木下長宏のウェブログ

網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

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山口さんからお便りいただいていることを知り、たったいま、ゲストブック拝見しました。
(じつは、ブログにいただくコメントの類は、たいてい匿名で、なかにはすぐに消してしまいたいようなことをおしつけがましく投稿してくるものが多く、もううんざりして開かない習慣がついていました。で、もう一ヶ月ちかくも前にいただいたのに、失礼していました。)

匿名でなく。率直にご意見聞かせていただいたことをとてもうれしく思います。

<土曜の午後のABC>に杏村をとりあげようと決めて、どんな文献があるかなって調べたところ、同時代のお仕事は、たった一冊。あなたの『土田杏村の近代』(ブログで御著書名を間違えたこと、お詫びします。こんど<土曜の午後のABC>第一期分をまとめて出版してもらうので、そのときには間違えないように記載します)を発見。ああ、今の時代に杏村に関心をもっている人がいるのだ、とちょっと感激したものです。
Kにはとり上げたい候補は何人もあったのですが、誰よりもまず、「杏村」だと、計画を立てたとき決めていましたが、それは、杏村が、現代であまりにも軽視されている思想家であることと、彼の<孤独>な闘いは、現代にこそみつめなおさなきゃならない(できれば、あの生きかたを蘇らせたい…)という思いがあったからです。

いただいた文面から察するところ、杏村に対する考えかたも、あなたとボクは共通するところが多いようで、なによりの励みになります。
いまは、杏村から離れておられるようですが、どんなテーマに取り組んでおられるのでしょうか。
またいつか、お会いできて、杏村論にかぎらず、お話できる機会があればいいなと思います。
いずれにしろ、これからのお仕事、がんばってください。

とりいそぎ。コメントを拝見したお返事まで。

kinoshita

第3期開始!

岡倉覚三の「日本美術史」講義は、もともと「日本美術史」というタイトルはついていませんでした。
講義の内容からこれは「日本美術史」だと、講義を聴いた学生たちもそう思ったし、その筆記録をみたひとたちもそう信じ、岡倉が死んでしまったあとこの講義録が公刊されるとき(1922)も、「日本美術史」と躊躇なくつけられたようです。それはそれでいい。内容はいうまでもなく「日本」の「美術」の「歴史」を語っているのですから。
でも、上に触れたようなところから、じつは興味深い、現代のわれわれにとって、あらためて考えみなけらばならない、問題が、じわっと、浮き上がってきます。
それは、現在、「日本美術史」と呼んで当然と思っている問題群を、岡倉覚三は、そう名づけない問題領域のなかでとりあげ、考えていこうとしていたのではないか、ということです。
それがどんな意味を帯びて、いまのわれわれにとっての大切な問題になってくるか。これが、まず、今回(第3期<土曜の午後のABC>)のテーマのひとつです。
そんな問題意識で岡倉覚三「日本美術史」を読み進めていくと、きっと、いま、われわれが「美術」と呼んでいる世界へのみかたも変わってきはしないか。そんな期待があります。
現在の美術界―新聞やTV、学界で規定し想定している「美術」の枠組をはずして(そんな枠組から脱け出して)、そういう「美術」と呼ばれる営みが、現代を「生きる」ということとと、どんなふうにふかく絡み合っているか、岡倉の「美術史」を読みながら、その問題をじっくり考えたいと思っています。
ただ狭い領域の専門的な「美術」の知識や技術を知るためでなく、「人間」が「生きていく」(現在に立って「未来」へ向っていく)ためのすべての行動や思索へ関わり合っていくことを学ぶことである、というのが、岡倉の心底目指した「美術史」であったことを、読み切りたいというわけです。
その基礎作業として、岡倉の『日本美術史』(平凡社ライブラリー)をてがかりに、彼の講義を「現代語」に直し、そこに取り上げられている作品はどんなものか、写真をみつけだし、それをみつつ、進めていきます。岡倉がその作品について語っていることと、作品を、いま、あらためて見つめることとのあいだにみつけだす落差や共感を、集まってくれたみんなと共有したいとねがっています。
現代語訳の試みは、ABCの集まりでは、未定稿をみなさんにお配りしていきます。そのテクストを巡っての議論や写真を見ながらの話のやりとりは、再現できませんが、現代語訳のテクストと作品図版はできるかぎり、ホームページに、掲載していきます。
岡倉の「日本美術史」をとおして、<美と出会う>ことのあたらしい意味がみなさんの裡に蘇ってくることを願いつつ。
kinoshita,n.

