木下長宏のウェブログ

網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

Z=張彦遠(その3)

Z=張彦遠(その3)

『歴代名画記』は、「全十巻」から成り立っていますが、その巻号の数えかたは、現代の巻数の立て方の論理とまったく違います。なので、この巻号に従って内容を説明していくのは現代のわれわれにとってはむしろ不都合が生じるといってもいい。そこでボクは、各章の頭に(巻号数を度外視して)、カッコ付きで通しナンバーをつけました。
こうすると、この本は全16章から成り立っていることが判ります。そのうち第(16)章は全体の半分以上を占める分量で、その(16)章のなかの各時代に番号をつけるとバランスよくなります。
最初に目次風に掲げたところでは煩雑になるので控えましたが、ここでは巻四以下巻十までの「歴代能画の人名を叙ぶ」の時代を再掲して、章分けナンバーをつけておきます。
(16)軒轅の時
(17)周
(18)斉
(19)秦
(20)漢
(21)後漢
(22)魏
(23)呉
(24)蜀
(25)晉
(26)宋
(27)南斉
(28)梁
(29)陳
(30)後魏
(31)北斉
(32)後周
(33)隋
(34)唐朝上
(35)唐朝下

つまり、『歴代名画記』は全体で35章から構成されていると考えるのが判り易いといえましょう。
それでもまだ、(3)は(16)以下の目録、目次のような役割を果たしている章で、現代の本の作り方とずいぶん違和があります。中国の人民美術社から出している刊本では、そのへんも合理化して(3)を(16)の前に置いたりと編集しなおしていますが、ボクはこういう現代の感覚からみたら不合理にしか見えない本の構成の仕方に、昔の人の(現代人には伝わり難い、ちょうど大人になってしまった人間には聴こえない高周波の音声が伝える)考えと感覚の働きが隠されていて、それはひょんなきっかけで(プルーストの紅茶のように)、われわれの鈍感さを思い知らされるかもしれないと思い、あまり「現代」の立場から合理化してしまいたくないと考えます。
で、(3)は(3)で置いておきます。
もっとも、日本で刊行されてきた注釈書はすべて、「原本」のスタイル・形式を尊重してきて(3)と(16)以下は離れたまま編集していますから、原本の原形を大切にするという考えは日本の学者たちはよく心得ているようです。
そのあまりなのでしょう、訳文が江戸伝来の読み下しによる和漢混交スタイルを護りすぎていて、現代人に壁を作ってしまう結果になっている。古いものを尊重しようとして現代に自分たちの生きている場から隔たっている結果を招いているわけですが、しかし、そういう枠の中で、この頑固な学者たちはそれなりに現代を生きていると信じた註釈をやっているのですから問題は複雑です。
ちょっと脱線してしまいました。内容概略に進みましょう。

