木下長宏のウェブログ

網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

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これまで出版された『老子』の註釈、解釈、解説書が「儒教イデオロギー」の磁場で書かれていて、そのほとんどの著者が、自分が「儒教イデオロギー」の申し子だという自覚がない、と先日(2月3日のABCの予告に)書きましたが、とはいえ、それらの解説書研究書がすべて無用だというわけではありません。こんなことを言ってみせるボク自身、知らず識らず「儒教イデオロギー」に侵された発想や思考をしているはず(それほど「儒教イデオロギー」は東アジアに住む人間の意識や心情に―ひょっとしたら身体組織にも?−―浸透しているのです)。ですから、儒教イデオロギーの厖大な産物たる老子研究書解説書を、われわれに必要なのは、それらが儒教イデオロギーの所産であることを心得つつ、その該博な知識と探究の成果から学ぶことを続けていかなければならない、ということでしょう。というより、それらの書物を読んでみる(批判的精読をする)ことによってしか「新しい『老子』の読みかた」は切り拓かれない、といえるでしょう。
そうして諸書に学びつつ、自分たちが考えてきたことを修正し書き直していこうと思います。

早速ですが、その一例。41章(すでに読んだテクスト)のなかに「大器晩成」とある一句です。これは日本語文脈のなかでは、諺になっているくらい人口に膾炙している一句なものですから、つい「大器は晩(おそ)く成る」と訓んで、大きな器(青銅の鼎や銅壺のようなもの)はかんたんには作り上げられないように、大人物は速成ではできない、という意味で理解してしまいます。じつは、この解釈が、儒教イデオロギーに支配された解釈だったのですね。

最近の註釈書はどの本も、1970年代に発掘された馬王堆墓出土の帛書老子や楚墓出土の竹簡老子が、『老子』の初期形と呼ぶべき貴重な文書で、漢代に流布するテクストと大きな違いを見せていることに言及しています。その初期形を見ていきますと、「大器晩成」のところ馬王堆墓出土の帛書の乙本では「大器免成」となっています。「晩」と「免」は同じ「免」を持っているのでなので、写本が作られて行くその転写過程で書き換えられたのです。転写を経て音が同じなので文字形が変って書かれる、そのことによって意味も微妙にずれる例は『老子』本文に数多くあります。(そこで、台湾大学出版部では『老子四種』と題して、数ある写本のうちの主要な重要な四種類の写本原文を収録し、一冊の本でその異同を比較しようとする本を刊行しています。日本では、まだここまでテクストの違いを読もうという機運は高まっていないようで、各註釈者が、解説の註で、異同を示し、自分はコレを取るとテクストを決定し、意味を一元化することにこだわっているようです。)

さて、この書き換え(「免」→「晩」)こそ、儒学イデオロギーによる仕業だと最近気がつきました。(権威ある註釈者たちは、異同は音の類似からくる変容として片付けて、その変化の背景に潜む思想の動きを見つめようとしません。しかし、これはほかに多くある例のような「音」の類似に伴なう転写変更ではないのです。はるかに昔には、つまり初期の『老子』テクストには「大器免成」と伝わっていたのを、だれかが作りの同じことを利用して「大器晩成」と儒教思想にふさわしいごくに変えたのです。そしてそれが権威となっていったのです。)ボク自身、この一句は、『老子』を手にする前から聞かされていたせいもあり、41章を読みながら、つい「大器は晩成なのだ」と読んで、素通りしてしまってきたことを反省します。

「大器晩成」のところ「大器免成」と読むと、「大きな器(作品・人物)は成(完成)を免れる(こだわらない)」という意味になり、「優れた作品・人物は完成ということを問題にしない」「優れた作品・人物は未完成である/未完成でよい/未完成なものだ/未完成にみえる」という解釈が可能です。

「完成」という概念そのものが、権威によって認められた形式概念なのです。作品同様、人格も「完成」されなければならないというのが、「儒学」の教えです。だから、偉大な作品や人物は「未完成」だという考えは、儒学イデオロギーにとっては許せない考えだったのですね。

そこで、「大器晩成」という一句に「優れた器は未完成なものである」という含意を発見するのは、われわれにとって大きな喜びではありませんか。

(ところで、この議論、稿を改めて、もう少しつづけます。)