第二期ABC終了!

「西行」を三回にわたって語り、とりあえず、第二期を締めくくることにしました。

三月四月五月と、三ヶ月もかけたのですが、それでも駆け足だった「西行」への旅でありました。でも、少なくとも、現在の「西行」神話へ楔を打ち込むことはできたかと、ちょっとばかり自負しています。とりあえず、要点を出してみると…
1)西行は「漂泊の歌僧」などといった呼びかたで括れない生きかたをした。院政が確立する時代を、<歌>を武器にあの時代と闘おうとした、―<闘う西行>像を再編構築することこそ現代の課題である。
2)<歌>を武器に時代と相渉るという生きかたは、院政が排除しようとした、<古代的なもの>へ賭けることだった。桜を内面化しようと詠う彼の歌の底に流れているのは、詩経や屈原などにもみられた<植物>との同化を願う<古代>アジアの意識と重なる(その意識はもちろん万葉・古今にも滔々と流れている)。
3)しかし、この時代(院政という権力構造の中で)、<歌>の役割は大きく転換変質させられていく。日常のあるいは政事など、人びとが表現するという広い場面で、つねに選ばれる有功な手段であり方法であった<歌>が、その実質的実用的な表現力を剥奪されていく(知識人の知的遊戯の場面に封じ込まれ、「新古今」的な世界へ吸い上げられていく)、そういう状況が西行を包み込み、西行の歌は自問自答を繰り返さざるを得ない。
4)西行神話は、したがって、早くから、おそらく西行が亡くなってまもなく、形成されていかなければならなかった。神話化は、ほかでもない、<危険な西行>を中和させる。「西行物語」は、神話形成初期の産物である。
5)この西行神話を解体して、<闘い悩む西行>像を、その作歌から読みとるとき、西行があらためて新鮮な同時代人として、われわれの隣に生きてくるではないか。
そのために、あの西行といえば、という形で扱われる「ねがはくば花のしたにて春死なん…」の一首など、旧来の解釈を批判し新しい読みの可能性なども試みてみました。できるだけ早く詳しい報告をHPに載せたいです。

第二期は、「異時同図法を考える」というテーマで2回、「美のはじまり―沈黙と韻律」というテーマで、6回、「西行」を3回と、一見、テーマに一貫性がない如くにして11回、池のあちこちから氷を張ってみようとして、一面見事に氷が張りめぐる段階にまで行かないまま、とりあえず、第二期の扉を閉めることにしました。
「異時同図法」の問題も、じつは、「美の起源=はじまり」のテーマと深く絡んでくるのですが、そのためにも、東アジア、西アジア、アメリカ大陸、そしてアフリカ大陸の美の現象をしらべて行かなければならないし、「美のはじまり」についても、もっといろいろな接近のしかたがあります。それらは、これからテーマの立てかたを工夫しつつ、取り組んでいきます。
第三期に岡倉覚三の講義録「日本美術史」を選び、それを10回かけて通読解読してみようとしたのも、そんな見通しの一環ではあります。とはいえ、一回一回が、勝負です。一回一回、独立しかつそこで完結している集まりにします。10回連続という枠に拘束されないでご参加ください。

西行(その1−3)

