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西行(その1ー1)

西行150308 報告
(一)
西行について書かれた本はじつにたくさんいっぱいあって、全部に眼を通すなんてとてもできないという感じなのですが、そのいくつかを読んでいて、その著者たちに共通している思い入れのようなものがあるのが気になっていました。
「西行」といえば、「漂泊の歌僧」「無常を生きた偉大な僧侶歌人」というのが無条件の前提になっている。誰もが、この前提から西行論を始めている。そういう意味では、西行という人はすごく神話化されているなぁということだけは否定できない。ほとんどの人が思いこんでいる「西行」像がある。そして、その「西行」像がそのままその著者たちの「西行」観を支えている。しかし、ほんとうのほんとうのところ、西行という人が平安末期の12世紀にいたのですが、その西行という人が、直かに書き遺したもの、置いて遺したものは、ホンのホンの少しです。ほとんどが伝承なのです。
そのくらい伝承として西行さんは偉大だ、ということは判ります。しかしなぜそんなに文句なしに偉大なのか、そんなに神話化されるようになったのか、ということは、すこしは考えておかねばと思います。
西行の肖像というのも、ありますが、これものちの時代に描かれたもので、それをしげしげ眺めてそこから西行の人間像や人柄を思い描くのは、まさに神話化を上塗りしているなにものでもないでしょう。
西行の筆跡も、真筆と現在考えられているものは、四点しかなく、そして、もの凄い数の「伝西行」筆があるのです。この「伝西行」がものすごくある、というところに神話化の謎がひそんでいるような気がしますが、西行の歌集も(今日お配りしたレジュメの1ページにちょっとあげておきましたが)、たしかに、西行自身が編集したといえるのは、晩年の「御裳濯河歌合(みもすそがわうたあわせ)」と「宮河歌合(みやがわうたあわせ)」だけといっていい。そのふたつも写本で、自筆本ではありません。歌集として、一番有名な『山家集』も、生前から西行自身がそういう集めかたをしていたように考えられていますが、確証はない。
レジュメの歌集のところをみてください。
「山家集」「聞書集」「山家心中集」「西行上人集」「別本山家集」と並べています。二番目の「聞書集」ですが、これなぞ、発見されたのが1929年(昭和4年)です。つまり、明治大正時代の人は、この聞書集に収めてある西行の歌のことは知らないで、西行を語っていたということです。
そして、注目しておきたいことは、山家集に入っている和歌(1552首)と聞書集に入っている和歌261首(+連歌二首/四句)と、全く重複しないのです。かれについての情報量はこんなに変化しているのに、「西行」につてのイメージは、芭蕉のころからそう変っていない、神話化された西行像はずうっと変わらないということは、どういうことなのか。
「残集」というのは「聞書残集」つまり、「聞書の残りの集」という意味で、25首、連歌7首(14句)入っていて、本来「聞書集」と一組だったのでしょう。
これは昔から宮内庁の書陵部に写本がありました。「山家集」と重複する歌が一首混じっています。
「山家心中集」というのは、「花月集」ともよばれていて、これは、伝西行自筆本というのがあります。藤原俊成の巻首の筆跡があり、西行の歌集の写本としては最も古いものです。西行と同時代の人の写本と考えればいいでしょう。(あえてこんないいかたをするのは、現在では西行自筆と誰もが呼べない「伝西行筆」本だからです。)これは、しかし、「雑下九首」以下が欠けていて、計291首。内閣文庫所蔵の写本(筆者不明)もあり、これも完本ではなく、316首。もうひとつ、妙法寺本というのが最近みつかって、これは冷泉為相の写しと伝えられ、これは完本で、360首を収めています。いくつか「山家集」と重複するけれど、もともとは西行から俊成へ贈った歌集だったと考えられています。しかし、「山家集」と「山家心中集」との成立事情に関する問題はまだ謎だらけ。