                    ☆
第(1)章は「画の源流を叙ぶ」。
とにかく、『歴代名画記』の中でいちばん有名な章です。絵画の起源と効用について書いているのですが、この「起源」と「効用」を別々の問題としない視点に注目しておきたいと思います。
この章は、あとでボクの新・現代語訳を紹介します。
(2)は、「画の興廃を叙す」。
(1)で絵画の人間世界・政治のありかたにどんなに重要であるかを解いた上で、その絵画は、どんな運命を辿ってきたか――ということは、時代を動かしていった人たちにどのように扱われてきたか、その歴史を略述して行きます。
後半は、張彦遠の父祖張家の所蔵の経緯です。そして、多くの名書画が燃えたり盗まれたりして失くなっていったことと、それでもなお埋もれて名のたたえられていない者もいる、これまでいくつか名画記は書かれているが不充分である。自分が改めて筆を執る理由もそこにあり、とにかく見聞きしてきたところを誌しておこうと結び、年記が入っています。「時に大中元年、丁卯の歳(ひのとうのとし)」。大中元年は西暦に換算すると847年です。
こうして(1)(2)で全体の著述の「序」を呈している形をとります。
(3)では、自分が綴る『歴代名画記』に取り上げる画家の名前を太古から現代まで選んで羅列します。まずは名前だけ並べて、そのコメントは巻四、つまり(16)以降に記述するというやりかたです。
そして、画を能くする画人たちの名を時代順に並べたあと、絵画の本質、優れた絵画が備えておくべき資質について述べるのが(4)「画の六法を論ず」です。
「画の六法」については、すでに謝赫(南斉代の人、479A.D.―502)が『古画品録』の中で言っているところ。張彦遠はそれをさらに深め、顧凱之の例などと比べて展開します。
しかし、張彦遠がここで画の六法を論じたことによって、東洋画、中国画の条件としての「六法」ととくにその神髄としての「気韻生動」が伝統として定着し、その伝統は蜿蜒と生き延びていきます。
その「画の六法」の思想が、どんなふうに変化していったかは、のちほど改めて考えます。
(5)章は「山水、樹石を画くを論ず」です。
「山水画」は、いまは「風景画」と読んでいるわけですが、ここで張彦遠は、山水画が主題になるのは中国の絵画の歴史でもそんなに古くはない(隋の頃からだ)と書き、ほんとうに「山水画」というのが登場するのは、唐の呉道玄(つまり、張の同時代)からだといっています。ということは、「樹石」を描くという問題も同時代の問題であるということです。「山水」「樹石」を描くという問題は、張彦遠にとっては「現代美術」の問題だったのですね。
(6)章。「師資伝授と南北と時代を叙ぶ」。ここでは、絵画を論じるための方法論のためのキイワードとして「師」「資」の「伝授」と「南北」(地域)「時代」という概念が必要大切だと語っています。
「師」はいうまでもなく、ある絵師がどんな先生から習って自分の画風を確立したか、をきちんと見定めることです。
張彦遠は、その「師」弟関係を、画家の「資」質に重点を置いて考えようとしていて、じっさいに師弟関係にあったかどうかが問題なのではなく、その絵に、そしてその画家が絵を描くに当って、どんな先達から技術や思想を学び会得したか(現代風に言えば影響関係ですね)、その関係でみるべきだとしています。
「南北」というのは、黄河流域の北と揚子江以南と考えていいと思うのですが、大陸の「南」と「北」で画風がちがうことを語っています。同時に古居中国では「南北」という言葉が「国土」という意味で使われることもあるようです。
「時代」は、いうまでもなく「歴史」ですね。
こうして、地域(空間・国土)と時代(歴史)の特色をそれぞれに理解しようとしている張彦遠です。(1)章で、「絵画」の起源を考え、(2)で絵画受容の歴史を叙べ、(3)で歴代の画家の名を列挙し、(4)で絵画成立の根本原則(美学)を確認し、(5)で当時の「現代」絵画の位置を測定し、(6)で画家とその作品を論ずるための概念規定をしているわけです。
つまり、この本は、美学と芸術論、美術史を一巻にした本なのです。
その上で、もう一つ大切なことは、彼にとって(というより当時の中国の絵画を論じる人たちにとって)、「絵画の本質を論じる」ということ、そして「絵画の歴史を論じ」「絵画の出来を批判」することは、とりもなおさず「絵画を鑑定する」ことだったということです。
本質論と歴史記述と批評と鑑定が一つに混然としていたこと、これが東洋の古典的絵画論の最大の特徴です。
(つづく)

Z=張彦遠(その2)

