木下長宏のウェブログ

網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

Information

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

外へ出ると、いろいろな花が咲き出しているのに、心が浮き立ちます。
次回の<土曜の午後のABC>は、<無文字文化>を考える一コマとして、19日に「先史時代から古代末期」までの展示を一新した、佐倉の歴史民俗博物館の話題に触れて、「弥生」時代のことを考えてみます。

近年の考古学の成果を活かして、「弥生時代」が従来の考えより600年遠くから始まると宣言する展示です。去年の東博の「縄文」展でも、この時代区分は採用していませんでしたし、じつはボクもせんだっての東海大で<無文字文化>を語ったときも、従来の「弥生時代は前3世紀ごろ始まり、古墳時代の到来とともに終る」年表を配っていました。「縄文」と「弥生」を対立させる考えに疑問を持っているボクは、新説を採用してもよかったのですが、東海大のあの場は、それを細かく議論するのが目的ではなかったので、従来通りにしておいたのでした。そしたら、意外に早く歴博のかたがたは、機が熟した、と展示を一新してみせたという次第。

こうして、もう一つの国立博物館(しかも先史時代古代民俗の専門研究機関)が「弥生は前10世紀後半から始まる」と公にしたことで、これから、「弥生」の扱いは変わっていくだろうと思います。

その問題について、われわれは、新説が公的に提起されたと、喜んだり面白がっているだけではいけません。
そこにどんな問題が潜んでいるか。よぅく考えたいと思います。

そんなことを考えているときに、ふと、もう何十年も昔、丸山眞男さんの講演を聞いたことを思い出しました。
それがいつだったか、講演の収録されている本を取り出すと、なんと、ボクが18歳のときだったのです。そのときの丸山さんの仕草もまざまざと思い出し(まるでプルーストの紅茶のように!)、そして彼のそのときの一言が、その後のボクの生きかたに決定的な方向づけを与えてくれていたことにも思い当たり、あらためてその講演録を読み直しました。1957年の、いまから62年前の彼の発言が、まったく新鮮なのに、息を呑みました。

そして、「弥生時代」問題と丸山眞男氏の発言が、ボクのなかでつながっていきます。金曜日には、そんな話をしたいのですが、ちょっと時間が…心配。そのときは、あらためて、別の機会にしましょう。

では、金曜の夜!
kinohitan

次回3月9日の<土曜の午後のABC>は、波止場会館3C です。お間違えないよう。

<老子から教わること>。今回は、21、26。新しいテクストを作ります。そのあと、45、33へと進みたいと目論んでいます。
それから、「大器免成」について、すこし議論が出来たら、と思っています。

去年12月1日に東海大で、篠原聡の司会のもと、広瀬浩二郎氏と持った集まり、ボクの話と広瀬氏の話、そのあとの対談を、ボクなりにまとめて、このブログの「内容報告」に掲載しました。最後に、当日は喋らなかったことを付け加え、今後の課題を提起しました。
読んでください。ABCが終わったあと、ジャックカフェで夕食を食べながら、そんなことが話題になるといいな、と思っています。

では、9日、3Cで。

kinoshitan

追加のお知らせ。

明日2月22日(金)は、夜19:00〜波止場会館4Bで<土曜の午後のABC>の集まりですが(北齋と<見立て>について喋り考えます)、その翌日、2月23日(土曜)には、波止場会館から(というより「日本大通り駅」から)ほど近い横浜開港記念会館2階9号室で、「老子と岡倉覚三」という題のもと、二時間ばかり喋る約束をしています。
連絡が遅くなりましたが(ABCの集まりではお伝えしていたので、ついブログの掲示に気づかないでいました)、
ご興味のあるかたは、お出かけください。
主催は、「岡倉天心市民研究会」。(年会費として5000円いただくそうです。)
ボクは、2月を第一回として、二ヶ月ごとに計四回、お話する予定。
2回目は、4月20日(土)。同じ開港記念会館2階9号室。テーマは「『茶の本』と老子」。
3回目以降は日時は未定ですが、テーマは「フェノロサとの別れー<近代>の運命(仮)」
4回目は「岡倉覚三とは誰か(仮)」というようなところを約束しています。

