木下長宏のウェブログ

網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

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次回は、本年最後のABC。と言っても格別なにか構えるわけではありませんが、コツコツ考えながら読んで来た「老子」を読み(考え)続けます。
(11月の第4土曜に『自画像の思想史』の出版パーティーをABCでやっていただいたので、例年持って来た忘年会ふうの食事会は、今年は計画しないことにしましょうか。)

「老子に挑戦!」するについては、次の二点、

1.テキストの一つ一つを解読していくこと。
2.「老子」を考えるための背後・周辺に涌き上がってくる大切(そうな)問題に目を配ること。

この二つをたいせつにして、
次回も、続けます。

それから、17日は、先日『日経回廊』という(書店では手に入らない、日本経済新聞社が発行している[今号で終るそうですから「発行して来た』ですね])定期刊行物に、ボクが書いた「プルーストとバルベックのホテル」についての原稿を、コピーしていただいたので、それを当日お配りし、少し、プルーストについての話もしてみたいな、と思っています。
プルーストについては、ABCの第一期に「P」の項で話し、『美を生きるための26章』に書き直しまとめて以来、じつは10年くらいじっくり考えることからは遠のいていましたが、久し振りに課題を与えられて、とても、新鮮に集中して書くことができました。(じっくり考え語る機会から遠のいていたとは言え、やはりプルーストは、「ものを書く」こと「観る」こと「読む」こと「考える」ことについて、いっぱい教わった恩人の一人ですから。)

では、17日に。

kinoshitan

PS:「プロフィール」に載っけた写真は、横浜美術館の前庭です。

11月26日の土曜の午後は、ボクの行きつけのフランス料理屋さんを借り切って、『自画像の思想史』の出版を祝い且つ励ましていただくパーティーをABCの主催で開いていただきました。

思いもよらないたくさんの方に来ていただいて、当初は、このパーティーに来ていただいた方がたを一人づつ紹介して、と考えていたのですが、そんなことをしているとそれだけでパーティーが終ってしまうことになりそうで(このアルチザンの料理をじっくり味わってもらうこともできない?と)、諦めましたが、忙しいなか(その日は公用で欠席という連絡もたくさんもらいました!)、ほんとうにみなさん、ありがとうございました。

このご厚情を胸に、次の仕事へ向かってがんばります。

さて、次回のABCは、このパーティーをはさんで、ちょっと変則で、普通の流れだと11月第4金曜の「見開き日本美術史」を12月2日(金)に移動しました。

いま、日本美術史の時代区分の大きな見取り図を再考する作業に取り組んでいますが、次回は、『自画像の思想史』を材料に、この問題に対面してみようと考えています。ちょうどこの本の出版を祝ってもらった会のすぐあとでもあり、祝っていただいて喜んでお仕舞いではいけない、こういう機会にこそ、この本で提起した課題をさらに浸透展開させるべく、みずからをむち打って、準備します。

という訳で次回は、「見開き日本美術史」の枠組の深層を考える時間と同時に『自画像の思想史』を再考する時間になれば、というもくろみです。

では、金曜日の夜!

kinoshita
次回、11月12日(土)の<ABC>は、波止場会館4Bで、14:00からです。
「老子に挑戦!」も第6回目です。まだまだ、見通せて来たなどとは申せませんが、とにかく読んでいきたいたいと思います。

ここまで勉強して来て、はっきりしてきたことは、『老子』のテクスト自体が、2000年の時の流れのなかで、いろいろな変容を遂げて来ていることもさることながら、著者「老子」も決して実在の或る「一人」と決めつける事は出来ないこと、当初から複数の著者・編者がいて作られたと読んだ方が深みのある読みかたが出来るということでした。

いっさい、固有名詞が出てこない『老子』の原文自体、諸写本の異同とは別に、単一のテクストが幾通りもの解釈・読み方の可能性を用意している、別の言いかたをすれば、どの写本を底本にしたとしても、そのテクストを読む者一人ひとりが自分なりの解釈ができるし、しなければならない、ということです。

