木下長宏のウェブログ

網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

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内容報告と日程の変更

内容報告と日程変更

12月12日(土)の〈土曜の午後のABC〉は、「自画像の思想史」第三回として、日本の江戸以前の自画像の特質について概観しました。時間軸をY軸にし、〔0点より上が「自画像の時代」「自画像以降の時代」、0点より下が「自画像以前の時代」〕、X軸の右側はヨーロッパ、左に日本〔X軸上にそれぞれの特徴を順列〕という配置で、「自画像の思想史;作品の展開分布図」を作ってみました。
次回からは総論を踏まえて、各論に入りたいと思っています。

次回は= 1月22日(第4金曜)19時から =です。

その日程ですが、第2土曜、第4金曜のリズムを守りたいと思っていながら、部屋の予約に失敗してしまい、2月だけは例外に、
= 2月は6日(第1土曜)14時から =といたします。

とりいそぎ報告とお詫びまで。
kinoshita

「自画像の思想史」は、10月第4土曜から始めました。

第一回は、まず、序論風に、なんさつかの「自画像」を記述した本を紹介し、それらがすべて「自画像」の「美術史」を書こうとするばかりに、ルネサンス以降の絵画しか対象にできないこと、また、自画像を見つめながら、結局その絵を描いた作家の「人生」を語ることに陥っていること、「自画像」という現象にはじつはそういう落し穴があること、などをいくつかの例に沿いながらお話しました。
そして、後半に、ボクが何年かかけて作成してきた「<自己=人間>対<世界>の関係意識変遷構図」をふたたび紹介しつつ、そこに読みとれる「古代型」「近代型」「現代型」がそのまま「自画像以前の時代」「自画像の時代」「自画像以降の時代」に対応し、その視点から、美術史/芸術史が見通せることをお話ししました。つまり、「自画像の思想史」という視点をもてば、「自画像」を契機に人類の美術史/芸術史全体を考えることができる、その例をいくつかとりあげました。

第二回11月27日は、前回お出しした「<自己=人間>対<世界>の関係意識変遷構図」をベースに、「自画像の作品分布図」を制作し、その「西洋絵画篇」を考えてみました。40点を超えるヨーロッパの自画像作品を「美術マラソン」と称してつぎつぎと見ていくということもやってみました。

第一回第二回のくわしい報告は、いずれ文章化してHPに掲載したいと思います。

次回12月12日(土曜)は14時からいつもと同じ波止場会館4Bの部屋ですが、テーマは「美術史散策」のもと、「自画像の作品分布」日本篇を考えたいと思っています。11月27日(金)と合わせて、「自画像の思想史」総論ということになります。これで、冬休みに入り、第三回は年が明けて、2010年1月22日(金)19時〜「自画像の思想史」各論に入る予定です。
よろしく。
kinoshita

大里君が亡くなった…
 
 2009年11月16日未明、この一年の闘病の果ての悲しい報せだった。病状の厳しいことは早くに教えられていたけれど、こうして彼の死の報せに直面するのはつらい。
 もっと生きていてほしかった。