Z=張彦遠(その2)
                     ☆
張彦遠 Shong Yanyuan は唐の時代の人ですが、生没年もはっきりしません。元和10(815)年ごろに生まれ、乾符元(874)年かそれ以降に没したと考えられています。
唐王朝の貴族、名門一族に生まれ育ったことは、その著書『歴代名画記』のなかに書かれています。祖先は絵画や書の大変な所蔵家だったのだけれど、張彦遠が幼い頃、宦官(かんがん:古代中国の宮廷に仕えていた去勢された役人で、低い地位の割に政府を動かすほどの実力を発揮した存在でした)に謀られてその貴重なコレクションが宮廷の所蔵に帰した、と書いています。
その著者ですが『歴代名画記』と『法書要録』が主著として伝わっています。詩集などもあったとされていますが、刊本も断片も伝わっていません。ほかに『榻本楽毅論記』とかものこしています。また『名画猟精録』全三巻という著書があり、これは『歴代名画記』の初期稿ともいえるもので、この翻刻は後で紹介する谷口鉄雄編『校本歴代名画記』(中央公論美術出版1981)に収録されています。
『法書要録』は日本では出版されていません。なんといっても張彦遠といえば『歴代名画記』で、この本は日本では古くから知られていました。大正4(1915)年、今関寿麿という人が『東洋画論集成』上・下全二冊の分厚い本を出しています(読画書院、のち覆刻版が1979年講談社)。この巻頭に『歴代名画記』の初めの部分が収められています。そのテクストは、江戸時代の人が漢籍を読むとき、声を挙げて朗誦しました、そんな漢文読み下しの文体で収録されていて、原文の漢文は載せられていません。
その後、アンソロジーはいくつか出ていますが、全文を訳し註を入れたものは、1938(昭和13)年、岩波文庫(小野勝年訳註)から出ました。この岩波文庫版は、前半に読み下し文が収録され、後半に原文(漢文)が納められています。
平凡社の東洋文庫に『歴代名画記』全二冊(長廣敏雄訳註)が入るには1977(昭和52年)。この本はまず読み下し文を置き、さらにそれを現代日本語にかみ砕いて、そのあと解説註釈をしていますが、原文テクストは入っていません。
 原文テクストの註釈を徹底的に試みたのが谷口鉄雄編『校本歴代名画記』(中央公論美術出版、1981〔昭56〕年です)。しかしこんどは逆に漢文の原文のみで、一般の読者には読めない専門書になってしまいました。
そのほかのアンソロジーにしても、読み下し文であれば日本語の判る人は読めるだろうという構えで貫かれていて、なかなか「現代」の日本語使用者にはとっつき難い本になってしまいました。平凡社の東洋文庫には読み下し文のつぎに現代日本語訳をつけているのに、その日本語が、テニヲハを現代風にしたというだけで、原文に出てくる漢字熟語などもそのまま。これでは「現代日本語」とはいえないと思います。
そこで、いまや新しく現代日本語に翻訳し直した『歴代名画記』が必要なときにきているという気がします。その理由は、この本は中国唐時代に書かれた絵画論で、東洋画論、東洋芸術論としては意義深い本かもしれないが、内容は現代にはふさわしくない、というのではなく、現代??ポストモダンを通過し、ヨーロッパ近代文明の崩壊を経験した現代にあって、あらためて「芸術とはなにか」、われわれの過去の遠い時代にどんな遺産があったのか、それは現代にあってどんな意味を持つのかを考え学ぶのに、非常に重要な書物であると思うからです。
 そのためには、これまで公刊されてきたような中国学者による漢文読み下し風のテクスト(結局漢文の教養を身につけていないと読めない文)で事足れりとするのではなく、もっと原文を現代の日本語の地平へ呼び込んだ『歴代名画記』を共有しなければならないという気がします。そこで今回のABCでは、時間の許す限りそういう試みをやってみました。そのときお配りした『歴代名画記』の巻頭(この本のいちばん有名なところ)の、木下による「新訳」をブログに掲載しようと思います。が、その前に、『歴代名画記』の内容をざっと紹介しておく必要があります。

                       ☆
『歴代名画記』全十巻は、つぎのような構成です。
『歴代名画記』目次
(1)巻一 画の源流を叙ぶ
(2) 画の興廃を叙ぶ
(3) 歴代能画の人名を叙ぶ
(4) 画の六法を論ず
(5) 山水、樹石を画くを論ず
(6)巻二 師資伝授と南北、時代を叙ぶ
(7) 顧陸張呉の用筆を論ず
(8) 画体、工用、搨写を論ず
(9) 名価と品第を論ず
(10) 鑑識、収蔵、購求、閲署を論ず
(11)巻三 古よりの跋尾と押署を叙ぶ
(12) 古今の公私の印記を叙ぶ
(13) 装背と標軸を論ず
(14) 両京、外州の寺観の画壁を記す
(15) 古の秘画を述ぶ
(16)巻四〔歴代能画の人名を叙ぶ〕
一軒轅の時、周、斉、秦、漢、後漢、魏、呉、蜀
   巻五 晉
   巻六 宋
    巻七 南斉、梁
    巻八 陳、後魏、北斉、後周、隋
    巻九 唐朝上
    巻十 唐朝下