1906年(明治39年)紹介された「西行上人集」とのちに呼ばれる歌集があって、当時は「異本山家集」と名づけられ「西行法師集」などとも呼ばれていました・これには597首入っています。内容は、「山家集」とダブるものもありますが、ここにしかない歌もたくさんあります。この写本の後書によると、法勝寺に西行自筆の歌集があったが、観応二年(1351)法勝寺が火事になり、その自筆本も燃えてしまった、他の写本から書写したものが残っていたので、それをここに写す、というようなことが誌された古い写本です。
ほかに「別本山家集」というのも出て来て、江戸初期の写本といわれていますが、これは924首収めています。この写本が紹介されたのは、1955年(昭和30年)と比較的最近のことです。
ずいぶん時間をかけて西行の歌集の写本を紹介しましたが、要するに、自筆本がまったく遺っていないことを、あらためて認識しておきたいと思ったからです。ですから、たとえば、レジュメの西行略年譜をみていただきましょうか、その1151年(仁平元年)のところ。勅撰和歌集『詞花集』に初めて西行の歌が一首選ばれたということを誌しています。勅撰集というのは、天皇が指示して選ばせた精選歌集という意味です。「古今集」から始まってたくさんの勅撰和歌集が編集されていきます。これに選ばれるということは、とても名誉なことです。歌人にとっては、これ以上に威張れることはない、その選に、西行の一首が入ったのです。西行、数え年で34歳のときです。しかし、まだ、「よみびとしらず」として収録されていて、当時の西行の知名度が推し量れます。選ばれた歌は、「みをすつる人はまことにすつるかはすてぬ人こそすつるなりけれ」というのでした。これが、のちに「西行物語絵巻」にも紹介されています。絵巻の始めのほうの詞書にあるのですが、そこでは「み(身)」という文字が「世」に変っています。「世をすつる人はまことにすつるかはすてぬ人こそすつるなりけれ」です。
西行絵巻や西行物語は、西行が亡くなって後、つくられていくものですから、後世の人が「み」を「よ」に変えたとも考えられるし、西行自身がのちに変えたかもしれない。よく判らないけれど、ひとつの歌が二つのヴァージョンをもっていることだけは確かです。つまり。西行の歌の原文というのもこういう伝わり方をしてきたということです。
筆跡については、さきに申しましたが、真筆というのは、現在四点しかないのに、「伝西行筆」はいっぱいある。それだけ、西行は伝説化されている・神話化されているということなのです。この神話化は、かなり早くから行われてきました。レジュメの1ページ、歌集の下に、「伝著書」という項目を入れておきましたが、まさにこれは、「伝著書」なのです。おそらく、最初は、西行が書いていたものかもしれない、そうして、西行が集めておいたものが、のちに、西行が亡くなって、どういう人の手をとおってか解りませんが、集め直され、人びとに読まれるようになった本なのでしょう。『撰集抄』という表題も、いつ・だれが付けたのか、確定はできません。ただいえることは、これは西行が書いた本としてなが〜いあいだ言い伝えられてきたということだけです。
この撰集抄という本の主題というのは、旅をしているあいだに西行が聞き集めた話をまとめたもの、とまずいうことができます。それも、お寺へ入って修業してお坊さんになる人たちではなく、武士だったりした人たちが、ある日突然髻(もとどり)を切って出家し、乞食頭陀の身となって山中などに禅をくみ、ひたすら成仏を願う修行者たちの「発心、遁世、往生」の姿、そんな話がたくさん集めてあるのです。西行は、そういう遊行僧や放浪僧にとても興味をもっていたのですね。というよりも、彼自身、武士としてとても恵まれた境遇にいたのに、突然発心して頭を丸め(剃髪し)、草庵を結んで物乞いをし念仏を唱えて暮らす生きかたを選びます。ほかに、詩歌にまつわる説話もたくさんあり、自分と同類の生きかたをした人たちの話を、それも同時代の人たちの話を集めようとした本です、『撰集抄』は。ただ、この『撰集抄』には、西行自身の臨終の話も入っていたり、西行ならやるはずのないまちがいもあって、そんなことから、この本を西行の著書ではないとされてしまいました。明治に入ってからのことです。で、「歴史」を語ろうとする人はみんなこの本を避けます。『撰集抄』から引用して西行の言葉とすることはできないというわけですね。