 大里君とは、ボクは、横浜国立大学へ就職してから、メディア研究講座という研究室に所属するなかで、最も気のおけない若い同僚仲間の一人だった。メディア研究講座は、大学のなかでも、とくに時代と社会、制度に対する若々しい批判精神の持ち主たちが集まっていた。大里君にとっても、ボクにとっても、そこはなかなか居心地のいい「大学」の拠点だった。ある学生が(他の課程の学生だが)社会的にも破廉恥な間違いをやったとき、学部の教授会はいっせいに退学処分を認めようとしたことがあった。そのとき、敢然と手を挙げて「否」を表明したのは、大里君とボクが属する研究室の少数のメンバーだった。そんなことがよくあった。
 隠れた権力に対して、過剰なほどに鋭敏な人だった。そして、その感覚を共有できているという言葉にならない確信が(そういうのを旧い言葉で「連帯感」などというのだろう、ただボクたちのあいだでは、それを「連帯感」と呼んだとたんに嘘になり擬制に身を任す事態に陥ることを、ちゃんと判りあえていたということだ)、そういう共有感覚がいつの間にかボクたちのあいだにできていて、それが彼とボクとのあいだを「いい同僚」にしてくれていた第一の要因だと思う。
 彼の研究室はボクの部屋の真向いにあって、その分しょっちゅう顔を合わすことが多かった。顔を合わして、なにげなく交わす挨拶風の言葉がいつも情況への鋭い批判のまなざしをくぐってきたものだった。昨日の教授会のこと、さっきやってきた講義の出来事、出勤途上の電車のなかでイヤホンを通して聴いていた音楽のこと。上原まりさんの謡いによる「平家物語」のことも、その感動振りを熱っぽく、ほんとうに厚く語って─これが立ち話で、なのだ─かつて京都にいたころ上原まりさんを特別講師に招いたことさえあったボクだが、あらためて彼女の謡いが聴いてみたいと、大里君の言葉を契機にカセットを購い直したものだった。
 中央線沿線に住むことにこだわりつづけた人だった。ここにも、「日本文化」に対する彼の鋭い批判と深い思い入れがあった。永遠のアウトローの位相を拠点にしてしか、「文化」は血を通わせ続けることはできない、その土壌は、70年代80年代の中央線に生きた者が培ったところにある、俺はそれに賭ける。彼の思想は、一種の「賭け」だった。とても美しい「賭け」だった。アレかコレかを常に鮮明にするべく、論理を求め経緯を言葉にしようとした。
 梅本洋一氏と大里君とボクと、メディア研究講座でフランス語を担当する三人が『現代フランスを知るための36章』(明石書店)という本を作ったことがある。大里君はその取材のためにパリへ出張した。その出張の仕方が、国立大学の官僚機構の規則を逸脱していて一悶着あったことも彼らしい出張の仕方だったが、原稿の作りかたも大里流だった。当時明石書店でこの本の担当だった高橋淳さんは辛抱強く原稿を待ち続けた。そして、出来上った原稿は、全執筆者のなかで最も批判精神の躍動したフランス便りだった。なかなか原稿を書かない人だったけれど、もっと書いてほしかった。『ガセネタの荒野』(洋泉社)は伝説的な本だが、彼の著書がこれ一冊というのは淋しすぎる。
 ボクがマルチメディア文化課程の主任(課程長っていったっけ)になったとき、若い同僚の「業績」を少しでも増やすきっかけになればと、科学研究費申請を提案したことがある。(ボク自身は、自分の研究や思索を国家に養ってもらうのは、という気持ちがあって、自分の仕事のために科研費の申請をしてこなかった。私立大学では、それでも科研費を申請しないこと自体が問題になることはなかったが、国立大学に来てみると、科研費を活用することが研究態度の評価と直結していることを目の当たりすることになり、国立大学という場所でいかに生きるか、あれこれ苦慮しなければならなくなった。そこで、ボクと同じような感覚でいる大里君などにはぜひとも「業績」を増やしてもらいたいという老婆心も働いた。)そのころ、大里君は45歳を迎えそろそろ教授承認を考えねばならないところへ来ていた。講座会議でそんな話が出ると、自分より年下のジャックリーヌをつかまえて、「ベルントさん、先に教授になってください」と言っていた大里君だった。大里君個人としてはぜったい科研費なぞ申請しないだろうと思われた。
 大里君とジャックリーヌ・ベルントさん、榑沼範久君(研究室のいちばん若い世代の三人)とボクの共同研究で、「戦争と芸術論」というテーマを立てた。「戦争と芸術」というテーマなら、しばしば話題になり、研究している人も多いだろうけれど、戦争がどんな芸術論を産み、芸術論の形成に戦争がどんな役割を演じたかについて論じた成果は見受けられない。思想の問題として取り組んでみようとしたのだった。
 ボクが定年になって大学を退いたあと、この研究会の後始末は大里君が責任をもってやってくれた。大里君はそのとき教授になっていた。
 研究室がお向かい同士で、ボクは割と午前早めに出勤している。大里君は、たいてい、昼ごろの出勤である。彼の活動時間帯は夜、それも夜中なのだろう。昼前、顔を出しても眠そうな表情が多かった。自分の研究室に入る前、ボクの部屋の扉を叩いて「駅前(新宿)の成城石井で買ってきました、いっしょに食べませんか」と、そろそろ昼食かなと思っているボクに「食べ物」を突き出す大里君だった。それはたいていパウンドケーキとかプリンとか、賞味期限の過ぎた安売りのスウィーツだった。
