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去年最後の足を運んだ展覧会は、自由が丘のgallery21yo-j。池内晶子さんの新作。年末を飾るにふさわしい作品でした。
今回は赤い生糸で、いつものように壁の四つの隅から張り出された糸が、まんなかへ集まって(あるいはまんなかに集まっていた糸が壁のほうへ向かって伸びているかのように)、その中央で、地下へむかって筒状の形をとっていくのですが、池内は、生糸を指で(道具を使わず)結び結び合わせて作品の原形を作っていく。(展示に至るまでに、そこには「結ぶ」ことに腰を据えた長い時間が溜められている。)その「結ぶ」行為は、「編む」という作業の起源的な意味を持つ人間の行為である。容れ物や布地、着るものだけではない、書かれた文字をまとめるのも「編む」というし、「編む」という行為は、ほんとうに人間の営みの根源的で普遍的な行為であり、そのさらに起源の営みを「造形」という仕事のなかに潜ませて制作しているのが池内の作品で、そのことに気づいて、そこで、いったい人間にとって「編む>結ぶ」ということはどういうことか、と考えに耽ってもいいのですが、作品の前にいるとそんな議論にふけることを許さない微妙な緊張感が迫ってきます。生糸が誘う微かな動きと対峙し身を任したくなるのです。そして、その対峙が誘う対話が言葉ではなく、言葉になる直前のわれわれの息遣いでしか不可能なことに気づかされます。四つの隅から(あるいは四つの隅へ)張り出す生糸の集まるまんなかに作られている形は、「結ぶ<編む」という行為によっておのずから紡ぎ出される動き、右へ旋回する動きを感じさせ、ちょうど立っている人間の胸のあたりに浮かび、それがどこか渦状星雲の姿を想起させる。ここまでは、これまでの池内作品にもあったのですが、こんかいの作品は、さらに、まんなかから筒状にむかって伸びる糸の集まりから離れて、地上に(つまり床の上に)上部の作品と対面するように、平たく赤い生糸の群が敷き伸ばされているのです。それをよくみていると、左にほとんど触知できない速度で回る運動をしているのが、感じ取れます。(あとで、作者に教えてもらわないと判らないことですが、この円盤状にひろがる赤い生糸の群は、じつは一本の糸で長さ13キロメートル、さいごの端っこが、円の外縁にちょろっと出ているのを確認することができます。〔写真に撮ってみました〕)
上部の、四角い外縁を保ちながら、ほとんど不可視に右に回りつつ集中して浮かび、中心の筒状へ動いていく糸の平たい群れと地上の左回りに丸く象る糸の群れが、音もなく響きあっている、そのあいだに生まれているもの。それは、結論を急げば、小さな個々の生命が宇宙の大きな動きと交歓しようとしているとでも言えばいいか、そのようなものを、聞き取ることができるのでした。
この池内作品については、また、筆をあらためて書くことにしたいと思いますが、こうして、2018年を迎えるにあたって、1月5日から封切られる映画のことを紹介して、年頭のご挨拶に代えたいと思います。
「ジャコメッティ 最後の肖像」という映画(スタンリー・トゥッチ監督のイギリス映画)が、この1月5日からTOHOシネマズシャンテ他で封切られます。ボクは試写をけっこう楽しくみてきましたので、ぜひみなさんにも楽しんでもらえればと思い、来る年は、この話題からはじめるのも一興と考えた次第。
(もっとも、1月6日には、千葉市美術館で、小沢剛氏の個展が始まりますから、 こちらも新年の話題にとりあげてもいいのですが、今日は、ジャコメッティの映画のほうをご紹介しておきたいと思います。)
この映画は、前もって、この映画の原作、ジェイムズ・ロード著『ジャコメッティの肖像』みすず書房を読んでおいていただくと、ぐんとおもしろさが増しますので、それを伝えたいということもあっての話題です。
原作を心得て観ると、映画での矢内原伊作や奥さんのアネット、モデルのカロリーヌの扱いかたの異和が気にならなく楽しめるかもしれないと思います。というより、原作ではこう書いているのに、映画ではこんなふうにしちゃってるな、と観る、そんな楽しみがあるということです。
