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この7月から8月にかけて、雨の日も多く、右目の調子が思わしくない状況下、みてまわった(回ることができた)いくつかの展覧会。日頃は雑談で流しておくのだが、メモ(寸評)して、誰か、興味のある人の参考にしてもらえれば、と書き付けてみることにした(中にはもう終ってしまった展覧会もあるが、ごめんなさい)。
遠藤利克展(埼玉県立近代美術館)
「近代」が用意した「等身大」という尺度を越えようとする造形(超彫刻作品とでもいうべきか)。若いころからの作品も展示されているのだが、回顧展になっていないところに注目。全ての作品が「現在」に根を降ろそうとしているからだろう。言い換えれば、作家個人の芸術思想の展開など興味にさせない力のある作品展なのだ。
こういう「近代」のねじ伏せかたがある。
背後にバタイユがいる気がした。
根岸芳郎展(ガレリア表参道、長野市)
色彩が形を作る。あっさりした言いかただが、その方法を徹底している画家はそうはいない。
まずは、うんと引きをとって観よう。そしてゆっくり作品の方へ近づいていくと、普通はそこで画面の細部が見えてくるものだが、根岸作品は細部が見えてこないで、観ている自分が絵に包まれている(自分が細部になっている)。
絵画という経験の一つの極地を指している根岸芳郎の仕事を忘れないようにしたい。
ジャコメッティ展(国立新美術館)
ジャコメッティのいないジャコメッティ展だった。「ジャコメッティ不在のジャコメッティ展」といえば、いかにもジャコメッティにふさわしい展覧会になるのだが、小像はともかく、彫像作品をアクリルケースに収納して展示するとは! これは、囚われたジャコメッティだ。
ジャコメッティは、自分で台座も作っている、それをわざわざもう一つ(ジャコメッティが指示しているわけではないのに)大きな台の上に載せて(観る人を近づけない、それどころか、拒絶している)展示をするとは。
これは祀り上げられたジャコメッティ展だ。
(ルイヴィトン美術館が設立されたとき、あそこも、ジャコメッティをケースに入れて展示していて、ジャコメッティが見たら怒るだろうなと思ったことを思い出した。いまや、フランスでもジャコメッティは祭り上げられる存在になってしまったのか。)
レオナルド×ミケランジェロ展
レオナルドとミケランジェロの違いは、やはりレオナルドは世界の「コスモス」を追究構築した「近代」人の祖であり、ミケランジェロは「カオス」を探し造形化しようとした人だった、ーーということを納得させられるには、選ばられた作品だけでは物足りないが、それでも、それはよく判る。細部へのこだわりのちがい。デッサンをするときにどこを観ているかのちがい。たった一点ずつだけで二人を比べても、いや、作品の部分だけでも、その対比が見えてくるのだろう。
URUSHI展(国立歴史民俗博物館)
「人と漆の12000年史」と銘打たれた、人類史の始まり、漆の起源から現代を考えさせてくれる展覧会。
沖縄中国東南アジアにも目を配って(出品点数は少なくても)そのエッセンスをみせてくれる。
漆の役割、その美しさを再発見し再考を促す点でも有意義な展覧会だが、こういう展覧会は、いま、美術館ではできないのでは、とふと思った。美術館は「美」とか「芸術」とかいった概念に無意識の裡に囚われて「展示」をしている。そのために人類史の広がりのなかで現代(の美・芸術)を考える仕事を、既成の「美・芸術」概念を超えて考え企画展示しようとはしない(超えてはいけないと自己規制している/させられていると言い換えてもいい)。そろそろ、「美術館」を全部廃棄して「博物館」から出直すべきときが来ているのではないか。
(別室で開かれている「楽器と漆」展もお見逃しなく!)
横浜トリエンナーレ(横浜美術館ほか二箇所)
横トリについては、小沢剛氏の仕事を「内容報告」でちょっとお伝えしているが、40人に及ぶ作家が参加していて、それぞれを語るのは別に機会があればということにして、それぞれの作家の仕事が仕切られて個展形式のように展示され、それぞれに主張しているので、時間をかけて見て回りたい、ということだけをとりあえずメモしておこう。 |

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