2月3日(土)のABCは、いつもの部屋、波止場会館4B、14時からです。今年最初の『老子』を読む時間。これを機にタイトルを<「老子」から教わること>とあらためることにしました。

2016年4月から「老子」に取り組み始めて2017年11月まで、16回にわたって<「老子」に挑戦!>というタイトルの下、『老子』を勉強してきました。ここまできて、2018年の最初の<土曜の午後のABC>を迎えるにさいし、タイトルを変えようと思い至った次第。
その理由はー
これまでは<挑戦>というタイトルが象徴するように、この世紀を超えた巨大な書物を、まさに世界最高峰の峰を目指すように、多くの研究、註釈、解釈書に教えられ、支えられることを期待して勉強していこうとしてきました。
しかし、読み始めてすぐに気がついたのですが、ごまんとある註釈書はいずれも大同小異、数あるテクストの異同を誌すことに集中していて、解釈の微妙なちがいは見られるが、原文そのもの解釈は、なにかみんな、ある大きな枠のなかで、表現上のちいさな違いを主張するばかりではないか、ということです。そういう既成情報(諸註釈書が示してくれる知識と見解)にむしろ頼らないで(それらにちょっと距離を置いて)、無心に原文(古典中国語)を読んでみたときに、読み出せてくる可能性を示唆してくれる書はほとんどない、ということでした。
これはなぜだろう。
そのことに留意しながら、いろいろな註釈書を比べ、同時に『老子』という書物が成立誕生普及し研究されていく歴史過程なぞ調べ考えていくうちに、気づいたことがあります。それは、さきに「ある大きな枠」と記しましたが、なにか「老子」を設定する大きな地盤があって、専門研究家であればあるほど、長い、じつに長い、伝統とでも呼ぶべき蓄積によって築かれた「場(磁場)」のなかで、物事を考え決定し了解し合っているということでした。その伝統的な強力な磁場のなかに居ると、それが「枠」であるということに、中に居るものは気がつかなくなってしまうのです。
そういう「磁場」をボクは、「儒教イデオロギー」と名付けることにしました。そして、去年の10月のABCのころからできるかぎりこの「儒教支配イデオロギー」から自由にいられる地点を探して『老子』を読む姿勢が身についてきたように思えてきました(偉そうなことはいえませんが、やっぱりボクも、気づかないうちに「儒教支配イデオロギー」の毒にまみれている一人です。その一例を「内容報告」でメモしておきます)。
そういうわけで、これからは(<挑戦>の心がけは忘れないようにしつつ)、ゆったりと「老子」の言葉に耳を傾けていけたらという思いをこめて、タイトルを新しくしてみたのです。

その<「老子」から教わること>の第一回は、第一回にふさわしく、「道(タオ)」をめぐって、『老子』という書物のなかを駆け巡ってみようと考えています。

では、2月3日に!
kinoshitan

昨年末のgallery21yo-jの池内晶子さんの新作展、私も行ってまいりました。数年前に池内さんを知ってから、すっかりファンになって作品を追いかけてきましたが、今回は、戸惑いにちかい不思議な感覚に捕らわれました。あの場で見たもの、考えたことは、どれだけ反芻しても整理しきれないのですが、「2018年年頭のご挨拶」への返信にかえて、感想を送らせていただきます。