岡倉に関しては。1970年代に紀伊國屋新書から『岡倉天心ー事業の背理』を出して以来、平凡社『岡倉天心全集』の本文校訂。學藝書林『詩の迷路』、ミネルヴァ書房『岡倉天心』、『茶の本』の新訳など、出版に関わってきました。
その間に、ボクの「岡倉」観も大きく変貌しました。ミネルヴァの本を書いているあたりから、その変わった成果を語れるようになり、直後の日本国際文化研究センターでの共同研究、数年前ボストンのガードナー美術館とハヴァード大学での「岡倉シンポジウム」に招かれての報告はそのダイジェストでした。その間ABCで「日本美術史」解読を試みたり、The Book of Teaを読んだりしつつ、その成果を踏まえて明石書店の『新訳茶の本』を出しましたが、それ以来、岡倉について語ることはなくなっていました。
でも、語る機会がなかったあいだなにも考えていなかったわけではない。かえって、それまでの考えを吟味しなおし、磨きをかける時間だったような気がします。 
こんかい、せっかく招かれた機会にそんな成果をお伝え出来たらと願っています。

こんどの話の準備をしているあいだ、もう40年以上も前、ハーヴァード大学の図書館に通ってフェノロサのノートをコツコツ写していたこと、富田幸次郎さんご夫妻が、自宅や行きつけの中華料理店へ連れてくださって、ポツポツと「岡倉先生」の思い出話を聞かせて下ったことなどが、妙に懐かしく思い出されました。あのときの、ボストン滞在は貴重なかけがえのない時間だったのに、その後のボクは、ボストンでの経験をなんにも活かしてこなかったのではないか、という自省と、あのころのボクはなんにも知らなかったなぁという感慨がいま身にしみています。

次回のABCは、2月22日(金)19:00から、波止場会館4B。いつ もの部屋です。

テーマは「北齋と<見立て>」としました。

前回は、鈴木春信から歌麿へと<見立て>の方法が確立していく過程をたどり、北齋の「西瓜図」にその一つの到達点を観たのですが、北齋は、その<見立て>の方法をさらに、深化させていきます。その様子を、かの有名な「神奈川沖浪裏」の錦絵、「富嶽百景」の版本、そして、小布施岩松院天井画の肉筆「鳳凰図」に探っていく予定。

当日参考用の画像は用意しますが、もし、興味があれば、あらかじめ、少し精巧な画集なぞで、これらの絵をとくと眺めておいていただくと、当日の話が面白くなること、請け合い! です。

いまさら「浪裏」とお思いでしょうが、<見立て>という視点から、ちょっと見直してやってください。

「西瓜図」もその過程で、もいちど、考え直しておきたいと思っております。

kinoshitan

2月9日(土曜日)のABCは、いつもの部屋が取れず、4B の隣の「大会議室2」です。
お間違えないよう、お願いします。

<「老子」から教えられること>を続けます。

『老子』がほんとうに何時、初めて、いまわれわれが手にしているような形の書物になったのか。判りません。

1973年に前漢時代(紀元前2世紀初から紀元1世紀)の貴族のお墓から「老子」を絹地に書き写した写本が見つかり、1993年には楚の時代の竹簡(紀元前4世紀ごろのものか)が見つかり、それまで、ほんとうに長い間『老子』は前漢以降に成立したと信じられてきたのですが(その間2000年!)、この考えは覆されることになりました(現在われわれが書店で手にする『老子』の本は、まだ、ほとんどそのことを活かしていないままの本が多いです)。

