木下長宏のウェブログ

網膜に積もる淡雪のように(まとめサイト:http://kinoshitan.com)

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―3―
表面=外面というのは、外向きの世界、いいかえれば対他者に向けた公の場面、どんなにくずれ乱れても、その面を保持することは決して棄てない。それは現実重視、<現実>を大切に、中心にした生きかた・思想です。中国には、この思想が綿々と続いています。
そういう中国(唐・漢)から知の技術を学び、信仰のありかたも、その唐・漢式に変えた日本列島の人びとですが、そんななかで、唐・漢をただ真似ているだけで終わらない考え方生きかたが芽生え、育っていきます。その生成過程で、ある逆転、思想の転換が起こります。そういう転換は、いろんな歴史の場面に見られるのですが、10世紀の日本列島・京のみやこで興り育っていった転換は、その後の「日本」の文化に大きな役割を演じる重要な出来事となりました。というのも、その後の「日本」の知識人が、この平安京での出来事を、正にこれぞ「日本」=「やまと」国有文化だと、いいつづけてきたせいもあります。その平安王朝文化は最も「日本的」、「日本」固有の伝統文化と考えられ信じられるようになったか、という問題は、また別の機会に考えるしかありませんが、ここではその転換の結果だけをみておきます。
その転換が招いたものは、まずなによりも「現実」と「非現実」の価値の転換です。「現実」すなわち「この世」だけがすべてではないよ、という考えです。当時、大きな力をもってきた天台仏教浄土信仰の影響はもちろん大きいです。そんななかで、この人の世は、かりそめのものだ、という思いがとても大きく抜き難いものになっていきます。(もっとも、ここでこうして議論している「現実」とか「非現実」とか、そんな言葉を使って当時の人がものごとを考えていたわけではないのですが、当時の人の考えかた感じかたに近づくために、われわれは、そんな用語を用いるほかないのです。当時の人と、同じように呼吸し、感じ振舞うことは、とうていできません。そんなとき、そのどうしても置かれている隔たりをどうしたら少しでも小さくできるか、を工夫するためには、いろんな方法を試してみる必要があります。ただ、古い文化を知るためには古いいものの中から現在(いま)に通じるなにかを引き出せばいいのだ、とばかりになにもかも、現在(いま)の考えを基準に処理するのはやめなければならない。それは、古い時代の人に対する現代人の傲慢です。だからといって、その反対に徹して古い時代のことを考えるのに現代の概念/言語をいっさい使わないとするのは〔じっさいそれは不可能だけれど〕、欺瞞です。われわれの限界につねに気を配りつつ、対象にできるだけ近づくにはどうしたらいいか、を考え考え言葉を選んでいくしかないと思い、まずは「現実」とか「非現実」という言葉を使いました。)
「現実」と「非現実」という現代のわれわれが対比して理解する「現実」感覚ではなく、当時の人びとの<現実>は、われわれが想像する「非現実」(=「仮」)も含んでいるのです。「この世」は「仮初め」だと考えているとき、「この世」ではない「あの世」は、いまこうして息をしている「この世」ではない、別の「この世」、あるいは「この世」にはみえていないけどすぐ「この世」のどこかに隠れている「世」なのです。
紀貫之の「古今和歌集」には序文が二つあります。一つは漢文で書かれていてこれを彼らは「真名序(マナジョ)」と呼びました。そしてかなで書いたほうを「仮名序(カナジョ)」と呼びました。漢文の序のほうが「真」ですが、これは漢文が「真」、つまり「正」で、かなは「仮」ということです。この「仮」は、「真―行―草」よりさらに「草」というより、「真―行―草」の価値序列の別にある体(タイ)という思いでつけられています。漢文の「真―行―草」は、あくまでも「真」を規範根拠に(起源・歴史的な意味の始まりではなく、型のありかたとしての起源・元)とする書体の序列で、「仮」はそういう「真」の体系とは別の体として名付けたのです。いや、じつはそこいらへんはかなり曖昧に、というか二重化多重化したまま使われていたようです。「真」は、「真・行・草」の規範として、「唐・漢」文化の代表名であり、一方、文字を書く書体の一類型としての呼び名でもありつづけます。古今集の「序」は、前者の例とすれば、後者の例を一つ「源氏物語」から挙げておきます。「葵」の巻に「草にも真名にもさまざまめずらしきさまに書きまぜ給へり」とあり、この「真名」は「楷書」という意味で使われています。この「二重化」して「曖昧」に使われていたことも「真」と「仮」の関係意識のありかたにとって重要なところです。ところで、この「かな(仮名)」を「女手」と当時の人は呼びましたが、これは「男」対「女」という組合せ・対概念を喩とした書体のありかたの名付けかたで、とても象徴的です。じっさいに女の人が書くというより、「女」の立場が可能にし、そういう「立場」に立ったとき実践できるような体(スタイル)のことです。「男手」と「女手」と呼んだとき(絵にも「男絵」、「女絵」という呼びかた・区別がありました)、その「男」が「真(真名)」で、「女」が「仮(仮名)」となる。そういう「真」対「仮」の関係にある「仮」(かりそめ)です。
こうして、「真」「行」「草」の書体の型の序列が、書体だけでなく当時の知識人の生きかた、表現の方法の価値づける言葉(概念)として使われるようになりました。「仮(仮名)」「女(女手・女絵)」という言葉は、そういう価値づけから誕生したのです。ですから、「女手」の文字といい、「女絵」といって、それをじっさいに使い、書をものし、絵を描いたのは、多くは当時の男性でした。もちろん女の人も清少納言や紫式部のように活躍しましたが、彼女たちは「女手」や「女絵」の実践かとして活躍したわけではありません。清少納言や紫式部が登場する前から、女の人たちは和歌をたくさん作っていることは万葉集をちょっと開けば明らかですし、そんなふうに絵を描いていた人もいたでしょう。と同時に「男」対「女」が「真」対「仮」の対立の相似関係概念として使われたことからも判るように、「この世」にあって、「女」は「仮」と喩えられるような位相にあったことも確かです。
つづく