 池内さんの今回の作品の前に立ったとき、最初にやってきたのは、なにかを「うつす」というのはこういうことなんだ、という感覚でした。床に広がる絹糸の渦が、上に吊られた糸の姿を映しているみたいだと思ったのです。つづいて、そんな錯覚に近い感覚はそのまま逆転して、上に吊られた糸の渦が、床上にあらわれた円形を映して広がっているように感じられてきました。かたや右巻きに、かたや左巻きに逆回転しつつ、「Z」の字に似た捩れを描きながら、双方向に糸が流れ、遷っていく。静かにたたずむ二つの赤い塊のあいだに、私は確かに、そんな動きを見つめていました。
上下の相反は、糸の回転の方向にとどまりません。垂直軸をもつ構造と、水平面に展開する構造。空に浮く円と、床に密着する円。ぴんと張られた糸の硬質な広がりと、ふんわり落とされた糸のやわらかな広がり。上部で空白の円がかたどられる、その真下で、もっとも糸が密集している。互いが互いの陰画であるかのように、一方に欠けているものを受けとめ、埋めていくかのように、映しあい、遷りあう。反撥しながらも引きあわずにはいられない分身とも、反転・対称を内包する鏡像とも呼びうる二つの円は、「うつす」ということの本質を私に示すと同時に、「天」と「地」の関係をも想起させるものでした。天の姿をうつすように地が広がり、地で為される営みを孕んで天が広がる。天のめぐみを受けて地はそだち、地で育まれたものが天に還っていく。対立と相互補完を抱きしめて在る世界の様相を「かたち」にしようとするならば、池内さんの作品はまさに、そのひとつの実践ではないだろうか。
広大な宇宙のうごめきとして作品を見据えたとき、小さな、ささやかなものたち――自然の生命から人の手で紡がれ染められた一本一本の糸、鑑賞者の動きを受けて揺らめきはじめる細い細い糸、その細い糸に施された一つひとつの小さな結び目、糸を結ぶ指のわずかな動き、長い時間をかけて繰返された「結び」の堆積、糸巻のクセのままに旋回し渦を描いて重なる糸、巻きグセをもった糸を重力にゆだねて落とし、回り歩きながら拡げていく営為――こそが、世界・宇宙をつくりあげているさまを、目の当たりにしているように思えてきます。身体が小さくなって、宙空と大地にひろがる赤い糸のあいだに潜り込み、その真ん中に立っている気がしてきたり、はるか頭上と足の下の底ふかくに、視覚ではとらえきれない天と地が、響きのように延びひろがっていくのを感じるようでもありました。そして、そんな茫漠とした天地のイメージに攫われても、艶やかな絹糸に付された結び目の粒つぶが、あるいは、円の縁からぽろっと顔を出している、縒りのほどけた糸の終端が、「人」の営みとそのつつましさを思い出させ、いま生きている世界に私を連れ戻してくれる。この往還は、「小さな個々の生命が宇宙の大きな動きと交歓しようとしているとでも言えばいいのか」という先生の評と、かさなっているかもしれません。
 その結果、なのでしょうけれども(こういう感覚は、ほとんどいっせいに私に押し寄せてきたので、論理的に順序立てることはできないのですが)、ああ、池内さんのこれまでの作品の下にも、私はいつも、いま床に広がっているこの渦を見つめ、感じていたんだなあ、という、不思議な感覚に捕らわれました。一方で、私はどこかで、この床上の渦がふたたび、「作品」から姿を消していくことを期待してもいる。二つのかたちが上下になって映しあい、遷りあう構造を内に秘め、観る者に感得させつつも、実体としては姿をみせない、そんな地点に、池内さんの制作はたどり着けるのではないかと、勝手なことを考えていました。池内さん自身が、自分の制作が根源的に抱えもっている「なにか」を再確認した(しようとした)作品、そんなふうに感じたと言い換えられるかもしれません。今回の池内さんの作品に、戸惑いのようなものを覚えたと記しましたが、それは、ぱっと湧きおこった「うつしている」という感触のことだけではなく、赤い糸たちが、これまでにないくらい太く濃く、もったりとして見えたからです。先生の言葉を借りるなら、彼女の作品から放たれる「微妙な緊張感」がどこか欠けているようにも思えて、一瞬、ひるんでしまった。けれどもこの戸惑いは、作家が一歩を踏み出していると直感したときの、震えでもありました。
 アーティストにとって、自分の思考や実践のなまなましい過程は、できることなら他者には見せたくないものだと思います。それでも、どうしても、他者が観る場に移さなければ、決して獲得できない「なにものか」がある。自分の制作、できあがった作品に、尽きせぬ不足を感じていたとしても、ジャコメッティも、セザンヌも、モネも、作品を見せることは断念しなかった。「つくる」こと、あるいは「見せる」ことの無力にどれほど直面しても、両者の引力のあいだにこそ「作品」が立ち上がり、存在しうることを、彼らは見落とさなかったのだと思います。「不足」をかかえながら、自分の制作の根っこに繰返し立ち戻り、もう一度そこから出発し、そうして生まれた作品を他者に見せていく。池内さんの新作は、完成度を高めた作品というよりも、そんな「豊饒な不足」に満ちていました。ひとつの制作が、それ以前には目に見えるかたちで示してこなかった「なにものか」を、過去の作品群のうちにまで、「見つけた」「見つめていた」と観る者に確信させるつよさを、今回の池内さんの作品はもっていました。
 池内さんの作品を観るたびに、空気を彫っているみたいだと感じていました。糸がかたどる空白の円の縁で、空気がむくっとせり上がり、重力とともにその穴になだれ落ちていくのを見ているようでした。塗り残した部分が図になっていく水墨画のように、糸そのものを見ているのか、糸と糸の隙間にある空気を見ているのか、判らなくなることさえあります。決められた、動かしがたい空間に糸を設置するのではなく、一粒ひとつぶ結ばれていった「時」を溜めこむ、か細くやわらかな糸という材をもって、そこに在る空気を削り、その帰結として新しい空間が生成してくる。だから、池内さんの作品はつねに、私にとって「インスタレーション」ではなく、「彫刻」の新しい可能性を示すものでした。今回の作品で、「空気を彫る」ということは、ギャラリーの室内を満たす空気にとどまらず、その背後につらなり、うごめいている天地の関係、宇宙の相に手をのばしているのだと、彫刻のさらなる可能性に、やはり身体が震えました。

