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昨日の横浜トリエンナーレで、小沢剛さんと組んだトークイヴェントで配りましたメモを(一部修正を加えて)「内容報告」にアップしました。
分量が結構あって、二回に分けています。読んでください。
8月21日 kinoshitan
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こんにちは、ゲストさん
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昨日の横浜トリエンナーレで、小沢剛さんと組んだトークイヴェントで配りましたメモを(一部修正を加えて)「内容報告」にアップしました。
分量が結構あって、二回に分けています。読んでください。
8月21日 kinoshitan
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2017年8月20日横浜トリエンナーレの会場で、このトリエンナーレに出品している、小沢剛さんとのトークイヴェントに参加。その時に配ったメモをアップしておきます(当日配ったものに少し加筆しています)。
小沢剛「帰ってきたK.T.O.」から読める「岡倉」像
それは「挫折者OKAKURA」である。
その挫折は、当時の日本近代化の主流からはぐれた・外されたことにある。
東京美術学校の主導権を剥奪され、国立博物館の主導権も奪われ、「日本美術史」出版の
構想編集執筆の場も奪われた。
それに代わる事業として、日本美術院を設立したが、
経営はうまくいかなかった。
日本は、自分は、どこへ行くのだろうという不安と問いへ、答を探す旅。それが、唐突に思いついたインド旅行だった。その旅の内面のドラマを、歌と映像と看板絵による大きなインスタレーションに仕掛けたのが、小沢剛作「The Return of K.T.O.」 である。わたしたちは、この作品の前で(作品に囲まれて)ひとりの挫折者の心の動きに共鳴できればいいので、それ以上の理屈は要らないかもしれない。しかし、このインスタレーションは、見る人に、岡倉覚三–天心をモデルにしていることを否応なく考えさせ、同時に「岡倉覚三–天心」とは時空的に直接関係しない人びと(現代のインドの若い歌手たち、インドの町や村に暮らす人たち、そこの風景、息遣い、それを観、聴いている現代日本列島に生きるものetc.)のことへも思いを誘い、そちらの方へどんどん思いを広げさせながら、再び「岡倉覚三–天心」をめぐる歴史上の問題を考えるところへも連れていってしまうことも確かだ。
また、そのタイトルの「帰ってきた…」という言葉も、いろんなことを考えさせる。
現在、もはやわれわれは、シンプルに「帰って行く」ところなどないからである。
今回の小沢さんの作品は「帰ってきた」シリーズの4作目である。
その問題についてもいろいろ考えたいが、今回は、この作品の「K.T.O.」が指し示す
「岡倉覚三―天心」に注目する。
岡倉の挫折は、紛れもなく、歴史上の出来事であるからである。
もちろん、そんな歴史上の出来事を知らなくても、わたしたちは「K.T.O.」の挫折とその回復の
ドラマを、この作品から堪能できる。
が、また、そういう事実をさらに追求し学んでみることも、
小沢剛作「帰ってきたK.T.O.」の作品が持つ磁場のうちにある。
歴史の問題としての「岡倉覚三―天心」をめぐる問題について、少しメモする次第である。
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岡倉覚三 OKAKURA KAKUZO と岡倉天心 OKAKURA TENSHIN
20170820 木下長宏
いまでは「岡倉天心」が通称となっている「岡倉覚三」。「天心」という呼ばれかたは、亡くなって法名につけられたのが始まりだった。
その後、弟子たちが日本美術院を再建(再興)しようとして、「岡倉先生」の祠を谷中の新しい敷地に建立。これを「天心霊社」と名付けた。彼らはそれまで「岡倉先生」と呼んでいた習慣を「天心先生」と呼ぶように改めた。そのころ日本は戦時体制に入り、満州国の建国に介入、中国大陸侵略から対米英戦争へと戦線を拡大していった。その時に掲げられた国家スローガンが「大東亜共栄圏」「八紘一宇」などで、岡倉が明治36年(1903)に英文著書(邦訳名は『東洋の理想』原題 Ideals of the East )に書いた「 Asia is one. 」が「 Asia is One 」(東京藝術大学前庭の「天心」像の背板)、「アジアは一なり」(茨城県五浦旧岡倉邸の中庭にある碑)と改作され、「大東亜戦争」の正当性を明治時代に唱えた先覚者として称揚され、戦争を賛美する文化人たちにもてはやされた。これは創作と言ってもいい。なぜなら、岡倉は生前Asia is one.と一度書いたが、Oneとは書いてないし、日本語で「アジアは一なり」とも「一つ」とも一切書いていない。この句をその後の10年亡くなるまで再び口にすることもなかったからだ。