「異時同図法」をめぐって〈その2 日本編〉その1
                   ☆
前回は、ヨーロッパ絵画の「異時同図法」を眺めましたが、「異時同図法」を《一枚の画面の中に登場する人物が二度三度描かれ、その人物の行動の時間の経過(物語)が描かれていること》と定義すると、聖エカテリーニ礼拝堂やパナギア・アシヌウ聖堂、ジョットーのスクロヴェーニ礼拝堂に描かれている一連の「ラザロの復活」の絵は、厳密な意味で「異時同図法」を完成させているとはいえない、むしろ、それは、ジョットーの後の世代の画家マザッチオの「貢の銭」に見事に成就しているのでした。
マザッチオのあの絵は、ちょうどあのころ誕生した「一点透視図法」の技法を実現した初期ルネサンスの絵画として有名ですが、その中で、彼はマタイ伝の物語を「異時同図法」を使って描いたのでした。
ただ、ヨーロッパの絵画史では、このマザッチオをいわば頂点にして、もはや一枚の画面の中に時の経過を物語る場面をいくつか描く「異時同図法」は後退消滅して行きます。そのわけは、ルネサンス以降のヨーロッパ絵画の技法と思想の中心となる「パースペクティブ(一点透視図法)」の考え方と「異時同図法」の方法とは、「時間」を「空間化」する方法として、相容れることができない、むしろ相対立しあう技法であり、思想であったからです。
その後のヨーロッパ絵画は、パースペクティブの技法を絵画の思想として(つまり、この方法が最も理性的であり、科学的であったので)、一途に展開し、ついに「一瞬」を描くことによって、その「一瞬」の場面(画面)に現象の本質―出来事の全てを描き切ろうと考えるようになっていきます。レンブラントの「ラザロの復活」は、その最も見事な例です。「一瞬」を描いた画面にすべてが凝縮されているというわけです。これは、空間のとらえ方としての「一点」透視図法が、その「一点」を通して、立体としての世界の全体像を描き切る、それも平面にとらえ切るという空間の捉えかたを時間の捉えかたへ適用しているわけで、ここにヨーロッパ近代の「時間」を「空間化」する技術の成熟がみられるというわけです。
マザッチオは、相対立する技法を一つの絵画に成就させているという意味で、近代(一点透視図法)と古代(異時同図法)がみごとに同居した、きわめて稀有な貴重な作品だったのです。