 先生は、池内さんの作品に、「編む>結ぶ」を見つめていらっしゃいます。池内さんの作品を「空気の彫刻」とするなら、糸という素材にまつわる人間の根源的で普遍的な行為、「結ぶ」「編む」(「結ぶ」の前に「縒る」も加えられるでしょうか)は、ABCの「日本美術史序説」で「日本美術史を貫く三つの思想以前の行動、思想を育てる身体的反応」として挙げていらした、「覗く」「握る」「削る」に比して考えることができるかもしれません。池内さんが覗いている、「見えない世界」を手繰りよせるヒントが、ここにもこぼれている。まだまだ考えなければなりませんが、先生の展評から、そんな手応えを感じました。

次回のABCは、1月12日(金)19:00〜21:00,ひさびさの波止場会館4Bで。
新年度の冒頭という意味合いもあって、ちょっと趣向を変えました。

去年暮、本屋の本棚であれこれ本を眺めていたときのことです。−−ボクは一種の活字中毒で、ときどき本屋に出かけて、書物の真新しいインクと紙の匂いを嗅がないといられなくなるのです。棚の前であちこち本を引き出しては拾い読みしたり、面白そうだと「立ち読み」に耽ったり、二、三時間はすぐに費やしてしまいます。なかには、内容に魅き入れられて、とうとう買って帰る羽目になるのもあります。そんな繰り返しの一つとして、去年年末、なにげなく手にした本が『まど・みちお詩集』(岩波文庫)でした。
ボクは、「まど・みちお」は、「彼も詩人」というくらいの認識で「彼こそ詩人」などと思ったことはいちどもないのですが(「詩人まど・みちお」論義は別の機会にします。というより、12日、時間があったら取り上げたいです)、その詩集に《セルゲ・ポリアコフの「無題」》というエッセイが入っているのを見つけ、「へぇ〜童謡詩人の現代美術論?」と、拾い読みを始めました。そして、終わりのほうに、《ポリアコフが一枚の絵でようやっと辿りついた世界は、いったい何を語っているのだろう。「ああ、ここではなかった!」と、行きつくべき所へ行きつけなかったことに気づいた独白が、聞こえるような気がする》とあるのに出喰わし、ちょうど『八雁』の連載エッセイに、ジャコメッティが同じ言葉をなんどもなんども繰り返してやり直していることの大切さを書いた(「年頭の挨拶」としてブログにも掲載した)ところでしたから、これは、捨て置けない、と思った次第です。
誰かの作品を観て、「行きつくべきところへ行きつけなかった独白」を聴くのは、なかなか出来ない/しないことです。そのことに《重みのある共感》をもって作品を観るというのも、興味深い。これは、ぜひ新年の話題にしてみたい、と考えた次第です。

こうして前口上を書くために、岩波文庫をパラパラ読んでいて、すごい面白い、問題にしなければいられない箇所にぶつかりました。これは、ここで語り出すと長くなるので、これも、12日の夜に!

kinoshitan

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