戦後になっても、「天心」という呼びかたは撤回されなかった。戦時下の「国粋主義者」「大アジア主義者」は消去し、「近代日本美術の開拓者・岡倉天心」「美と芸術の国際化に貢献した先駆者・岡倉天心」etc.として今日に至っている。戦中から戦後へ、「天心」と呼ぶことによって、岡倉覚三を神格化し神話化していることには変わりない。ここにはどんな問題が隠されているだろうか。それを考えるには「岡倉覚三―天心」という人物を、「岡倉覚三」の時代(生前)と「岡倉天心」の時代(没後)の二つの時代に分ける必要がある。
□岡倉覚三の時代
●第Ⅰ期(1863〜1880[文久三〜明治13]17年間)
誕生、少年時代から東大卒まで。新時代「明治」のために胸を膨らませ勉強に励んでいた時代。
●第Ⅱ期(1881〜1889[明治14〜31]18年間)
文部省に就職。帝国博物館(現東京国立博物館)の運営と東京美術学校(現東京藝術大学)の創立に従事。古社寺調査のため日本列島の諸社寺を歴訪。「日本美術史」記述を試みようとした(これは東京美術学校で「美術史」の講義をし、帝国博物館から「日本美術史」を出版する計画へと展開。そのために中国大陸を横断する美術調査旅行(1893)を敢行するまでに至った)。
東京美術学校創設に当ってはフェノロサ、狩野芳崖、橋本雅邦らとの出会いがある。菱田春草、横山大観、下村観山らがそこから育つ。
●第Ⅲ期(1898〜1901[明治31〜34]3年間)
日本の伝統工芸美術を近代化させて新しい「日本美術」を創生する教育機関としての東京美術学校校長(創立時の幹事職から在職期間約10年5ヶ月)の座を追放され(同時に、帝国博物館理事・美術部長の職も奪われ)、私立の日本美術院を創立、新しい「日本画」を創生しようとしたが、結局思い通りにいかなかった時代。
●第Ⅳ期(1901〜1903[明治34〜36]2年間)
経営芳しくない日本美術院を放置してインドへ旅行。一年間滞在。日本文化(美術)の源泉が「儒教(孔子)」と「道教(老子)」「仏教」の三つにあるという考えに到達。アジア文化の大きな広がりのなかで、「日本」を見つめる眼を確立した時代。
●第Ⅴ期(1904〜1913[明治37〜大正2]9年間)
ボストンへ渡り、ボストン美術館に勤務。日本とアメリカを5回往復(船で)。日本とアジアの美術のありかたを世界的な拡がりのなかで考え始めた時代。
(次に、続く)
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生前に書いて出版された本は3冊。全て自前の英文で、
The Ideals of the East (東洋の理想)1903
The Awakening of Japan (日本の目覚め)1904
The Book of Tea (茶の本)1906
□岡倉天心の時代
●第一期(1913〜1945[大正2〜昭和20])
1913(大正2)9月2日岡倉逝去。9月5日谷中斎場で葬儀。法名「釈天心」。
1914(大正3)9月2日一周忌に再興日本美術院開院式。「天心霊社」建立。
1922(大正11)日本美術院編『天心全集』刊。
1929(昭和4)The Book of Tea (茶の本)の本邦初訳が岩波文庫から刊行(村岡博訳、著者名は「岡倉覚三」)。
1931(昭和6)12月6日東京美術学校前庭に「岡倉天心銅像」(平櫛田中作)除幕式。背板にAsia is One」。
1932(昭和7)清見陸郎「大アジア主義者岡倉天心」(『公論』)。
1934(昭和9)清見陸郎『岡倉天心』(最初の伝記)刊。
1938(昭和13)雑誌『新日本』2月号特集「日本の自覚・先覚者研究の一、岡倉天心」に、保田与重郎、浅野晃、岡倉一雄ら寄稿。
同年 岡倉の遺品の中から出てきた英文ノートを邦訳し『理想の再建』と名付けて刊行。
同年10月 その邦訳を『東洋の覚醒』と変更して出版(浅野晃訳)。
1940(昭和15)その『東洋の覚醒』の英文版を“The Awakening of the East”という題に変えて刊行。
1941(昭和16)土方定一『天心』アトリエ社刊。
1942(昭和17)保田与重郎『日本語録』に「アジアは一つだ」。
同年 富田常雄『亜細亜は一なり』(小説)。
同年「岡倉天心偉績顕彰会」創立。五浦旧邸に石碑「亜細亜は一な里」(大観筆)。
1943(昭和18)内務省情報局編刊『アジアは一つ』(大東亜会議代表演説集)。
1944(昭和19)日本文学報国会編『定本国民座右銘』(朝日新聞社刊)に「アジヤは一つ」(浅野晃解説)。
●第二期(1946〜現在[昭和21〜平成29])
1946(昭和21)3月 塩田力蔵「天心先生を中心にして」(『古美術』16−3)。
同年9月 院展戦後第一回展。
1947(昭和22)林文雄「岡倉天心への批判」(『藝術研究』第四集、のち『藝術とリアリズム』八雲書店1948)。
1948(昭和23)河北倫明「岡倉天心と現代日本画」(『現代日本画論』高相書院)、
土方定一「偉大なる美術史家岡倉天心」(『国立博物館ニュース』)。
1962(昭和37)「岡倉天心生誕百年」記念行事。松坂屋、東京藝術大学附属図書館、茨城大学五浦美術研究所、明治村、『国華』、『朝日ジャーナル』etc.