西行150308ノート
(三)
絵巻と歌に入る前に、西行の生きていた時代のことをもう少しみておきたいと思います。(絵巻については4月の<ABC>で、歌は五月にとりあげたいと予定しています。)
西行を考えるうえで、その時代状況を考えておくことが大切だという理由は、二つあります。西行は、佐藤義清だったころ、この時代の中心舞台のすぐ脇役を勤める位置にいたということ。そして、出家したとしても、すぐ朽ちる道を選ばず、数え年73歳まで生きた彼にとっては、こういう状況は、彼の生きかたの地盤として彼を包んでいただろうということ。ほかの遊行僧のように、世間でなにが起こっているかそんなことは知らないよっ、というふうに禅定を組んでただ自ら朽ちるのを待っているような生きかたをしなかった西行です。
時代の姿を、西行は、出家するまでは、肌に直接ピリピリ感じるくらいの位置に居り、出家後も、そういう状況をトータルに理解できる圏(知的な圏域とでもいいますか)から脱出しようとはしななかった。
お寺に所属しない放浪僧=遊行僧でありながら、和歌に秀で、そんな身分で時代の姿をちゃんと心得ていた人??西行は、当時の状況にあって極めて例外的な特異な人物だったことはまちがいなさそうです。
さて、手書きのレジュメをごらんください。
ひとくちに言えば、天皇の系譜なのですが、まんなか、1072年(延久四年)白河天皇が即位したとき、西行となる佐藤義清はまだ生まれていませんでしたが、西行の時代背景ということになると、どうしてもここまで遡らなくてはなりません。というのは、この白河天皇が譲位してから「院政」が始まるのです。
院政は、日本の歴史を考えるうえで、とても重要です。表をみていただいて、一目瞭然でしょう、天皇はどんどん変っていきますが、上皇は変りません。そして、この院政の特質は、天皇が表向き日本の政治体制の頂上に座っているのですが、じっさいの権力を行使するのは上皇、つまり「院」の座にいる太上天皇(たいじょうてんのう、もしくは、だいじょうてんのう。上皇というのは太上天皇の略)なのです。
そこでどういうことが起こったか。天皇という表向きの看板を置いて陰で黒幕が実権を揮う政治構造の成立です。安土桃山時代から江戸時代へかけて、そして現代の象徴天皇まで続く構造は、ここで形成されたということです。
もうひとつは、それまで、つまり白河天皇が譲位するまでは、女系制度がつよくのこっていました。それにつけこんだのが藤原氏で、そんな話はみなさんじゅうぶんご存知でしょう。娘を天皇の后(きさき)にやって男の子を産ませ、娘といったって他人の娘を養女にしてでも籍は藤原家の娘にして、天皇の傍にもっていくのですが、外戚をこうしてがっちり固めて、権力を掌握していたのが藤原氏でした。
平安末期、白河のお父さんの後三条天皇あたりから、なんとかこの藤原氏を外そうとしだすのですね。細かい経過はここでは省略しますが、院政はそういう女系の支えられた権力構造を男系、男の手にわたした構造へ切り替えたのです。
息子の堀河(ここにいう堀河天皇とか白河天皇とかいう呼び名は、みなあとでつけるので、即位した当初はナントカ皇子とか呼ばれていたはずですが、判りやすくするために天皇名で呼びます)に、天皇の位を譲ったとき、堀河は満6歳(数えで7歳)、白河は33歳です。幼い天皇の後ろ盾になって実権を執ったわけです。この時代ほとんどみんな訳も分からない幼いうちに天皇にさせられ、上皇が背後ですべてを動かしているのです。
崇徳天皇がいい例ですが、佐藤義清6歳のとき天皇に即位します。そのとき、崇徳も、数えで5歳です。