 給料はすべて本とCDに注ぎ込んで、食べ物は賞味期限の過ぎた安売りで済ます、というのが大里君の流儀だった。そのうえ、肉や魚は決して食べない。「菜食主義【ヴェジタリアン】」と呼ばれるのは好まなかったが、並の菜食主義者より頑固に肉類を拒絶していた。そのかわりに、甘いものが大好きだった。つまり、健康のための菜食主義者ではなかったのである。「菜食主義」と言われて健康のためにそうしていると思われる事自体が、彼には許せないことだった。宗教的信条に共感してでもない。ただ、一人の人間が社会に対峙する思想の態度として「肉食」は自分に許せなかったのだ。
 甘いものが大好きな彼のことを思い出して、ボクもよく饅頭だとかカステラだとか研究室へ差し入れたことがある。こんな偏食と定期的に健康診断することを愚とする思想が、彼の肉体を蝕んでいったのだろう。
 煙草は吸わなかった。しかし、禁煙運動には激しい反対と嫌悪の反応を示した。「これ以上禁煙規制が拡がるようなら、僕は煙草を吸い始めるよ」と、いつも豪語していた。そして、ほんとうに吸い始めた。
 病気で倒れる半年ほど前、榑沼範久君がアメリカ留学から帰って来たので、と定年退職していたボクも招んでくれて、宴席を囲んだことがあった。日頃酒を飲まない大里君だが、二次会には馬車道のバーに行って、遅くまで話し込んだものだった。そのとき彼は、チェーンスモーカーになりきっていた。
 「この禁煙ファッショには僕もついに我慢がならなくなりましてね、煙草を吸ってます」と、ケロリと言うのだった。
 同僚の室井尚氏は、『たばこ狩り』(平凡社新書)を出版して民主主義という名のファシズムを指弾し渉りあったが、大里君は自分の身体一個で抵抗し続けようとした。
 人間が集団で作る権力のありかた(表面は民主的に取り澄まして浸行される暴力)にこんなにも全身で抵抗する人は少ない。そこがボクの彼をいちばん好きな理由のひとつだった。研究室の誰もがそうだったろう。室井尚と大里俊晴は、さきほどの抗議の仕方ひとつとっても対極的だが、二人のあいだに底流のような信頼感が流れていたことも確かだ。
 権力に抵抗するからといってその姿勢をいいかげんに崩すことは許さない人だった。大学の講義では、自分の課した必読書、レポートを一つでも手を抜いた学生には「まあいいだろう」という言葉を絶対にかけなかった。提出期限を少しでも遅れてきた学生のレポートも決して受け取らなかった。ボクは、彼の部屋の前に住んでいるので、そうして拒絶される学生を何人も毎年のように目撃した。その拒絶が、権威的でも高圧的でもなかった。しかし、少しも態度を緩めることもなかった。
 ボクが横浜国立大学に入ったとき、歓迎会を横浜駅西口の中華料理店で開いてもらって、スタッフ達の歓迎を受けたが、そういう宴会や会合があるとマネジメントの役を引き受けさせられるのが大里君だった。
 ボクが退職するときも、大里君が仕切った。会場は「木下が喜ぶのはここしかない」と梅本洋一氏がホテル・ニューグランドの旧館のホールを推薦してくれたが、それから先のお膳立ては大里君の仕事だった。
 「最終講義はやらないよ、ボクの最終講義はもっともっと先にしたいからね」とボクが言ったとき、「じゃあ歌を唱いませんか、いつかミッシェル・フーコーと『枯葉』の関係について話してましたね。『枯葉』を唱いましょうよ」と大里君が言った。最初はひるんだが、思い直し、引き受けた。「これはボクが人前で唱う最初にして最後の歌にしたいね」
 それから特訓が始まった。
 ボクは、CDを聴いてイヴ・モンタンかジュリエット・グレコ風に唱えばいいかぐらいに思っていたが、大里君はそんな物真似ではいけないと、楽譜から音を拾って曲調を決め、彼がみずからギターでつけた伴奏をカセットに録音し、それに合わせて自習させられた。最後は研究室で、大里君の伴奏に合わせて仕上げの練習をした。
 こうして、退職パーティでボクは「枯葉」詠唱をご披露したのだが、プロのミュージシャンの伴奏で唱った最初で最後の体験だった。
 「最終講義」はまだやらないと決意したボクは、定年後<土曜の午後のABC>と名付けた私塾風な集まりを始めた。それはまだ続いている。私塾を開くという一見無茶なボクの試みを賞賛し、励ましてくれたのも大里君だった。彼が病床に就いてから、励ましの言葉を聞くことが出来なくなったが、かつての彼の言葉はボクの胸中に生きていて、ボクの「最終講義」は、まだまだ来させない。
 大里君は弱った体力を振り絞るようにして11月の講義にもやってきたという。車椅子が必要なくらい体力が衰えていたそうだが、講義はいつものように凛として、そのときもレポートを出さない学生の出席は拒絶したという。その2009年11月初の講義が大里君の「最終講義」になってしまった。「最終」というのは、こんなふうに予期しないで、後から、あれが「最後」だったのだと振り返れるものこそ、ほんとうの意義ある「最終」なのだ。
 51歳。こんなにも早く逝ってしまった大里君。「生きる」ことにこだわったからこそあまりにも短い人生になった彼の「生きかた」。これこそ、ほんとうに「生きる」とはどういうことか考えさせてくれる生きかただった。