それまでは、王弼(おうひつ)という3世紀の魏の国の人が作った『老子註』が、テクストの古さと完成度の2点から、いちばん頼りにできるので、もう一つ、古くから読まれてきた河上公(かじょうこう、漢〔紀元前2世紀から紀元3世紀初〕の人、しかし「註付河上公本」は六朝〔3世紀〜6世紀〕成立と考えられている)の本と合わせて、長い間、『老子』底本(テクスト)の権威でした。われわれも王弼本を底本に読んできました。

もちろん、それらのテクストを批判的に読んでいかなればならないことは言うまでもないのですが、馬王堆前漢墓から出土した、王弼より500年は前のものと推定される帛書(甲本乙本二種)、さらに古い楚墓の竹簡などは、破損部分が大きく読めなくなった部分も多く、テクストの全体像が掴めないくらい不整備で、これを底本にするわけにはいかない。で、それらを「老子」の元の形を尋ねるときの重要参照史料として勉強してきました。こんな勉強のしかたはやっかいなのですが、現状では、そういう読みかたをしていかないと、いろんなところで落とし穴に陥ってしまいそうで、そういう注意深い読みかたを心がけてきたつもりです。そう心がけて読むと、逆にエキサイティングです。

その結果、「大器晩成」は「大器免成」と読むべきだというような発見もありました。(つまり、ほんとうのところ、老子は、「大人物はゆっくりと大成する。優れた作品は時間をかけて完成する」ではなくて、「大器は完成することを免ずる=大人物とかすごい作品などというものは未完成なのだ」と言おうとしていたのだ、と解釈できるのです。)

そんな勉強の成果を踏まえて、次回の2月9日は、31章を読んでみたいと思います。

この章は、24句に分節することが出来ますが、その文体・文章構成は、重複感が強いのです。
じつは、31章は、王弼が註をつけなかった(註がついていない)唯一の章なのですが、そんなこともあって、従来から現代に至るまで、多くの老子研究家が、この章は、のちの写本過程の早い段階で(いうまでもないことですが、王弼自筆本は遺っていません!)王弼の註書きを本文と混同して入れてしまったのだ、それならこの重複は説明がつくと推測し、ではどこが、王弼註でどこが「老子」原文か、いろいろな説をいろいろ述べ立ててきました。王弼註が本文に紛れ込んだことを、物的証拠はなにもないまま、それを前提に、みなさん議論を積み重ねてきたのです。ついこのあいだまで。
 
じつは、1973年に発見された馬王堆帛書には(甲本乙本ともに)、通行の王弼本とほぼ同じ配列(24句から成る章句構成)になっていたので、この長い期間に亘って繰り返されてきた議論は水泡に帰した、というわけです。

これは、「近代」の知的建造物が、一瞬にして崩壊したような劇的な例ですが、ここから、われわれが「近代」批判を追究するうえでどんな心構えを持つべきか、教えてくれるような気がします。今回はそんなことを考えてみたいと思います。

それから、帛書を読んでいると気になる、たとえば王弼本では「聖人」とあるのが、帛書では「聖」の下の「王」が省かれ、「耳」と「口」を組み合わせただけの文字が書かれています。

「聖」の場合は、どちらでも意味解釈上とんでもない違いは出てこなかったので、いままでこだわってきませんでしたが、31章では、「泣」(王弼本)が「立」(帛書甲本)になっていて、これは、かんたんに「(さんずい)」を略していると言って済ませられない意味の違いが生じてしまいます。

ここいら辺で、いよいよ、漢字の独特の性質である「象形」「指事」「形声」「会意」と「転注」「仮借」(昔から「六書」と言われている漢字の分類法)の役割を改めてじっくり理解しておくときが来たような気がします。

これは、じつは、日本語の運命と深く関わっている漢字の特性で、金曜日に勉強している<無文字文化>、とくにそのなかの<見立て>を考える上で押さえておかなければならないことだ、ということを発見しそうです。
 
楽しみに!

前回読み進められなかった21、26章が残っていますが、これは、そのあと勉強したいと思っています。

kinoshitan


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事