崇徳天皇は、系譜上は堀河の孫、鳥羽の息子なのですが、レジュメの下のほうにある系譜をみていただくとお判りでしょう、崇徳は、曽祖父白河上皇と待賢門院とのあいだに出来たということは、誰もが知っていることだったらしい。鳥羽天皇は、父の堀河が亡くなって天皇に即位しますが、そのとき彼は満4歳。もちろん実権は祖父の白河上皇が握り続けていました。そして、鳥羽は20歳のときはやくも譲位しようとします。そのとき、第一皇子の崇徳を即位させますが、祖父の白河上皇がなくなるまで6年半、じっとがまんの生活をして、祖父がなくなると、上皇に就き、崇徳いじめを始めます。
まず、崇徳を天皇位から降ろさせようとします。お前が上皇になるんだよ、と甘いことをいって、崇徳が22歳のとき、天皇を廃めさせます。崇徳天皇は、自分が天皇位を降りたら当然自分の子の重仁が跡を継ぐはずと思って退位すると、鳥羽上皇は鳥羽と美福門院(待賢門院のあと皇后になった)との間に生まれた子(近衛)を即かせました。そのときに鳥羽上皇はいろいろ策略して、崇徳は上皇にはなれず、近衛天皇の時代になって13年間、鬱屈した宮廷暮しをしていたのでしょう。その間和歌をつくり管弦とかに身を入れていたようです。
そして、ついに鳥羽上皇が亡くなり、自分の実の弟の後白河が天皇に即位すると決まっていたのを知ったとき、とうとう怒りが爆発して、やはりいまの体制に不満を持っていた藤原為家らと組んで、叛乱を起します。これが、保元の乱です、1156年。
崇徳側はあっけなく破れ、崇徳は讃岐(四国)に流され、そこで悶々として死んだと伝えられています。西行はのちに四国へ旅行して、崇徳天皇の墓参りをしています。
余談ですが、この配流され悶死するまでは、リアルタイムに即していうならば、「崇徳天皇」ではないのですね、「崇徳」という称号は、彼が死んだのち、京にいろいろと不吉な出来事がつづき、讃岐で死んだ男の怨霊のせいだと占いが出て、鎮魂のために与えられた称号です。
こうした、天皇家の争い、藤原一族が絡んだ争いに、大きな役割を果すのが、平家と源氏の武士階級で、平清盛、源頼朝は、この保元の乱をきっかけに勢力を伸ばし、まずは平家が天下を取りますが、源氏が逆襲して鎌倉幕府を樹立する??これはもうみなさん、よくご存知の話です。その間に、平家物語が謡われ、義経物語が語られる出来事が続くわけです。お配りしたレジュメの一番下にいる後鳥羽天皇とその上の安徳天皇は兄弟ですが、安徳天皇は平氏に担がれ、源平の戦いに敗れて、壇ノ浦の海に幼い命を終える話も平家物語の有名な一節です。安徳天皇の即位は3歳のとき、亡くなるのは、数えで8歳です。
後鳥羽天皇は4歳で即位させられ(安徳天皇が連れ去られていったので、後白河上皇が神器なしのまま即位させます)、18歳で譲位し、のち上皇として60歳まで長らえ、「梁塵秘抄」などを編集したり、鎌倉文化の形成に活躍します。後鳥羽院政を23年間に亘って維持しました。
後鳥羽院まで話が行ってしまうと、もう西行はこの世のひとではありせん。かし、西行神話は、まさに、この後鳥羽院政のもとで育てられていったというべきでしょう。政治は鎌倉幕府に任せ(しかし実朝と微妙な関係があり簡単に政治を棄てたとはいえません、実朝暗殺のとき討幕を企て失敗、隠岐に配流されます)、「新古今和歌集」の撰集や「梁塵秘抄」など、芸能文化の開拓に精力を注ぐ、その過程で「西行神話」は固められていくからです。後鳥羽上皇がいなかったら、「西行神話」もまたちがうかたちをとっていたとも考えられます。
いずれにしても、こうした「院政」に象徴される日本独特の「天皇制」??まず「女」系の権力を完全に抑え込んで、父と息子の関係の中にある「男」支配の政治社会構造をつくり上げたこと。そしてその権力のメカニズムは、本当の実権を握る権力は陰に隠れるように、表向きの「天皇」を拝ませておく。拝まされる側からいうと、「お天子様」(天皇のことを昔はそう呼んでいました)は、庶民の目の届かない高いところで政りごとをなさっていらっしゃる、ありがたいことだ、政治のことはお天子様にお任せしておこう、という意識のありかたを内実化させられていく??そういう意識と制度が、この「院政」の確立のなかで成熟していきます。