―1―
日本という場では、「異時同図法」はどんな展開をみせるでしょうか。もちろんこれは、中国から朝鮮を経て輸入されてきた技法ですが、その経過も〈日本〉にある作品の中にみることができるので、ここでは日本の作品に限定してみていくことにします。
法隆寺に「玉虫厨子」とよばれてきている仏壇があります。高さ233.3?、上部は仏様が安置されていた龕(がん)です。宮殿のような屋根と柱と扉を備えた建物で、大化5(649)年頃造られたと考えられており、これは現在、飛鳥時代の建築の姿を遺している唯一のミニチュアといえます(法隆寺も飛鳥時代の建物ですが、天智9(670)年全焼し、その後再建されていますから)。玉虫厨子の仏龕の中の当初の仏像はなくなっていますが、厨子は総体当時のものです。その柱や長押(ナゲシ=柱をつなぐ水平材)、貫(ヌキ=柱と柱を貫いて渡した材木)、そのほか、宮殿を支える基壇(キダン)の側面、基壇の下の台(須彌座〔シュミザ〕)、台の足の部分、框(カマチ=須彌座の周囲につけた枠木)などに金銅(金を焼き付けめっき〔鍍金トキン〕した銅)透彫(スカシボリ)にした金具が貼られています。そしてその透彫金具の下にびっしりと玉虫の羽根が敷き詰められていました。いまはもちろん、それも遺っていないのですが、かつては怪しげな光を放っていたのでしょう。ともかくこの玉虫の装飾で「玉虫厨子」と愛称されていました。
その須彌座の腰板(コシイタ=四面ある板状の囲い)の一枚に、「捨身飼虎図(シャシンシコズ)」という絵が描かれています。
漆と密陀僧という一酸化鉛の絵具で描かれているというのが、現在の通説です(つまり、その後の日本で盛んに描かれる画材、墨や岩絵具で描かれていないということです)。この須弥座の絵も厨子制作時のものと考えられます。
その一枚が「捨身飼虎図」なのです。釈迦になったシッダルダ王子の前世の物語(そういうのを本生譚〔ホンジョウタン〕といいます)で、シッダルダ王子は前生、摩訶薩捶(マカ・サッタ)という王子でした(釈迦ともなろう人は前生も王子なんですね)。そのサッタ王子が山道を行くと、お腹を空かせた母子の虎がいて、その餓えた母子虎を憐れに思ったサッタ王子は、虎の母子の前に身を投げ、餓えを救ったという説話。それを絵にしたものです。
岩壁の上で服を脱ぐサッタ王子、崖から落ちていく王子(まるでダイビングをしているようです)、そして虎の母子の前に身をさらし、まさに喰われようとしている王子―――の三つの場面が一枚の画面(65×35.7?)に描かれています。まさに「異時同図」です。
それにしても、虎に身体を喰われるというのは、のちの肉食を禁じ、すべての生きとし生けるものの生命を尊び、慈悲を最も大切な心の拠りどころとする仏教としては、ひどく残酷な場面ですが、飛鳥時代は、とても血腥い時代ですから、こんなあイメージもすんなり受けいれられたのかもしれません。
このサッタ王子の「捨身飼虎」物語の絵は、古くから絵解きに使われていたようで、3世紀の印度のマトゥーラの浮彫にもあり、キジル(中央アジアの石窟)の壁画(5〜7世紀)にもあり、敦煌の428窟(5〜6世紀)にもあります。龍門(リュウモン=中国河南省にある石窟、6世紀)や鞏県(キョウケン同じく河南省6世紀初め)などにもあり、これらはみな玉虫厨子より早い例です。こうした伝統の上に、玉虫厨子の「捨身飼虎図」が描かれています。
一枚の画面のなかに、三つの場面が一つ一つ、単位をつくりながら描き分けられ、それぞれの場面も、とくにサッタ王子の姿など、太い輪郭に縁取りされてきちっと描かれています。
二つ目の例は、「信貴山縁起(シギサンエンギ)絵巻」にある「異時同図法」です。
「信貴山縁起絵巻」は、作者が誰かわかりませんが、三巻から成り、上巻は「飛倉(トビクラ)の巻(マキ)」あるいは「山崎長者の巻」とも呼ばれている(高さ31.7?×長さ878.3?)、中巻は「延喜加持(エンギカジ)の巻」(31.7?×1280.6?)で、下巻が、「尼公(アマギミ)の巻」(31.7?×1424.5?)です。三巻通しての主人公が命蓮(ミョウレン)というお坊で、上巻ではお米の倉を飛ばす念力(法力)を発揮し、中巻では延喜の帝・醍醐天皇の病気になったとき、命蓮が剣の護法で快癒させる話。下巻では、命蓮の姉の尼公が、信濃の国からはるばる大和の信貴山にいる弟を訪ねて巡り合う話。上巻には詞書がないのですが、これは多分後世欠け落ちたのではないかと思います。巻物の長さが三巻中一番短いのも(下巻の約三分の二)そのせいでしょうか。
「異時同図法」の問題としては、下巻に二カ所出て来ます。まず、姉の尼公が弟を訪ねて奈良へやってきて、東大寺の大仏殿に参籠して大仏の前で一眠りします。その尼公が横になっている絵。そして夢にお告げがあって、大仏殿を後にする尼公が一つの大仏殿の画面のなかに、二度描かれています(これをA場面と呼んでおきます)。

