学の大学院を修了するに当り、「尹東柱」で修士論文を書いた金柔政とも議論し、彼女も賛成してくれた訳として『天(そら)と風と星と詩』を選びました。
 金柔政さんによれば、尹東柱の原文は、とてもとても平易な韓国語なので、その味わいを生かすなら「そら(orてん)とかぜとほしと詩」(「詩」は原文でも漢字)としたいというほどです。
 どの訳が絶対で決定的でなければならないか、ということより、一つの訳語の決定にこんなに問題が潜んでいるということをつねに察して読むということが大切だし、そういう読みかたこそ豊かな鑑賞をさせてくれると思います。
 「ハヌル」というハングルには、「晴れた空」というときの「空」の意味もあり、キリスト教でいう「天」「天国」という意味もあり、古代の観念としての自然造化・万物創造の主、天(あめ)、加微(かみ)のことも意味し、さらにというか、したがってというべきか、自然の理、調和のような人の力を超越したものを指し、「ハヌルに任せる」、つまり「運命に委ねた」という意味でも使われる。しかも、仏教ではブッダのことも「ハヌル」というそうです。
 「ハヌル」に様(さま)に当たる「ニム」をつけると「ハヌニム」。これは直訳すれば「そらさま」か。この「ハヌニム」ということばは上帝、天帝、上天ともいった漢字がふさわしい、汎神論的神、絶対者を指して言い。キリスト教ではGodを指して使われてもいます。ついでながら、「ハナニム」というとキリスト教で「ひとつさま」という意味のGodのことです。
 「ハナニム」(ひとつさま)、「ハヌニム」(そらさま)、と「ハヌル」の音の相似性も忘れてはいけないと思います。「ハヌル」はこんなふうに多義的で、つまりハングルという言語の持っている古代性というか初原性がこういった言葉にいまも生きているということでしょうか。
 尹東柱は、直観的にその多義的初原性を愛していたのでしょう。彼の詩に「ハヌル」はしばしば登場します。それを一語で訳し通していてはいけないと思います。(つづく)

Y=尹東柱(Yun Dong Ju)その1
 ユン・ドンジュ(尹東柱)は、朝鮮半島が日本の植民地になっていた最後の時代を生きた詩人です。
 彼自身は朝鮮の解放をその眼で確かめることなく、福岡刑務所で獄死しました。治安維持法第五条違反の罪で、懲役2年の刑をいいわたされ、服役中に亡くなったのでした。日本の官憲に殺されたも同然の死にかたでした。
 彼が生まれたのは1917年11月、現在は中国国内になる北朝鮮の北方、当時の呼びかたで間島(カンド)省、和龍(ファリョン)県、明東(ミョンドン)村に生まれました。北間島(ブッカンド)地方は、一種の開拓村で、東柱のお祖父さんとお父さんが移住してきたのでした。彼はそこで幼児洗礼を受けています。家族がカトリック教徒でした。明東村がカトリック教徒の村だったといっていい村のありかたをしていたようで、その村でお祖父さんは長老の役を果たしていました。
 東柱が生まれる二ヶ月前に、同じ明東村で、従兄弟の宋夢奎(ソン・モンギュ)が生まれています。宋夢奎の名前は、尹東柱の短い生涯に大きな役割を果たした人物として記録しておく必要があります。
 なお、この1917年7月、間島地方における韓人に対する警察権が、中国から日本へ移管されています。尹東柱は、朝鮮半島における日本官憲の権力強化の一つの節目に生を享けたという意味で、なにか象徴的です。
 8歳のとき、明東小学校に入学します。その年、日本で治安維持法が公布されました。
 彼の年表などを読んでいますと、このころ(1920年)創刊された児童雑誌『こどもの生活』などを購読していたと誌されています。家庭の知的な雰囲気に包まれた環境、彼自身の10代最初の頃の関心のありかたなどを特定しようというのでしょう。幼いときから、知的で内省的な子供だったということでしょうか。従兄弟の宋夢奎が後で触れることになるように、行動的でおそらく激情的な性格だったので、よけいその対立的な構図をつくってみたいという伝記作者の願いもあるのでしょう。
 ABCの当日は、略年譜を配布しました。それをここに再掲します。つぶさに読んでいただくと、彼の生涯のアウトラインが浮かんでくるはずです。
 17歳のときに書いた詩のタイトルなど、いくつかの詩作品のタイトルを挙げていますが、17歳のは、おそらく彼の最初の作品として遺っているもの、そのほか最初に同人誌に載っけた作(と思われるもの)、公共の雑誌に載った最初の作品など、タイトルを挙げておきました。ここに挙がっているものは最後にブログの付録にします。金柔政訳「尹東柱抄」(もちろん当日お配りしました)に入っておりますので、読んで下さい。
                            ☆
尹東柱略年譜