こういう制度と意識が形成されていく時代状況の下、西行は、そういう制度の外へ逸れる生きかたを選んだということです。「西行的なるもの」というのは、まさに、この生きたかの選択に発端をもち、そこから考えを始めていかねばならないと思います。
院政に象徴される社会組織のありかたは、現代の日本にまで引きずってきているので、その意味では、この平安末期、権力構造の「日本的」ともいえる特質が準備されたといえます。それは、いいかえると、「古代的」なものを廃棄・喪失していく過程を一歩すすめたということです。一歩といいましたが、それは、いままでにない決定的な一歩、でした。西行が院政体制の外へ逸脱しようとする生きかたを選んだということは、別のいいかたをすれば、廃棄される「古代的なるもの」に執着する生きかたを選ぼうとした、ということができると思います。お寺に所属するのでもない、遊行僧をして野原で朽ち果てるのでもない、僧服を着て公家たちと交流し、歌を作って生きながらえていく、という同時代のなかで例のない「出家」のしかたを選んだのには、そんな理由があった。そこに「西行的なもの」をみつけたいと思います。
西行の歌の魅力は、そういう西行の生きかたを詠っているところにあると思います。
古代的な政治社会構造とその意識、つまり「女」系社会構造に支えられた権力のありかたとその意識です。待賢門院への失恋と出家が結びつけられる伝説が生まれたのは、西行が「古代的なるもの」に執着した生きかたをしたことをいち早く嗅ぎ取った人びとが、「古代的なるもの」の象徴代理を待賢門院に与けて西行伝説に仕立てていったのかもしれません。待賢門院との恋の苦しみに耐えかねて世を捨てたとか、で彼の和歌の核心を詠むというのでは、西行が小さくなりすぎです。
西行という人の実体(実像)は、ほとんどなにも判らないのに、神話がどんどん増殖してこんにちに至っているのも、そういう時代との緊張関係の、西行のみごとさが、神話化せざるをえなくさせた、と考えてみたいと思います。
☆☆☆
これで、「西行」を考えるための、西行像の基礎作業はできたかな、と思います。
つづいて、4月は絵巻を眺め、5月には和歌を少し読みたいと考えています。
もちろん、西行の和歌を一回で読み切るなんてまったく不可能なんですが、現代をわれわれひとりびとりが生きていくうえで、なにかいい刺激を与えてくれる、そんな西行に出会うための彼の歌を読む緒をつかんでみたい、というふうに取り組んでみます。
その間三ヶ月に及びますが、みなさんご自身が、西行を考えていただく参考になる本を、すこし挙げておきます。
もちろん、「山家集」などの歌集はいわずもがな、です。
『西行物語 全訳注』講談社学術文庫で、西行物語が気軽に読めます。解説が実証主義に徹しているのが気になりますが、他に現代語訳がないのが現状。
絵巻は、角川や中央公論社から出ている絵巻全集を、ぜひ開いてみてください。なかなか本物をみる機会がないのが残念です。3月、出光美術館で、「西行の仮名」展が開かれ、そこに宗達筆の西行物語絵巻の写本が展示されることになって、これはいいチャンスと思ったのですが、ちょっと裏切られました。というのは、宗達が写した絵巻と同時に、その元になったという写本、宗達のを写したと考えられる光琳の写本も展示され、その宗達が手本にしたという写本は「津軽写本」などといわれていて、宗達筆のより、ずっとすばらしい出来映えの絵巻なのです。しかし、こちらは参考程度に一部だけしかみせていなかった。「宗達」や「光琳」ならお客がくるという浅ましい、美術館の下心が透けて見えるようでした。
西行論としては、吉本隆明の『西行論』(講談社文芸文庫)と小林秀雄の「西行」(新潮文庫『モオツアルト・無常という事』所収)、この二つをじっくり読まれたら充分です。小林秀雄は短くて手頃です。このエッセイ、彼一流の逆説が陰を潜めていて(高飛車な物言いは相変らずですが)、小林秀