西行がなくなったあと、いろんな人の手が加えられたものであることは確かでしょうが、だからといって、西行のものに非ずと決めていいかどうか。どこかに、西行の息はかかっているにちがいない。と、もういちど、考え読み直す必要がありますね。「伝西行」と考えられ長く伝わってきたこととの意味と重ね合わせて、そういう虚構のミルフィーユとでもいっていいもののなかに、「西行的なもの」がみつけられるのではないか、それこそが、神話の上塗りで自己満足している西行論??そういう西行論がとても多い、ある意味でこれらは、「西行信仰告白」です。??そういう信仰告白に陥らないで「西行」を考えていく、つまり今回のテーマ<「西行」の再検討>の課題のような気がします。<「西行」を再検討する>ということは、「西行神話」とはどんなものか、なぜ「西行」は神話化されずにはいられなかったのか、考えることだと思います。「西行神話」の形成史は、また別の仕事で、ここでは、それにはあまり深入りしないでおきます。むしろ、なぜ「西行」は神話化されずにはいられなかったのかを考えることによって、現代を生きるということはどういうことかを考える問題とにらみあわせることが出来ると思うのです。
もちろん、西行の実像を明らかにしようという問題にも、興味はありません。実像を明らかにしようとすればするほど、神話化された像に神話化を重ねるだけだということははっきりしていますから。

(つづく)

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西行をとりあげたいという考えは以前からあり、第一期の<ABC>のときも、<S>は西行にするかいろいろ悩んで<坂口安吾>にしたのでした。あのとき、安吾を選んだのにはそれなりの理由があって、なんでも「世界遺産」に登録して保存すれば<美>が伝えられるという風潮に、もういちど安吾の発言を突きつけることは急務だという思いがつよかったのがまず。もうひとつは、やはり、西行という存在を語るにはまだまだ勉強が足りないとう思いが大きかったこともありました。
勉強が足りないというのは一生ついてまわるので、どこかで思い切って語らねば結局なんにも語らずに終る、と自ら励まして、今回のテーマにした次第です。当初から、一回では無理だろう二回に振り分けて…と目論んでいましたが、準備を進め勉強していくと、これはもう三回でも語りきれないという感じになってきて、しかしとにかく当初の二回で終ろうという考えは撤回し、三回でとりあえずまとめようと、急遽先日の15日の集まりで、みなさんに、「西行」は三回にわたってやりたいと思いますと告白したのでした。
第一回は、先日の3月15日(土)と来る28日(金)、西行の基本像を点検しなおし、もういっかい新鮮なまなざしで「西行」を眺めてみようとしています。語っていて、みずから問題がはっきりしてきたという手応えがあります。
第2回は、4月11日(金)19:00pm〜と12日(土)14:00pm〜。この日は絵巻を中心に「西行」を考えようと思っています。そして、
第3回は、5月9日(金)19:00pm〜と24日(土)14:00pm〜で、この日は彼の歌を…とプランを立ててみました。
4月は、11日(金)12日(土)と連日なのですが、それと、これまでは、土曜が同じテーマの一回目という流れでやってきましたが、4月から、金曜が最初、土曜が二回目のリズムに変えます。
4月から、毎月第三金曜の夜、横浜美術館で、「塾」を持つことになったので、そのへんの兼ね合いもあります。横浜美術館では、館所蔵の本物の作品を直かにみながら<美術史>に迫ります。一年通しで毎月一回集まる、計12回というスケデュールです。「肖像画と自画像」をテーマにしました。ま、実物をまぢかに置いて<美術>を考えるというめったに得られない機会ですから、お時間をみつけて参加してください。
とはいえ、<土曜の午後のABC>は、横浜美術館をやるからといって休むわけには参りません。こちらはこちらで、横浜美術館で出来ないことを併行して続けていきます。で、「西行」を三回やったあとは、(ほんとうのところ西行の歌を読むのはそれだけで何回もやりたいのですが、とりあえず今回は5月で「西行」をまとめ)6月から、<岡倉覚三の『日本美術史』を読む>シリーズを始めようと計画しています。みなさんには、平凡社ライブラリーの『岡倉天心「日本美術史」』を用意してもらって、それをテキストに、逐次読んでいこうという考えです。横浜美術館と併行して、10回くらいかけて、読もうと思います。