1917 11 30  間島(カンド)省和龍(ファリョン)県明東村に生れる。戸籍は1918年生。幼児洗礼を受ける。
09 28   従兄弟宋夢奎(ソンモンギュ)誕生。07 間島地方の韓人に対する警察権が中国官憲から日本官憲へ移管。
1919 03 01  独立運動。 03 13龍井(ヨンジョン)で独立運動宣言大会。
1928 12   (6歳)妹恵媛(ヘウオク)誕生。
1925 04 04 (8歳)明東小学校入学。O5 08 治安維持法公布。
1927 12   (10歳)弟一柱(イルジュ)誕生。1928〜30『こどもの生活』(1926〜44.1)など購読。
1931 03 15 (14歳)明東小卒、大拉子(ターラーズ)の中国人小学校6学年編入学。
1932 04   (15歳)龍井の恩真中学校入学(宋夢奎とともに)。03 満州帝国建国宣言。
1933 04    (16歳)弟光柱(クワンジュ)誕生。11 朝鮮語学会、ハングル綴字法統一案発表。
1934 12 24 (17歳)「生と死」「蝋燭一本」「明日はない」
1935 09 01 (18歳)平壌の崇実中学校3学年編入。「空想」(『崇実活泉(ユンシルファルチョン)』15号)。
       宋夢奎は4月頃家出、南京で独立運動に参加、翌年帰郷逮捕。要視察人となる。
1936 03 末 (19歳)崇実中、神社参拝問題により廃校、光明学園中学部4年編入。
      「ひよこ」「ほうき」(『カトリック少年』11、12月号)。
1937   (20歳)「しょうべんたれの地図」「なにをくってくらす」「うそ」(同1、3,10月)。
      進学問題で父と対立。祖父の仲介で文系を選ぶ。
1938 02 17 (21歳)光明中卒。04 09延禧(ヨンヒ)専門学校入学(宋夢奎も一緒)。
   02 朝鮮陸軍志願兵令公布。  03 朝鮮教育令改定、中学校の朝鮮語教育廃止。
1939    (22歳)「月を射る」(散文)「遺言」「弟の印象画」(詩)(『朝鮮日報』学生欄)。
11 創氏改名令公布、1940 2 11 施行。
1941 12 17 (24歳)戦時学生短縮により延禧専門学校4学年を3ヶ月繰上げ卒業。
         「天(そら)と風と星と詩」自費出版の試み。平沼と改姓。
1942 01 24 (25歳)「懺悔録」。日本へ発つ前の一ヶ月半を故郷で過ごす。
04 02 立教大学英文科入学。4〜6「やすやすと書けた詩」他。夏休み帰郷。
10 01    同志社大学英文科入学。 08朝鮮総督府、延禧専門学校を接収、日本人校長を置く。
1943 07 14 (26歳)逮捕。(07 10宋夢奎逮捕。)12 06 検察送り。03 朝鮮に徴兵令公布、08施行。
1944 04 13 (27歳)治安維持法第5条違反の罪により懲役二年の刑。福岡刑務所へ。
    01、前年10月実施の朝鮮学徒兵制により韓人学徒兵入営始まる。04 総督府、学徒動員体制確立。
1945 02 18    福岡刑務所内で死去。
                           ☆

 尹東柱は、21歳になる年、明東村を出てソウル(当時は日本の朝鮮総督府によって京城と名付けられていました)へ出てきます。延禧(ヨンヒ)専門学校に入学します。進学問題でお父さんと争った末に獲得した文学へ道を進むのですが、このとき同時に従兄弟の宋夢奎も延禧専門学校に入っています。
 宋夢奎は尹東柱と一緒に育った兄弟のような間柄ですが、性格、感受性はずいぶんと対照的だったようで、略年譜にも期しておきましたが、宋夢奎は18歳のとき家を飛び出し、南京(ナンキン)へ行って中国の独立運動に参加していたようです。返ってきたところを逮捕され、「要視察」の身分になっています。おそらくその後も(もちろんそれまでにも)、朝鮮のおかれている情況やなにをなすべきかなどについて東柱のといろいろ議論したことでしょう。宋夢奎は尹東柱の生涯に、その生活に影のように連れ添っています。もし、宋夢奎がこんなふうに尹東柱のかたわらにいなかったならが、尹東柱の治安維持法違反による逮捕はなかったかもしれません。
 それほど、夢奎は東柱の傍にいたのですが、それにしては、東柱の遺した詩や文章に政治的なメッセージがないのは不思議なくらいです。
 尹東柱が遺したもの、それは詩だけだったといっていい(ほんの少し文章がありますが、それも散文詩といっていいような短い詩的な文章ですから)。その詩はハングルで書かれています。1938年3月、すでに植民地朝鮮での中学校の朝鮮語(母国語)教育は朝鮮総督府によって禁止・廃止され、翌年には「創氏改名令」が公布され、朝鮮の人たちは朝鮮という土地に生まれ住んでいながら日本語で読み書きし日本式の姓を名乗らされ、日本語の発音で姓を名乗らなければならなくなっていました(尹東柱は平沼東柱と名乗ります)。ハングルで、授業をやり文章を公表すれば、日本軍の憲兵がやってきて引っ立てていく情況におかれたのです。
 そんななかで、ハングルで詩を綴るということは、きわめて危険なことですが、詩自体に直接反日本支配へのメッセージを籠めたものはありません。尹東柱が遺したものは詩だけだった、というとき、その詩は叙情詩だけだったといいかえることができます。
 彼の遺したものといえば、ほかに蔵書があります。日本語の本で、当時の昭和十年代の哲学、キルケゴールとか(ゴッホの伝記や画集ももっていました)、堀辰雄、三好達治ら四季派の詩集、その堀や三好の背景だったフランシス・ジャムやリルケの訳詩集などありますが、マルクス・レーニン主義関係の本はありません。(つづく)

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