木下長宏のウェブログ

網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

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2月3日(土)のABCは、いつもの部屋、波止場会館4B、14時からです。今年最初の『老子』を読む時間。これを機にタイトルを<「老子」から教わること>とあらためることにしました。

2016年4月から「老子」に取り組み始めて2017年11月まで、16回にわたって<「老子」に挑戦!>というタイトルの下、『老子』を勉強してきました。ここまできて、2018年の最初の<土曜の午後のABC>を迎えるにさいし、タイトルを変えようと思い至った次第。
その理由はー
これまでは<挑戦>というタイトルが象徴するように、この世紀を超えた巨大な書物を、まさに世界最高峰の峰を目指すように、多くの研究、註釈、解釈書に教えられ、支えられることを期待して勉強していこうとしてきました。
しかし、読み始めてすぐに気がついたのですが、ごまんとある註釈書はいずれも大同小異、数あるテクストの異同を誌すことに集中していて、解釈の微妙なちがいは見られるが、原文そのもの解釈は、なにかみんな、ある大きな枠のなかで、表現上のちいさな違いを主張するばかりではないか、ということです。そういう既成情報(諸註釈書が示してくれる知識と見解)にむしろ頼らないで(それらにちょっと距離を置いて)、無心に原文(古典中国語)を読んでみたときに、読み出せてくる可能性を示唆してくれる書はほとんどない、ということでした。
これはなぜだろう。
そのことに留意しながら、いろいろな註釈書を比べ、同時に『老子』という書物が成立誕生普及し研究されていく歴史過程なぞ調べ考えていくうちに、気づいたことがあります。それは、さきに「ある大きな枠」と記しましたが、なにか「老子」を設定する大きな地盤があって、専門研究家であればあるほど、長い、じつに長い、伝統とでも呼ぶべき蓄積によって築かれた「場(磁場)」のなかで、物事を考え決定し了解し合っているということでした。その伝統的な強力な磁場のなかに居ると、それが「枠」であるということに、中に居るものは気がつかなくなってしまうのです。
そういう「磁場」をボクは、「儒教イデオロギー」と名付けることにしました。そして、去年の10月のABCのころからできるかぎりこの「儒教支配イデオロギー」から自由にいられる地点を探して『老子』を読む姿勢が身についてきたように思えてきました(偉そうなことはいえませんが、やっぱりボクも、気づかないうちに「儒教支配イデオロギー」の毒にまみれている一人です。その一例を「内容報告」でメモしておきます)。
そういうわけで、これからは(<挑戦>の心がけは忘れないようにしつつ)、ゆったりと「老子」の言葉に耳を傾けていけたらという思いをこめて、タイトルを新しくしてみたのです。

その<「老子」から教わること>の第一回は、第一回にふさわしく、「道(タオ)」をめぐって、『老子』という書物のなかを駆け巡ってみようと考えています。

では、2月3日に!
kinoshitan

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