岡倉の『日本美術史』は、明治20年代にこころみられた日本最初の体系的な「日本美術史」として理解されていますが、そこで書かれていることをていねいに読みほぐしていくと(もちろんもうすでにすっかり古びた記述もありますが、そんなことを確認することも、<歴史>を勉強する面白味のひとつです)、あらためて、「日本美術史」についての考えかたを発見し豊かにできるのではないか、とたのしみです。
進めかたは、「日本の美術史」というものを初めて勉強するという人にも納得してもらえるような話しかたをしたい、と同時に、そういうふうに語りながら、この領域に結構詳しい研究者にも、ここでさらに考えを深めてもらえる、そんな機会になるようにと思っています。いままでのやりかたと少し異なって10回連続の継続した話になりますが、必ず絶対つづけて出席しなければダメというような進めかたはしません。どこから入っていっても、それなりの展望とまとめがつかめるような話をしなければと思っています。で、あらかじめ、5月中には、各回の割振りを公開しようと思っています。
<岡倉覚三の『日本美術史』を読む>の第一回は、6月6日(金)19:00〜、14日(土)14:00〜。場所はもちろん波止場会館。以下、第2回=7月4日(金)・12日(土)、第3回=8月1日(金)・9日(土)と予定しています。
というわけです。どうかよろしく!
kinoshita

1月11日(金)は、土曜の午後に来られない方のために、と作った時間だったのに、年末の移り気で、その日だけの、テーマを用意してしまいました。
題して≪日本最古の恋物語≫。
12月の土曜に話した「日本語文字出現以前のことば」の問題から、考えておきたい問題として浮上してきたもので、「叙事(天皇の系譜を綴る)」と「物語(恋の行方)」と「歌謡」の三つの記述が混成して一つの<文章>となり(さらに、いくつかの別レヴェルの記述が挿入され)、その構成は6個の層から成ることを確かめて、初期の日本語の<記述文章>が持っている<多層構造>の意味をみつめると、そこに、<文字化される以前の言葉>がもっていた<言葉の響き>(韻律)が、遠く聞こえてこないか。そんなことを考えたかったのです。
現代芸術が、求め続けているものも、こんな<文字化以前>の、文字(眼にみえる形と化した意味・情感)となって消えた・隠れてしまった「なにものか」を探ることだといっていいのです。
金曜日にお配りしたテクスト(資料・レジュメ)は16枚にもなりました。原文と同時にボクの私訳をお配りして、軽太子や軽大郎女の歌なんかも、現代語に訳して(それ自体詩歌でありえる現代語訳を試み)みなさんにご披露しました。ボクは、現在流布している古典文学全集の類でされている解釈の、とくに歌(歌謡)をまったく散文読み下し風に現代語化しているのは、とてもまずいことだと、ずうっと思ってきました。そこには、すべては散文化すれば「解る」という「近代合理主義思想」が根を張っています。この思想が、植物園の花や木の名前をすべてカタカナで表記させてもいるのです。植物の名前をカタカナで表記することは、これ自体「自然破壊」です。「自然と共生する」などというのは今おおはやりですが、それは、文字や言語のレヴェルでは、まだまだはるかに遠い話だなと思います。言語のレヴェルで行っている「自然破壊」に気づかない限り、「自然と共生」する思想は危機に立たされ続けるのではないでしょうか。
現在われわれが使っている言葉の世界のなかで、どのくらい「自然破壊」をわれわれは平然とやっているか、じっくり考え直してみなければいけないのではないか。歌(歌謡)を散文に置き換えたときに喪ってしまう大きなおおきなものがある(あった)ことをもっとみつめ、なんとかそれを少しでも取り戻さねば、と思うのです。
ま、くわしい報告は、いずれHP(土曜の午後のABC)で。

さて、次回は、
2月23日(土)14:00〜 と29日(金)19:00〜 です。
「西行について」は、その日から始まる展覧会が出光美術館であるので、これはみなさんみていただいてから話をしたほうがいいので、3月(15・28日)からに変更しました。
2月は、<美の始まり>のシリーズのとりあえずのしめくくりとして、「ギリシァ美術」について考えたいと準備中です。

いちばん、寒い季節に入りました。
みなさん、風邪などには、じゅうぶん気を付けて!