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時とともに巡るもの―――池内晶子の新作に寄せて
2009.10.22~11.15 於 gallery21yo-j

まんなかがぽっかり空いた輪になっていて、その輪から無数の糸が伸び拡がり、全周囲に張り巡らされて網目を作っている。その一本一本に、小さな結び目が、これも無数に結ばれている。四本の、やや太い糸が四つの方向にピンと引っ張られ、壁に繋がっている。作品を支えているのは、この四本の糸だけである。いいかえれば、この四本の糸が作品を部屋の中央に浮き立たせている。中心の円い輪から伸びる無数の糸の結び目からは、細い糸が垂れ下がっている。ちょっとした人の動きにも反応して、それは揺れている。
糸は真っ赤に染められている(これまでの彼女の作品は白だった)。壁は白く、その赤は白い空間に浸み込むように浮き立っている。
赤い糸が織りなされて作る正方形の網だけが、作品なのではない。赤い糸が作る放射状の網のはじまりのなにもない円い輪(空白)も作品の重要な要素である。

                       ☆

散歩をしていたり、なにげなく部屋のなかを見わたしていたり、まなざしを胸の奥へ向けたりしたとき、ふっと思いがけない「美しい」と呼んでいいのか、「ああ、そうだったのか」と声に出してみたいナニモノかに出会うことがある。そんな出会いのなかに「芸術」の芽生えがあるのだろう。
その意味で、日常生活の出来事、日々の行為や事物は、芸術の起源である。
池内晶子の仕事は、しかし、そういう日常に潜む「美」との出会いを記録した作品ではない。彼女の作品のなかでは、起源と結果が一つになって漂っている。
彼女は、それをどこのどんな場所で公開展示するか、あらかじめ念頭に置いて(少し難しく言えば、作品とそれが置かれる空間との関係を十分考慮に入れて)、その「作品」を作り出していない。彼女は、彼女の日々の暮らしの行為の一コマのように「糸」を一つ一つ結んでいく。「結んでいる」行為は、彼女の日常の場において行われている。毎日長い日々をかけて(二年とか三年とか)、少しずつ結び目が拡がりをもった形を作っていく。この日々結んでいくことが池内晶子にとっての作品の「起源」である。その糸の結び目は、冬の池に張る氷に似ている。予定された計画図面(プラン)に沿って一コマ一コマが積み上げられていくのではない。なにかの必然性は働いているのだろうが、それには不用意に身を委ねるだけで、それを決して制作の意識的な方法論理として掲げたりはしない。あたかも、なにかに促される日常の振舞いの集積(集積というと意図が勝ちすぎる、むしろ分散、発生)のように結び目が遺されていく。それ自体は彼女の日々の「生」の痕跡だが、出来上った作品は、そのことをメッセージとして告げていない。あるとき、少しずつ出来ていった氷が、池の表面全体を静かにカチッと張り巡らすように、無数の糸の結び目が一つの形を成す。
しかし、それは決してこれで終り、完成し上がっているというのではない。しかも、決して完全に終了でないことによってそこで完成している。彼女が日々結び続けた痕跡がそのまま結果として展示場に設営される。設営に当っては四本の糸が張られる方向と高さ、網の各辺の長さなどが厳密に計算されるが、作品はそんな細かい測定と計算がなされていることなど、そ知らぬふうにそこ(会場)に浮んでいる。それ以上にもそれ以下にも変わりようのない面持で。そういう完成の仕方で、その作品は、展示場に場所を占めている。その形は、日々目にする事物や印象のイメージを表現(再現)しようとはせず、ちょっと激しく触れたら全部が崩壊してしまう危うさに支えられて、そこにある。その危うさが、日常のイメージを再現していない形であることと重なって、この作品の息づかいを伝える働きをしている。
作品の傍らに立ち、底にもぐり、あるいはゆるりと廻り巡りながら作品の呼吸と自分の呼吸を合わせる。(合わせたくなるように、この作品がそこに佇んでいる。)呼吸を合わせだすと、すぐにそこを立ち去るわけにはいかない。時と共に、その作品は外から入る光の変化によって微妙に変容する。その変容はいかにも弱々しく、しかしまちがいなく確かに、静かに時とともに巡る。
彼女がこれまで定期的に公開した個展は、ビルの中の外光から隠された展示場だったが、今回の展示は、今年新しく開いた「gallery 21yo―j」で、天井も高く全面がガラス張りのアトリエ風。陽の光が満ちてくる。陽の光を受けて浮ぶ作品は、編み上げられた形や編み目、糸が作る無数の線の色彩を鮮明に印象づける。光を背にしたときと、光に向って佇っているときと、その赤い色が別の赤色となってみえる。陽が落ちると、灯りをつけないままの状態では、あの光の下で見えていたくっきりとした線や形が、薄暗闇のなかに吸収され、形は不定形な円盤か盆のように浮いているのだけれど、赤い色がそれまでになく深く漂ってくるのも、静かな驚きである。
──日常のどこにもない形と色が、そこに浮ぶように存在していることが、なぜ、こんな深い印象を与えるのだろうか。おそらく、池内晶子が長い日々(日常)のなかで綯【な】い続けてきた結び目の不定形な集合体が、そういう行為の蓄積であることは一切語らない寡黙さを保つことによって、かえって暗示するように伝えるナニモノかを生み出そうとし、そこ(その作品とそれが置かれる空間)に現れているからである。
細い糸と結び目が見せている形と、形のうちそとにある空白(中央のぽっかり空いた輪、網のあいだ…)とは、等価値である。赤い糸はなにもない空白によって支えられ、空白はかくも弱々しい糸によってやっと形を保っている。そして、それぞれが保ち合いつつ、いつも同じ姿でいない。