西行(その1−2)

西行150308 報告
(二)
さて、「西行」の実像については、判っていることよりわかっていないことのほうが多い、というより、判ったとして流布していることが現代のわれわれの「西行」像の前提をつくっているらしい、というところを、まず、お話しました。
そこで、いや、そんななかで、もしこれだけはまず、まちがいないと思われるところ(事実)をとりだすとしたら…それが、レジュメの略年譜です。
生まれは、元永元年西暦1118年です。誕生日は分かりません。よく、彼の家系のことを云々している人がいますが、家系については、疑っておいていいと思います。当時、上皇だった鳥羽院を守護する武士、それも下っ端の兵卒ではなく、もっと部下をなんにんも抱えた武将だったらしいので、財産もあり、それなりの家柄の息子であったでしょうが、平安時代の貴族との家系上のつながりを持ち出して、だから西行は…と展開するのは、そんな恵まれた人間が出家などして、とその出家という出来事を大げさに彩るだけで、「西行」という人を考える上では、なんにも意味をもたないでしょう。どんな家柄の出身であろうと、それで彼自身の生きかた・彼の歌の価値が変わるものではないし、それで変わるような歌なら、始めからつまらない歌です。
判っていることは、とにかく鳥羽上皇の御殿の北面を守護する武将だったらしく、18歳のときからその職に就いていたことが当時の史料から裏付けられ、それは1135年の事項として出しておきました。そして、つぎは、もう出家(1140年)です。
24歳の項(1141年)、「そのころ洛外に草庵を結ぶ」と記しましたが、嵯峨の辺り雨露を凌ぐ小屋を建てたか、そんな庵を見つけて住んでいたというのです。これは、山家集なんかにある西行の歌とかから推測してそうだろうというしかないのですが、とにかく出家してどこかの寺に入らず、しかも京のみやこからは離れようともしなかった。この二つの事実がここから読みとれるわけです。そして、この二つの事柄が、「西行的なもの」を浮びあがせらることに役立ってくれそうです。
撰集抄は、西行と同じような境遇の武士(もののふ)が、ある日突然この世の無常を知って、髻を切落し出家した話をたくさん集めてあるといましたが、撰集抄に出てくる人たちは、ほとんど、出家のあと、つまり「この世」を捨て、京(みやこ)を離れ、ひたすら「死」へむかっていく生きかたをしています。
出家した日から、物乞いも控え目に、野原や木の下で、禅定を組み、そういう僧をみつけた村の人が食べ物を持っていってあげ、それは感謝して食べるのでしょうが、そんな村人がある日食べ物を持っていってあげると、もう死に果てていた、そんな話ばかりなのです。こういう「この世」の捨てかたは、当時流行していました。流行していたといういいかたは変ですが、当時は天台浄土仏教が盛んで、異時同図法の日本篇でもお話しましたが、「この世」と「あの世」の考えかた感じかたが、現代のわれわれとは、まるっきりちがいます。ですから、この世は無常だと観得したら出家して、「あの世」へ行こうという生きかたのひとつのスタイルとして、こういう野ざらしになって朽ちていくというのが、パターン化されていたようです。
西行は、その流行の真似はしなかった、ということです。そして、寺にも属さず、すぐ朽ち果てていく方向も選ばず、僧服を着て、京の町を往き来していました。僧服を着ているということは「この世」のすべての制度から脱却しているという意味を自己表現しているので、たとえ、生きていていても異界に属する者として扱われていました。「西行物語絵巻」(次回ゆっくりみます)にもでてきますが、子供たちからは、気味悪がられ、大人からは、この世の社会のしきたりには縛られない特別扱いを許されていました。僧服を着ているということは、この世にいても、すでに異界(あの世)の人だったのですね。
西行は、この僧服を着ていることの世俗的な特権を利用しようとして出家した、ちょっと意地悪ないいかたをすると、そんな出家のしかたをします。当時、パターン化されていた「出家」のいずれにも属さない方向を選んだのです。
