|
岡倉覚三の「日本美術史」講義は、もともと「日本美術史」というタイトルはついていませんでした。
講義の内容からこれは「日本美術史」だと、講義を聴いた学生たちもそう思ったし、その筆記録をみたひとたちもそう信じ、岡倉が死んでしまったあとこの講義録が公刊されるとき(1922)も、「日本美術史」と躊躇なくつけられたようです。それはそれでいい。内容はいうまでもなく「日本」の「美術」の「歴史」を語っているのですから。
でも、上に触れたようなところから、じつは興味深い、現代のわれわれにとって、あらためて考えみなけらばならない、問題が、じわっと、浮き上がってきます。
それは、現在、「日本美術史」と呼んで当然と思っている問題群を、岡倉覚三は、そう名づけない問題領域のなかでとりあげ、考えていこうとしていたのではないか、ということです。
それがどんな意味を帯びて、いまのわれわれにとっての大切な問題になってくるか。これが、まず、今回(第3期<土曜の午後のABC>)のテーマのひとつです。
そんな問題意識で岡倉覚三「日本美術史」を読み進めていくと、きっと、いま、われわれが「美術」と呼んでいる世界へのみかたも変わってきはしないか。そんな期待があります。
現在の美術界―新聞やTV、学界で規定し想定している「美術」の枠組をはずして(そんな枠組から脱け出して)、そういう「美術」と呼ばれる営みが、現代を「生きる」ということとと、どんなふうにふかく絡み合っているか、岡倉の「美術史」を読みながら、その問題をじっくり考えたいと思っています。
ただ狭い領域の専門的な「美術」の知識や技術を知るためでなく、「人間」が「生きていく」(現在に立って「未来」へ向っていく)ためのすべての行動や思索へ関わり合っていくことを学ぶことである、というのが、岡倉の心底目指した「美術史」であったことを、読み切りたいというわけです。
その基礎作業として、岡倉の『日本美術史』(平凡社ライブラリー)をてがかりに、彼の講義を「現代語」に直し、そこに取り上げられている作品はどんなものか、写真をみつけだし、それをみつつ、進めていきます。岡倉がその作品について語っていることと、作品を、いま、あらためて見つめることとのあいだにみつけだす落差や共感を、集まってくれたみんなと共有したいとねがっています。
現代語訳の試みは、ABCの集まりでは、未定稿をみなさんにお配りしていきます。そのテクストを巡っての議論や写真を見ながらの話のやりとりは、再現できませんが、現代語訳のテクストと作品図版はできるかぎり、ホームページに、掲載していきます。
岡倉の「日本美術史」をとおして、<美と出会う>ことのあたらしい意味がみなさんの裡に蘇ってくることを願いつつ。
kinoshita,n.
|