                      ☆

美術作品のほめ言葉に「すばらしい弱さ」というのはなかった。しかし、どんなに「強さ」を求める仕事のなかにも「弱さ」は潜んでいて、それにそっと触れえた感動は忘れられないものだった。池内晶子の仕事は、しかし、そういう「強さ」を求める傾向のすべてが排除された、稀有な作品を生み出している。
その弱さは凛として、しかもほのかな暖かみを隠した弱さとでもいえばいいだろうか。

9月12日の土曜日で、〈岡倉覚三「日本美術史」講義現代語訳の試み〉は最終回を迎えました。
16ヶ月にわたって読み切りました。この間、ずっとつきあってくださったみなさん、ありがとうございました。
最後の「総叙」で岡倉は、日本美術史全体をもういちど振り返り、講義の冒頭で出した「時代区分」をもういちど修正しています。さらに、全体からみた「日本美術の思想的特質」とでもいうべきものをとりだしています。最終回ではそういったことをいろいろと吟味しましたが、その詳細はいずれじっくり書き出すとして、そこから、岡倉がこの段階では The Ideals of the East でアジアの美術思想を「儒教(孔子教)」「老子教と道教」「仏教」の三つに分けたような認識がまだできていなかったことも確認しました。
岡倉の美術史思想は三期に別れ、大きな変容を遂げています。
1.1890〜92 日本美術史講義と博物館での「日本美術史」を準備した時期
2.1900年前後 日本美術院での講義をとおして、The Ideals of the East を書き上げる時期
3.1910年 ボストンでの経験を経て「泰東巧藝史」を構想する時期
それぞれの時期の特徴を一言で示すと、第1期は、時代区分をどう決めていくか模索していた時期。
第2期は、日本美術の淵源としてのアジア思想に三つの局面をみつけたこと(いいかえれば老子ー道教の発見)。第3期は、そうしたアジアとの拡がりのなかで、すでに制度化しつつある「日本」「美術」という用語を超えた美術史の視点と方法を展開しようとした時期。
こうして岡倉の美術史の試みは未完で終りますが、その変容過程から、現代のわれわれに、いろいろな示唆をなげかけているのを、読みとることができました。
いずれ、精しく書くとして、とりいそぎ、ご報告まで。
kinoshita


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