ジャコメッティによく似た俳優を見つけて来て、ブレッソンやシュナイダー、ドワノーといった写真家の撮った名場面を映像化していて笑います。
矢内原も同様の体験を短いエッセイにしていますが、ロード氏も、ある日、モデルになってくれ、二、三日で終わるからと頼まれるのですが、結局肖像はいつまでたっても出来上がらず、なんどもなんども、帰国の航空券を延期して、ジャコメッティのアトリエへ通うはめになる、その経緯を克明に記録しています。それを、映画化しているのです。
毎日毎日、「メールド(日本語に訳せば「くそ」)!」と口走って(この「メルド!」というフランス語を映画では「ファック!」と言わせていて、これも笑わせます。「ファック」と「メルド」はちがうんですね!)、「うまくいっているときにやめようと思った。しかし、 いまはとても悪くなっている。遅すぎた」と筆を投げ出し、そしてまた、「でも、いまここでやめることはできない」と呟き、「明日はきっとうまく行くだろう」と、翌日モデルになることを約束させる。その翌日には、また「メールド!」と叫び、頭を抱え、別の仕事に手をつけ、また戻ってきて、「いまなにか見え始めた、やりなおそう」と筆を執る。そんなやり取りが延々と続くのを共感しながら観ることができました。
こんな調子で、ジャコメッティは、ついにロード氏を十八日間もアトリエへ通わせたのです。作品は完成したとジャコメッティは絶対に言いません。むしろ、「また失敗した、明日やりなおそう」の連続です。その未完成の作品は、要請されていた展覧会の期日が迫ったとか、別の理由で彼の手を離れることになります。(これが、こんにち遺っているジャコメッティの作品です。)
「私はなにかを作るために仕事をしているのか、それとも作りたいと思ったものをなぜ私が作り得ないかを知るために仕事をしているのか、どちらだか私にはわかりません」(1959年、ニューヨーク近代美術館のアンケートに答えて)、と書いていたのをふと思い出しました。
原本には、その日その日、ジャコメッティが絵から離れているあいだにロード氏が撮った作品の写真が十八葉、挿入されています。ちょっと見では、どこが異なっているのか判別しがたい画の一枚一枚を見比べながら「あ、くそ! ぜんぶ壊してしまおう」と言ったり、「もっと遠くまで進むことができたはずだ、突破口はある」などというジャコメッティ の呟きをその絵から読み取ろうとするのは、なかなか楽しい仕事です。 (やっぱり、これは映画では実現できていない)。
それにしても、こんなに自負心を無にして制作する芸術家は珍らしい。ほんとうのところは、誰もがそんな気持ちを抱えているはずだけれど、窯を開けたら、気に喰わない茶碗は叩き割って、残した少数に超高額の値を付ける人間国宝陶芸家や、設計した建物が日常生活に不具合な点があるのを訴えると、そのくらいはがまんしろと逆襲する芸術家風建築家などとは、正反対の心構えです。
近代(現代)の芸術家は「自己表現」を制作の芯に据えることによって、自分の作品が、どのくらい自分の意図から外れた結果なのかを認める眼を曇らせていることは確かです(このことについては、あらめてじっくり考えないといけないと思っています)。
このあいだの六本木であった「ジャコメッティ展」は、せっかく本物の作品をたくさん並べながら、本物にまったく近づけない展示をしていて、ほんとにがっかりさせられましたが、この映画では本物の作品には接しられないのだけど、ジャコメッティという人と作品を考えるには、ずっといい機会を与えてくれるようです。
(ついでながら、ジャコメッティの写真集は、数年前にドイツであった展覧会の図録が『The Unseen Giacometti』という英語版で出ていてお薦めです。ジャコメッティが好きな人はぜひお手元に。)
というわけで、新年は、まずジャコメッティの映画でも観て、お楽しみいただき、いいお正月休みをお過ごしいただけますように。
1月の<土曜の午後のABC>は、12日(金)の夜からです。
Kinoshitan
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