|
次回のABCは、1月12日(金)19:00〜21:00,ひさびさの波止場会館4Bで。
新年度の冒頭という意味合いもあって、ちょっと趣向を変えました。
去年暮、本屋の本棚であれこれ本を眺めていたときのことです。−−ボクは一種の活字中毒で、ときどき本屋に出かけて、書物の真新しいインクと紙の匂いを嗅がないといられなくなるのです。棚の前であちこち本を引き出しては拾い読みしたり、面白そうだと「立ち読み」に耽ったり、二、三時間はすぐに費やしてしまいます。なかには、内容に魅き入れられて、とうとう買って帰る羽目になるのもあります。そんな繰り返しの一つとして、去年年末、なにげなく手にした本が『まど・みちお詩集』(岩波文庫)でした。
ボクは、「まど・みちお」は、「彼も詩人」というくらいの認識で「彼こそ詩人」などと思ったことはいちどもないのですが(「詩人まど・みちお」論義は別の機会にします。というより、12日、時間があったら取り上げたいです)、その詩集に《セルゲ・ポリアコフの「無題」》というエッセイが入っているのを見つけ、「へぇ〜童謡詩人の現代美術論?」と、拾い読みを始めました。そして、終わりのほうに、《ポリアコフが一枚の絵でようやっと辿りついた世界は、いったい何を語っているのだろう。「ああ、ここではなかった!」と、行きつくべき所へ行きつけなかったことに気づいた独白が、聞こえるような気がする》とあるのに出喰わし、ちょうど『八雁』の連載エッセイに、ジャコメッティが同じ言葉をなんどもなんども繰り返してやり直していることの大切さを書いた(「年頭の挨拶」としてブログにも掲載した)ところでしたから、これは、捨て置けない、と思った次第です。
誰かの作品を観て、「行きつくべきところへ行きつけなかった独白」を聴くのは、なかなか出来ない/しないことです。そのことに《重みのある共感》をもって作品を観るというのも、興味深い。これは、ぜひ新年の話題にしてみたい、と考えた次第です。
こうして前口上を書くために、岩波文庫をパラパラ読んでいて、すごい面白い、問題にしなければいられない箇所にぶつかりました。これは、ここで語り出すと長くなるので、これも、12日の夜に!
kinoshitan
|