|
それは、いうならば文章を読んでいるときの、読者の頭脳の無意識の部分にそうっと忍び入って、読者のその文章への判断力を、言葉にならない感覚の位相で養成していく─そういう場面で重要な役割を果しているはずだ。(それをボクは以前から「韻律」の問題と呼んできた。)だから、あのリブロポートの『中井正一』を書いていたとき、そのテクストクリティークでもって、全集版を読んでいるときには気づけない新しい中井解釈を、直ちに提出しなきゃいけないとは、まったく考えていなかったのだった。(今後、新しいテクストクリティークによる中井正一の読みかたが拡まっていって、ゆっくりと、新しい中井正一の読みかたと中井正一像がつくられていくための提言ができればいいという考えだった。頭脳の働きの問題というより身体に働きかける問題として、文体の問題を考えることが大切だと思うからだ。)
しかし、後藤氏の批判を喰らって「やられた」と思ったことは確かだ。彼がテクストクリティークの役割にそういう期待をもっていたこと、これは、テクストクリティークを問題にするとき当然心得ておくべきことだったのに、ボクはそれを怠けていたことは確かだからだ。 ただ、敢えていいたいのだが、こういうふうに文章を初出の原文で読むと現代日本語に改竄された文章とこんなに読みが変ってくるよという成果を早急に見せられなければ、初出を大事にしたいという主張などナンセンスではないか(ことわっておくが、後藤氏はボクのやったことがナンセンスだと、そこまでボクを責めてはいない。ただ、後藤氏の批判の主旨を引っぱっていくと、そういう意見にまで辿り着く)、そういう意見は、一種の性急な近代合理主義に陥りはしないか、とボクは思っている。 文体の問題というのは、そういう、すぐに成果を見せられない場面で、じっくりと文章を味わう心がけの問題として、まずは考えて行きたい。それはそのまま、現代をどう生きるか、現代の情況へどういう姿勢で向かい合うか、という生きかたの問題とつながっていくような気がする。 そんなことを、あの席上でいいたいなと思っていて、発言する機会をみつけられないまま閉会になったので、ここに誌しておきたいと思う。 (2010.12.30) kinoshtia |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用