kinoshita

−2−
「捨身飼虎図」や「信貴山縁起」は、画面の枠を意識していません。意識しているのは、たまたまその大きさの画面空間が与えられたなかで、「時」の経過を描く、その「時の動き」の背景となる場面です。そのために、描かれている「時」、つまりその経過を見せる人物の動きは、一つ一つが、それ自身の単位を備えています。この「捨身飼虎図」の構成は、書でいえば楷書や行書(草書)の組み立て方と共通しています。画面のなかでの人物の動きのつながりかたと、人物の描き方と書の文字の書かれかた(一つ一つの書きかたといくつかの文字のつなぎかた)の秩序が共通しているのです。
もう少し細かくその共通している点をみておきます。「捨身飼虎図」は楷書です。一点一画、そのハネや筆先の収めかたもゆるぎない筆法。それと同じような輪郭のとりかた、サッタ王子や岩や竹の形や線にみてとれます。敢えていえば、虎の母子は行書と類似のゆるみがあります。
「信貴山縁起」の異時同図法は、姉弟が出会い、いっしょに仏道修業に励んでいる場面は、行書スタイル、大仏夢告の場面は草書です。
漢字の書法は、「真」「行」「草」の三体あります。「真」が楷書、「正書」ともいわれます。点画を崩さないのに、身構えた書体です。行書はそれがくずれ、草書になるともっと点画など無視した描き方になります。実用世界では、いつも楷書で書いているわけにはいきませんから、行書や草書が、まず書法として成立したと思います。
中国最古の部首で引く字書「説文解字」には「漢興りて草書あり」とあります。漢の時代にもう草書体は一般化していたというわけです。正書(楷書)のスタイルが確立し制度化されるのは隷書が定着したあとといわれていますが、まず行・草体があって、最も格式ばったフォーマルな書体ということで、楷書が考え出され制度化されたのでしょう。しかし、蘇軾(ソショク1036?1101、北宋時代の詩人書家)など、「書法は正書に備わり、溢れて行、草となり」といい、「真は行を生み、行は草を生む、真は立つが如く、行は行くが如く、草は走るが如く」といって、「真→行→草」の展開をあたかも「真」が起源に「正」としてあって、そこから「行」「草」が生まれたかのように、信じさせました。そして、だんだん、「真→行→草」は、書き方のくずしかたの展開とみないで、書き方の歴史的発展のように考える伝統が作られてきました。
日本列島とくに、大和朝廷に漢字と書法が百済から伝わったときは、この伝統がそのまま入ってきています。そのせいで、よけいに楷書が書体の起源としての正書であると考えられがちです。
いずれにしても、こうして、漢字と書法が大和朝廷とその周辺に伝わって、その最古の書の例として遺っているのが聖徳太子筆と伝えられる「法華義疎〔ホッケギショ、「法華経」の註釈書、推古15(615)年作、縦25.1?、法隆寺蔵〕です。行書で書かれています。
聖徳太子が百済や隋から届いた書を勉強して書いたものです。〔四巻あって、第一巻の長さは1424?、第二巻1330?あります。〕聖徳太子は中国六朝、王羲之(オウギシ)などの書を一生懸命学んだのでしょう。
聖徳太子と同時代の楷書の例は、たとえば法隆寺金堂にある釈迦三尊の光背に鋳込まれた銘推古31(623)年造、金銅鋳造陰刻、文字面33.9×33.9?、法隆寺蔵)が典型的です。
日本へは、「真」「行」「草」が同時に手本として入ってきたのですが、「草」の典型というより、その最も極端な例をとりあげておきたいと思います。
さきの二つから200年ほど時代が過ぎて、9世紀末か10世紀初、平安初期の書です。醍醐天皇の筆といわれている「白氏文集〔ハクシブンシュウ〕」(紙本墨書25.8×40.9?)です。白楽天の詩を書写したものですが、天皇が酔っぱらって酔いにまかせて筆を揮ったように文字が走り踊っています。紙の隅に、筆先からポタリと落ちた滴の墨の跡もあります。