9月のABC…

9月のABCは、<美の始まり―沈黙と韻律>のタイトルのもと、その第一回として、11年前に発掘され、初めて「縄文草創期」に属する「土偶」と確認された、三重県粥見井尻遺跡から出た土偶について語りました。三重県埋蔵文化財センターを訪ね、じっくりこの「日本最古」の「土偶」を見つめてきた成果を伝えたいというのが、主たる話の内容で、いずれHPにくわしく報告します。

次回は、10月13日(土)14:00〜、19日(金)19:00〜です。
<美の始まり―沈黙と韻律(その2)>として、インドの初期仏教美術へ眼を向けます。

<美の始まり>の池のいろんな部分から、氷が張りだして、池全体に氷が張りつめるときを、遠望しています。

nk.

6月30日の土曜日から始めました。場所は、予定どおり、波止場会館。4階の小さな部屋で、20人入っていただくと、満員!という感じなのですが、眺めもいいし、これまでのように、椅子やテーブルをみんなで運び出して設置しなければならないというめんどうなこともなく、ボクは結構気に入っています。参加くださったみなさんは、いかがでしたか?
もちろん、いくつかの課題は残っていて、ボクは長年の原則を破って、スライド(もちろんパワーポイント)で、作品をお見せしようとしてみたのですが、ボクがスライドを拒絶してきた理由の一つ[スクリーンに写した画面が台形に歪んでいる]は、パワーポイントでは解消したものの、画面の粗さ、色合いのずれまくり、など、今後どう取り組んでいくか、考えねばなりません。みなさん、いいご提案ご意見があれば、ぜひ。アドヴァイスください。

第二期から、同じテーマを昼の部(土曜)と夜の部(金曜)と二回、開くことにしました。
第1回の夜の部は、7月13日(金)19時〜21時。於・波止場会館 です。

その後の日程は(8月は夏休み)第3回までの部屋を予約しました、以下のとおりです。

第2回: 9月22日(土)14時〜(場所は、特記しないかぎり「波止場会館」です。)
9月28日(金)19時〜
第3回:10月13日(土)14時〜
10月19日(金)19時〜
第4回:11月17日(土)14時〜
    11月30日(金)19時〜


第一回は、<異時同図法をめぐって(その一)>というテーマで、ヨーロッパ絵画にみつけた<異時同図法>の例を「ラザロの復活」を描いた絵をいくつか比べながら考えてみました。第2回は、<異時同図法をめぐって(その二)>で、日本美術篇です。
第一回の報告は、新しい装いのもと、ホームページで報告しております。kinoshitan.com (キノシタン・ドット・コム)を開いて下さい。
これからの<土曜の午後のABC>の報告やお知らせは、そのあたらしいホームページでやっていきたいと思う次第です。よろしく!