                       ☆
頭に( )入りでつけた数字はボクが便宜上つけたものです。
(8)の巻四以下は(3)で「歴代能画の人名を叙ぶ」(優れた画家の名前を挙げて説明する)と題して挙げた、古代(歴史の始まり)から張彦遠の同時代までの画家373人のうち371人をとりあげ紹介します。原本はタイトルがつけられていないので〔 〕で括っておきました。
この巻四(16)と(14)の「両京(西京=長安と東京=洛陽)、および外州(都の外)にある寺院の壁画について」と(15)「古(いにしえ)の秘画と珍画(貴重な名画)について述べる」(註)が、まさに「作品のない美術史」です。すでに作品はこの世から消えてしまっているのだけれど、その作品と画家たちの凄さすばらしさについて、その張彦遠の記述から汲み取れるかぎりのことを汲み取りたいと思います。このときこそ、われわれの想像力がいちばん発揮されなければならないし、発揮されることによって、「美術史」だけでなく現代における「制作」の現場を生き返ってくると思います。
今回のABCでは、この巻四をじっくり読む、いいかえれば巻四の新訳を試みるところまでいきませんでしたが、いつかやってみたいと思っています。
                     ☆
(註)この「古の秘画と珍画を述ぶ」は一章として立てるより(14)のなかの一節として扱ってもよく、どちらをとるかそれ自体研究者の間では議論できそうですが、とりあえずボクはこの章を独立した章として数えておきます。
                     ☆
さて、次の(その3)では、『歴代名画記』の全体の略要を紹介することにしましょう。
(つづく)

開く トラックバック(1)

ごぶさたしました。

<土曜の午後のABC>第一期を9月9日に終えましたが、報告の原稿、ここにようやく<Z>の第一回をお送りします。怠けていたわけではないのですが、9月10月となにやら忙しく、遅れてしまいました。informationも「残暑お見舞い申し上げます」のままになっていたのには、汗顔の至りです。
第二期を始めるまでの10月11月は、BankARTのスクールで「美術批評入門」の講座をやっていますが、<Z>の報告は極力はやめに仕上げて、ほんとの意味で「第一期を無事完了しました!」と申し上げたいです。
さて、ともかく<Z>の(その1)をアップしましたので、<Z>の集まりがあった直後、久世さんからもらっていたメールを掲載します。

            ☆

『歴代名画記』の「画の源流を叙ぶ」の部分は読んだつもりでいたので
すが、まだ読みが足りなかった、と反省いたしました。

ところでやはり、最も面白いのは「作品のない美術史」という点である
と思います。
(日本の場合には『本朝画史』や『古画備考』もそうですね)
明治以降は基本的にそこから「作品にもとづいた美術史」へと向ってい
くわけですが、少なくとも戦前の間は二つの価値観の間を行きつ戻りつ
しているのがまた興味深いと思います。

ご存知のように岡倉自身も「六朝画家の史伝に存するものすこぶる多し。
しかれども漢代と同じく、その画伝わらざるをもって、またその事蹟を
述ぶるの要なし」とする一方、「中に最も有名なるものは、顧、陸、張、
呉と称するものにて、呉は呉道玄にして唐代にいたりて支那美術を大成
す。(略)これらはその画なしといえども、唐代に直接の関係を有する
ものなれば略伝を述べん」と言っています。

『国華』の記事も、たびたび「伝承はあるが作品のない画家」と「作品
はあるが伝承のない画家」との間でゆらいでいます。

そして、1920年代に漢代の漆画や遼代の壁画が発掘されるようになると、
逆に今まで文献だけで現存しないと思っていた古代の絵画が見られるか
もしれないということに期待を寄せるようになります。

このように見ると、西洋人による最初の中国絵画目録(Chinese Painting:
Leading Masters and Principles, 1956)を作成したオズヴァルド・シレン
がその序文で、宋代までは疑わしい現存物よりも書かれたものの方が重要だ
と述べているのは興味深いことだと思います。

余談になりますが中国絵画に多い模写や所蔵印なども、制作史を重視す
る立場から言えば厄介な(あるいは真贋鑑定だけが問題となる)もので
すが、受容史を考える上では非常に興味深い。
しかしそれが可能になるにはまだかなり長い時間を有するような気もし
ます。

長くなりました。
それでは少し先になりますが、第二期も楽しみにしております。
ご自愛専一に。

久世 夏奈子
                ☆

ボクの<Z>の報告の、とくに(その1)を補強してくれる力強い発言です。
(模写と所蔵印の話は、『歴代名画記』のなかにでてきます。そのことについては、いずれ紹介することになるでしょう。)
kinoshita

張彦遠(その1)

<土曜の午後のABC>          Z                            09 09 06

                 張彦遠 Zhang Yanyuan

<土曜の午後のABC>も、今日で第一期の最終回です。Zの回ですが、Zは、当初の予定通り<張彦遠>。その主著『歴代名画記』を取り上げたいと思います。先日、ブログのインフォメイションでお知らせしましたように、今日のサブテーマをつぎのように出して、話を進めていければと願っています。