1979〜81(昭和54〜56)平凡社『岡倉天心全集』全9巻
・・(以下2012年「岡倉覚三生誕150年」にあたり行われた種々の事業など数多く項目はあるが、略)
□展望
1.二つの「岡倉」像がある。「岡倉覚三」を日本近代化過程のなかでの挫折者と見るか、先覚者と見るか。「先覚者」と見るとき「岡倉天心」という呼称が浮上する。
2.なぜ「覚三」が「岡倉天心」と呼び慣わされて定着している/きたのか、を改めて現代の問題として追究して見ることは避けてはいけない問題だろう。
3.岡倉覚三を「天心」と呼ぶこと自体は、厩戸皇子を「聖徳太子」と呼ぶのと変わらないのだが、「天心」は戦時中に別の意味を注入されて、大きな役割を演じてしまった。自分自身が第二次世界大戦中にこんな役割を与えられていたとは、生前の岡倉覚三氏は想像もしていなかっただろう。岡倉覚三を「天心」と呼ぶときには、この戦時期に演じられた出来事への痛みを持って呼ぶのでなければならないだろう(「天心」と呼んで、その痛みを感じないということは、歴史に対して清らかであろうとしていないことにならないか)。そう考えたとき、「岡倉覚三–天心」問題は、戦争の不条理、貧困、格差、差別といった経済利益最優先主義社会の現代が抱える問題とつながっていることを知らされる。
4.岡倉を本当に理解するためには、「岡倉覚三」の五期にわたる生涯にあって、彼の思想と行動は決して一貫していたわけではないこと、矛盾すらしていたその思想過程を丁寧に辿り観察することが必要だろう。
5.The Ideals of the East (最初の英文著書)と The Book of Tea (三冊目にして最後の英文著述)とのあいだにも、彼の思想の変遷、考えかたの違いがある。生前、岡倉はThe ideals of the East の邦訳版を出版することを「あれは不本意な出来の本だから」と強く拒絶していた(岡倉のなかでは嫌われていた自著である)。
どこが不本意だったのか、読み込むこと。The Book of Tea は、The Ideals of the East の不本意なところを回復しようとして書いた本、と読むことができる。
6.晩年(第Ⅴ期)の10年にわたるボストン−日本往還期間にも考えの変容がある。勉強し考えを深めれば深めるほど避け難く起ってくる自己変革である。アメリカにあって「世界」が見えて来ればくるほど、「アジア」の歴史とその行方が大きく迫ってくる。それを、岡倉は、日本では(日本語では)うまく語れていなかった。五浦の六角堂に籠って一人で鬱々と考えていたのだろうか。晩年インドの詩人と取り交わした手紙のなかで、語れない侘しさを切々と綴っている。その落差、懸隔を読み出すこと。
7.第Ⅳ期インド滞在を彼の「挫折」とその「回復」期と見るとき、その後アメリカで考えていたことに新しい読みが開かれ、彼の思想のドラマが新しい意味を帯びてわれわれ21世紀に生きる人間に問いかけてくるのではないか。「近代」とはなにか。「日本」とはなにか。「芸術」は人間にとってどんな意味をもつのか。といったわれわれ現代に生きる人間の生活に潜む根源的な問いである。
8.「岡倉覚三」の遺したものから考えて行くとき、「近代」とはなにか、「日本」とはなにか、「芸術」はどうあるべきか、「美術史とくに日本美術史はどのように書いて行くべきか」と言った問題について、改めて考え直す新しい視点と視野への示唆が得られる。しかし「岡倉覚三」を追求して行くだけでは、おそらく「経済利益最優先社会の現代が抱えているさまざまな問題」を考えるところまでは拡がらないかもしれない。それは、「岡倉覚三」×「岡倉天心」の問題を考えていくときに浮上してくる。「岡倉覚三–岡倉天心」問題は、とても新鮮で重要な、問題なのだ(今回の小沢さんの作品はこの問題へと誘ってくれる)。
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