これは草書の中でも「狂草」と呼ばれ、さらに崩れると「連綿体(レンメンタイ)と呼ばれるスタイルになります。
じつは、日本で、醍醐天皇の時代、天皇の命令で「古今和歌集」が編集されました(915年)その撰者の一人である紀貫之が書した「古今和歌集」の書体をよく写したものと伝えられる、伝紀貫之筆「高野切古今和歌集(コウヤギレコキンワカシュウ)」というのが遺っています。いろんな研究の結果、それは、11世紀のもの、つまり古今集が編集されてから100年後位のものだと考えられています。いずれにしても、古今集の最古の写本です。その書体が「かな連綿体」と呼ばれています。「かな」の「連綿体」という呼称は、たぶん中国の書体でそう呼ばれているのを流用したのだと思います。しかし、じっさいは、まったくちがうものです。中国の連綿体は「草」のさらに崩れた書体という意味で使われています。
図式化して、だんだんに崩れて行く順に書体を並べてみると、「真(楷・正)」→「行」→「草」→「狂草」→「連綿」です。そしてこの「連綿」の行きつくところは「一筆書」でまったく筆跡のとぎれなく一筆で書いてしまうようなところへ行きます。
平安時代に京の知識人(貴族・公卿)たちが考え出し実践した「連綿体」は、目指すところは「一筆書」にあるのではありません。そもそも、中国・朝鮮で書かれている漢字ではなく、かなを書く書法として考えられたところも、中国とちがいます。中国とちがうことは、中国由来の書の伝統と切断されているところから、かなの連綿体が生まれたということです。
別のいいかたをすると、「真」「行」「草」は、中国の漢字の書法の系列を形成するもので、その果ての「狂草」から「かな」が生まれたのではない。もちろん、「狂草」からも多くのことを学んだけれど、「狂草」がつきすすんで「かなの連綿体」になったのではないということです。
漢字の草書、狂草体(連綿体)は、どこまで崩れても、一つ一つの漢字の文字の単位を捨てません。どこかに、その文字の点画の本質的形態(形質とでもいうべきもの)をのこして書いています。
のちに見るように「かな」の「連綿体」は、その一つ一つの文字の単位の形質を消してしまいます。決して一筆書きのようなつながりかたをするのが目的ではなく、かな文字の形を、融通無碍に変えてほとんど形を隠すほどにまで変化させて書こうとしているのです。

つづく

もう一つは(B場面と呼びます)、ついに尼公が信貴山へ辿り着き、弟と再会する場面(1)。弟と姉が机をはさんで向かい合って、お経かなにかを読んでいる場面(2)。命蓮が一人でお経を読んでいる一方、尼公が供物の載った盆を持って、お供えに行こうと回廊を歩き出している場面(3)。
信貴山の岩場に汲まれた寺院の部屋は、一つの建物の側面全景です。部屋を区切る柱が立っているのですが、これが小回りの役目をして、場面(1)?(2)?(3)を繰り拡げ
て行きます。しかし、これはあくまでもこの寺院の部屋の一部である柱として描かれていて、(1)の場面なぞ、命蓮は柱の向こうに立っているという描きかたです。(お尻が柱の奥から右側に描かれています)。そして、(2)は、二本の柱の間に二人で向かい合っている情景。(3)は、板戸があって、板戸のあいだから命蓮が覗き見でき、尼公は、さらに左方、室内から出てくるところです。
こんなふうに、一つの場(建物の情景)の中での部屋の仕切毎に同一人物が繰り返し描かれ、時の経過が描かれているのです。
そもそも、絵巻物というのは巻物を右から左へ、繰り上げ巻いていくに従って、詞書と絵が出てくるのですが、それは、右手と左手がつくる空間の幅に相当する拡がりが少しずつ移動して出来る絵(詞)空間です。