  『歴代名画記』――作品のない美術史
   あるいは、作品がみられない/作品で実証できない美術史

こういういいかたをすると、そんな美術史は成立しえないのではないか、美術史というのは作品があってこそ可能なのだ、とまなじりをつりあげて怒る人がいるにちがいありません。それは、まさに「美術史」の専門的な教養を身につけた人ならではの発言といえます。まず作品があって、その作品を味わい、分析するところから「美術史」は始まる、作品のないところに「美術史」はありえない。――それは、そのとおりです。
しかし、そういう「美術史」という学問は、近代に入って誕生した、人類史の長い歴史のなかでは、極めて若い人文科学の一分野です。そういう情況と歴史を担った学問の方法意識に、「美術史」ととりくむ人間はいやおうなく且つ無意識のうちに呪縛されています。「作品のない美術史など成立し得ない」と怒るひとの頭脳は、そういうふうに呪縛されていることに無自覚で、現在の自分たちの会得している方法と概念に頼り切っている発言であることに気づいて欲しいと思います。
さらにいえば、そういう近代の学問の方法と概念から自由になった「美術史」は可能か、と思いを馳せてみることを、現代の「美術史」に関心を持っている人たちに呼びかけてみたいと思い、こんなテーマを立ててみました。
作品がまずあって、それを検証することから学としての「美術史」は始まるというとき、眼に見、見た=観察したという方法を基礎に、分析実証された事象の実例と論理を構築して「歴史」は書かれねばならない、これが「歴史」を記述することの根源的な方法であるという信念がその発言を支えています。しかし、この信念は意外にもろく裏切られます。手元にある実例を充分に吟味し調査分析して組み立てられたある歴史上の「事実」が、たった一つの新しい「事象」の発見のためにすっかり書き換えられねばならなくなる、というようなことはよくあります。書き換えられるということは、いま、自分たちが普遍的に共有していることと信じていた「事実」と「概念」が崩れるということです。僅か一つの新事実の発見でそういうことが起りうるのです。それは、いま、「普遍的な真理を語っている」と思っている「美術史」にもいつ振りかかかってくるかもしれない問題です。
とくに古い時代の歴史については、眼にし得る事象(作品)だけでは<歴史>にならないと心得て「美術史」に取り組むべきだといえます。いつ、どこから、せっかく組み上げた論理を裏切るような「新事実」が発掘されるか、わかりません。それでも、われわれは、<いま>の時点で<美術史>を語らねばならない。現在手にし得た史料(事実)でもって、考えられ得る事柄を、責任をもって語らねばならないのですが、そのとき、いま、自分が語っていることを、少なくとも、<近代の呪縛>に埋没し安住しているところから、ちょっと身をずらした姿勢で<美術史>を考えることができれば、「美術史」はもっと豊かになると思います。(これは、すべての「学問」についていえることでしょうけど…。冥王星が惑星の一員から外されたということで、このあいだはマスコミが大騒ぎしていましたが、そんなに騒ぐことはないない、13番目の惑星といわれようといわれまいと、その星――自分で光を発光できないで輝いている星――は、太陽の周りを回り続け、その質量の構成にはなんの変化も及びません。
だから、われわれに必要なのは、作品がみられなければ美術史を書けない、考えられないという立場から、自身(美術史を考える者)を解放することであります。そのとき、「作品のない美術史」の意義が浮上します。
「作品のない美術史」とうのは、作品を実見できないけれど、その作品について記述された言説を読んで美術史を考えることです。書かれた文字からだけで作品を想像復元することといいなおしてもいい。これは、同時に、そういう見ることのできない作品がある時代のある人間によってどう語られているかを考えることにほかなりません。
じつは、われわれは、ついうっかりそのことを忘れていますが、眼に見える作品による美術史(現行の美術史です)を読みながら、じつはたいていの場合、いまや見ることの出来ない作品について書かれた言説を読んでいるのとほとんど変らない読みかたをしています。「見える」という安心感に支えられて、じつは、ほんとうは「見て」いない。「見える」ことができるということで、逆に「見る」ことを放棄している、あるいは怠けて平気でいられる――これが、現代です。
その意味で、「作品のない美術史」を考えるとことは、現在という情況のなかで<美術史>を考えるときとても重要であり役に立つはずです。われわれはいつでも、作品が見える状況にいても、作品が見えない位置で美術史を読み、美術史を活動させているのですから。それを、しらずしらずのうちにやっているのですから、そのことにもっと自覚的にならなければ、ということです。そうすることによって、現状よりはるかに批判的な、豊かな<美術史>を手に入れることができるにちがいありません。
(つづく)

全1ページ

[1]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事