僧服を着ているということは、「この世」に属さないのですから、洛外に住んだのですが、洛中に出入りは自由にしています。京都は、北に一条通、南に十条通り、と十本の道が東西に走っていて、東の端は東大路(ひがしおおじ)、西は西大路(にしおおじ)、そのまんなかに大極殿につうじる朱雀大路といった道からなる碁盤目の条坊からできています。その碁盤目のなかが「洛中」で、伏見とか、嵯峨とか、北白川とか、嵐山、のちに光悦が住んだ鷹峯(たかがみね)とかは、「洛外」というわけです。こういう「洛中」「洛外」意識というのは、京都に住んでいる人にじつに長きにわたって染み込んでいたようで、ボクがこどものころ京都の伏見にいたことがありますが、この伏見になん世代かにわたって住んでいる人たちは、四条とか三条とかの都心部(繁華街)へいくとき、「ちょっと京都へ行ってくる」っていうんですね。ボクは、ここも(京都市伏見区ですから)「京都」やんか、とふしぎな疑問をもったことがあります。もっとも。西行の時代には、京のみやこを「洛」とよぶ慣わしはまだととのっていませんでしたが…
ちょっと脱線しました、略年譜にもどります。
1142年(康治元年)の項ですが、ときの内大臣藤原頼長のところへ、西行は、直接会いに行って、みなさんに「一品経」を詠んで勧進していただきますからよろしくお願いします、と言いに行っております。これは、頼長が、日記をつけていて(「台記」とよばれています)、そこに頼長自身が書き遺していますので、歴史的に裏付けがとれる出来事なのです。そのとき、頼長は、西行の年令をきくと25歳(もちろん数え年)とのこと、と誌しているので、ここから生年も判明するわけです。かつて北面の武士だった、というようなことも、頼長は誌しています。
それにしても、たとえかつて北面の錚々たる武士だったとしても、いまや出家の身。それでいて、内大臣に会っているなど、やはり、独特の位置を西行はとっていた/とれた人物だったということです。
西行が出家した理由として、むかしから二つがいわれてきています。一つは、院政の支配下にあって、血腥いこの世に嫌気がさしたという説。院政のことは、(三)でもうすこしお話したいと思っています。ともかく、この世に無常を感じて出家したという説と、もうひとつは、鳥羽上皇の后(きさき/中宮)だった待賢門院に失恋して世をはかなんで出家したという、この二つです。西行神話が生まれるとすぐこの二つの説が登場しています。どちらが本当か、もちろん、いまさらそれを裏付ける史料はありません。
魅力的なのは、失恋説のほうで、これは願ってもないエピソードですから、これに喰らいついて、西行の歌をことごとく(ちとおおげさですね)その失恋の傷手とそれを思い切るための決意というかそういう解釈に持っていこうとする西行論もあります。そういうのは、そりゃぁお好みで、としかいいようがないと思いますが、逆に、これは、西行神話形成のうえで、おおきな陥し穴になっていると思います。
皇后に失恋した若武者というエピソードに嵌り込めば、いくらでも神話は紡げます。しかし、これはどこまで行っても、あったかもしれない虚構物語(つくりばなし)を超えることは出来ないし、西行の歌の読みかたも、そのために歪曲しているかもしれないということを忘れないようにしたいと思います。
とにかく、なるべく、いま手元にある最少の西行に関する資料から考えようとすれば、出家して(動機はなにか明確ではないが、出家は出家だ、この世の地位も名誉も境遇も捨てて)しかし、中央の(京の)和歌をつくる集まり(人間関係)からは離れなかった、ということです。
これは、晩年までそうです。
その後、高野山へ行き、四国や奥羽地方、吉野山、大峰山、伊勢志摩と、旅をしたり、庵を結んで何年か滞在したりしますが、やっぱりしょっちゅう京へ戻ってきます。臨終は、弘川寺でしたが、この弘川寺、今回の略年譜では河内としておきましたが、異説もあります。没年はまちがいないようですが、どこで亡くなったかも、じつは、絶対確証はない、ということのほうが大切なことなのです。
この略年譜を眺めて下さい。40代なんか、記載することはなにもない、というより、なにも確実なところは判らない。
これこそ、「世を捨てないで」「世を捨てる」生きかたといっていいのかもしれません。

(つづく)


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