長い巻物ですから、全体としては、同一人物はなんども出てくるのですが、繰り上げる右手と繰り出す左手のあいだにできる一定の拡がりが一つの絵空間をつくるわけです。それが絶えず移動し、替わっている絵空間の拡がりのなかで、大仏夢告の場面や、姉弟再会の場面が、両手の拡がりがつくる絵空間にちょうど収まる枠に、少しづつ移動させながら、入るように描かれています。
絵巻を繰り上げる右手と繰り延べる左手がつくる絵空間が、その巻き上げるという運動によって、紙芝居のように場面を変えていくのですが、A場面とB場面、どちらも一つの場面なのですが、Bの方は右から左へ、同一の場所でありながら人物は別の背景へ移動していき、時の移り、話の進行を語る工夫が読みとれます(Aでは、一つの場面のなかで、ただ人物だけが移動します)。これrは「移時異背景同場面」とでも呼ぶべき工夫です。しかし、「信貴山縁起絵巻」では、移動の中の絵は、やはり単位化されています。あとでみる「伴大納言絵巻」のように、あたかも巻き上げる動きに合わせるかのような絵の作りかたではありません。
時間の移動が、コマ割り化されています。ちょうど「捨身飼虎図」が一枚の板の枠の中に三つの時間の経過を描き、その一つ一つの時間/動作を独立した単位として画面にはめ込んでいたのと、絵のつくりかた(画面構成)の原理は共通しています。〈絵のつくりかたの原理〉というのは、「時間」を描く(空間化しようとする)手法のありかたを決める思想といいかえられます。
時期としては「信貴山縁起絵巻」より少し早くに描かれた「聖徳太子伝絵」は、別の「異時同図法」の手法をみせています。
この「聖徳太子伝絵」は、法隆寺の東院、夢殿(聖徳太子が住んでいた斑鳩宮の跡地に、天平11〔739〕年頃建てられたと伝わり、秘仏救世観音菩薩を安置しています)。を囲む回廊の奥(北側)に建つ絵殿(エデン)の内陣を飾るために、壁面5間に描かれた聖徳太子の伝記絵です。平安中期の延久元(1069)年、秦致貞(ハタノチテイ)が描いたと記録され、鎌倉時代(建武5〔1338〕年〜暦応2〔1339〕年)を始め、たびたび修復され、天明8〔1788〕年、二面一組、計五組の屏風に改装、明治11〔1878〕年皇室に献納されました。現在、東京国立博物館、法隆寺献納宝物館に保管されています(五双ともに185×1360?)。その綾地絹(アヤヂギヌ)は当初の者を遺していますが、絵の描き起し線などは、後世手を入れたものです。
これは、聖徳太子の生涯を絵解きした一種の仏教説話絵で、藤原頼長(フジワラノヨリナガ、1120〜1156、保元の乱の主謀者の一人)の日記(「台記」ダイキ)に、東院の僧が参詣する人に絵説きしていたと書いています。
五双はそれぞれ二面から一つの絵に構成されています。
第一双は、?母妃が太子を懐妊、?太子誕生、?も誕生、?2歳、?3歳、?4歳、?5歳、?10歳、?11歳、?11歳、?26歳、?27歳、と12の場面が二面に描かれて画面の中の短冊にその説明が書かれています。
その母の受胎?から?27歳までが画面の中に配置されているのですが、その時間経過の流れは、ほとんど無秩序といっていい。二面の拡がりを持つ画面空間に景物(山や樹木や建物)を配し、そのそれぞれふさわしそうなところで?から?までの場面が描かれています。その流れは、「捨身飼虎図」や「信貴山縁起絵巻」のように、単位化された秩序を隠しています。その?から?までの流れを線で辿ってみますと、図a.のように表示できます。
第二双は、?6歳から?43歳までの14場面。その流れは図b.です。
第三双は、?17歳から?49歳。その14場面の流れは図c.のようです。
第四双は、?16歳から?50歳、薨去し?埋葬されるまで8場面(図d.)。
第5双は、?9歳から?薨去二年後の出来事までの10場面(図e.)。
二面からなる画面を、一つの枠と見たてて、その枠のなかで、縦横に、というか融通無碍に、「場面」が走ります。
(つづく)


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