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2019年12月1日、東海大学松前記念館で、
《ユニバーサル・ミュージアムが「近代」を問い直す 思想史と人類学の対話》
と題した集まりがありました。
そこで、ボクは小一時間(「思想史」の代表として)《「無文字文化」と「文字文化」》について話をし、そのあと、広瀬浩二郎氏が人類学の立場から、《「無文字文化」と「触覚文化」》について語り、篠原聡の司会で、対話を始めたのでした。
その報告をしたいのですが、その前に、当日配ったボクのレジュメと、情景写真を掲載します。
レジュメの一つは<美術史以前>と題した<無文字文化>論メモ。
もう一つが、冒頭に載せた「等分線日本史年表」です。
<美術史以前> 無文字文化と文字文化
1 <無文字文化>について
「等線分日本史年表」を見ながら。
長い沈黙の一万五千年。
「縄文・弥生」時代と呼ばないで<無文字文化>と呼ぶ。
「弥生」時代は<無文字文化>と<文字文化>の境界に位置する。
なぜ、この時代を<無文字文化>と呼ぶのか。
『古語拾遺』(斎部廣成著、807年)
<無文字文化>は<文字文化>の地層深く息づいている。
2 <無文字文化>時代に観察できる<表現>行為の起源
a 聞く→ 歌う→ 誦む → 暗誦する→ 語る→
b 触る→ 握る→ 削る → 結ぶ → 編む→ →
c 見る→ 覗く→ 線を引く→ 染める→ 塗る→
聞く:胎内→ 歌う:新生児
触る:成人→ 握る:土偶(縄文草創期=最初期、粥見井尻出土土偶)
見る:成人→ 覗く:古事記日本書紀(豊玉毘賣逸話)江戸期民俗伝承etc.
3 現代/近代は「視覚」中心の時代。
たとえば「視聴覚教育」が唱えられるが、「触」が欠けていることに気づかない。
視覚中心主義の結果、人類にとって大切なものが喪われている。見えなくなっている。
それを取り戻すために<無文字文化>の重要性を見つめ直し、現代に生かさねば。
旧来の美術史では取り組めなかった領域へ。
<無文字文化>はわれわれの内面(意識、身体)の深くに眠っている。
a,b,c の営みを分離(隔離)させない美術活動、表現/鑑賞活動を企てること。
<美>の活動、営みを考える枠組を新しくすること。
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