なぜ固有名詞が出てこないのか、書かれていないのか。これもとっくり考えてみなければならない問題ですが、それと、一つのテクストが幾通りにも読めることと、どこかでつながっているような気がしています。(こんなに幾通りにも読める古典は、ほかにはありません。詩などで、本音を喩として隠しておくのとはちがって、のっけから二通り三通りの解釈読みかたが出来て、それぞれが補い合いこともあるし、背き合うこともある。『老子』の文体は凄い文体です。つまり、『老子』という書物は得体の知れない深さを持つ書物で、ボルヘスの「砂の本」を連想させるところがあります。))

現在、流布しているすべての『老子』の訳書解説書は、多様な読みが出来る事を知りながら、そのうちの一つだけを選んで「自分はこれを採る」と読者に押し付けている。こういう姿勢自体、「老子」の思想に背いているのではないか、ということは言えそうです。

『老子』を、『老子』本来の意図に沿った読みかたを身につけられるよう、これからも頑張りましょう。

そのことをいつも心がけながら、12日は、『老子』のなかで「吾/我」という語がどう扱われているか、「吾/我」の出てくるいくつかの章を取り出して、考えてみる時間にしようかと思っています(全81章のなかでそんなに多くはないのです)。

東アジアの言語が、「私」という主語を隠して成立する文体であることを特徴としていることを考慮すると、それぞれの文から隠された「私」の位相を確定するというのも、おおきなテーマですが、それはちょっと脇へ置いておいて、「私は」とか「我々は」とか言わなくてもいい文体のなかで、なぜ敢えて「吾」とか「我」と書き出しているのか、そのばあいその「吾/我」はどんな重さと意味合いを含んでいるのか、それが『老子』のメッセージとしてどんな働きをしているのかを考えてみようというわけです。『老子』を読む楽しみが増える作業になると思っているのですが‥‥ま、ご期待下さい。

では、12日に!
kinoshitan
次回<土曜の午後のABC>は。10月28日(金曜日)19:00〜 波止場会館4B、です。

「見開き日本美術史」第六回目です。
前回は、縄文土器の破片(ボクのささやかなコレクション)を手にしながら、この長いながい時代を、現行の美術史ではどこの時代よりも少量の記述ですましているが、それでいいのか、と問いかけてみました。そして、この「壮大な空白」――全「日本」美術史の5分の4の長さーーに、「日本美術史」総体の底流として蟠る特質を見つけてみようとしました。(まっさきに、そのことをやったのは、ほかでもない岡本太郎氏なのですが、氏の時代、1950〜60年代、からは「縄文」に関する情報ははるかに増え、とくに縄文草創期や晩期と弥生とのつながりなど、もう少し立ち入って考えることが出来るようになった現在、岡本氏の言葉を繰り返し唱えているわけにはまいりません。)

今回は、その続きとして、日本美術史の「時代区分」はどうあるべきか、とくにそこでの「古代以前」の扱いかたについて考えてみようと、用意しています。

美術史を勉強するとき、大切なのは、それぞれの時代の「作品」と、どれだけ、生き生きとした出会いができるか――に尽きると思います。「時代区分」もそれを手助けするのに役立つ以上のものであってはならない。ただ、知識と情報を提供するのではない、作品に真向かおうとする一人ひとりが、その作品に対してどれだけ豊かな出会いができるか、それにどんな役割が果たせるか、「美術史」の仕事というのは、そのことに徹せねば、と思います。

28日も、そんなこころがけの成果を、お話出来ればと願っています。
では、28日!
kinoshitan
今週は、9日の日曜日に岡谷市で、根岸芳郎氏と対談、今日10月12日は渋谷、NHKの日曜美術館の録画収録といろいろな行事の詰まった一週間でした。
日曜美術館は、ヤマサキマリ、茂木健一郎両氏と日曜美術館の司会者、伊東敏恵、井浦新さんとテーブルを囲んで、ミケランジェロ談義をやってきました。二時間余り喋った結果が45分の番組にどんなふうに収まるか。23日に放映されるそうですので、お時間と興味のあるかたは、見てください。

さて、忙しい一週間でしたが、来る15日(土)の<土曜の午後のABC>は、「老子に挑戦」の第5回目です。
がんばります。

では、15日に!

kinoshitan

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