ではでは…

Z=張彦遠(その6)

Z=張彦遠(その6)
〔この「画の源流について」の新訳は、じつに予定より三ヶ月も遅れてしまいました。じつは、この訳もまだまだ不充分なことはなによりもボクがよく知っていて、もう少し手を加えてから・・・と原稿を傍において気がつくと手を入れるようにしていたのですが、どうもこの作業そうかんたんにこれでよしというところへ行き着きそうにありません。で、ともかく、そんな未定稿の状態でとりあえず配信いたします。この「歴代名画記」現代語訳は、いつか全部を視野にいれて取り組もうと思います、という決意表明を担保に。〕
                   ☆
中国の伝統的な絵画観に、「書画同源説」があります。「書」と「画」は本来一つのものだ、「書」と「画」を切り離せないものとみるところに、東洋=東アジアの美術の最大の特色があるという考えです。これはいまも生きている思想ですが、その最も初期の説が、この「歴代名画記」の冒頭、「画の源流について」の中でみられます。
この古典的名著に説かれていたことによって、後世中国文化圏の支配的な芸術観として、延々一千年にわたって生きてきたといってもいいでしょう。「画の源流について」の章では、「書と画は同体にして未分」といういいかたをしています。これは、絵・画(え)の起源を語るために誕生のときの未分化な状態をいったものでしょう。「呼び名はちがうが同体だ」ともいっています。のちに、この言葉が「書画同源」と変わっていくのです。
「同体にして未分」と「同源」のちがいがもたらすところは、きびしくみつめておいた方がいいかと思います。「同源」というと、そのありかたに「伝統」の重みが課せられるのじゃないでしょうか。
そのほかに、張彦遠は「画の六法を論ず」の中で、「画を巧みにする者多く書を善くす」とか、「顧陸張呉の用筆を論ず」のところでは、「書と画の用筆は同法である」ともいっていたりします。
「同法」と「同源」もいっしょにしてはいけないと思います。「同法」だけれども、画を上手に作る人は、「多く」書も上手だといっていて、「誰もが」とはいっていませんね。
いずれにしても、張彦遠はのっけから「書画は同源である」といわなかったことを大切に受け止めて、「書」と「画」の東アジア・中国文化圏における役割や働きの歴史的意味を考えたいと思います。
「同源」説は、10世紀以降の長い中国大陸における書と画の営みのなかで架設されていったのでしょう。
                  ☆
中国の絵画の価値を決める概念として、よく知られているのが「画の六法」です。(1)気韻生動、(2)骨法用筆、(3)応物象形、(4)随類賦彩、(5)経営位置、(6)伝模移写、の六つの方法論的規範。
もともとは5世紀(南斉の時代)、謝赫がいったことで、張彦遠はそれを踏襲し力説しています。
詳しく議論すると、とてもこれだけで一回分のテーマになるのですが、ここでは(6)から(1)へと価値が高まっていく、つまり、「気韻生動」が絵の備えるべき最高の価値・出来映えであることだけを指摘しておきましょう。あ、それともう一つ、「伝模移写」というのは、ヨーロッパ風の絵の技法である「模写」とはまったく異うことです。これは原画の上に絹を被せて、下から映っている絵を写す仕事です。
張彦遠もこれは絵の勉強でとても大切なことだと「画体、工用、搨写を論ず」の章でいっています。この「搨写」というのがその「伝模移写」のことにあたります。
絵の価値を決めるのに、「画の六法」はその絵のありかた、つくられかたからみた判定基準でしたが、もう一つ、作られた結果としての作品の価値づけをする概念、用語が伝統的にありました。それは「三品/三格」と呼ばれ、「神」「妙」「能」に分類する方法です。
元の時代の夏文彦という人は「図絵宝鑑(とかいほうかん)」という著書で、この「三格」を解説して、「神品は天成に出ずる(天成から生まれた、つまり、まるで神がかったような出来映えの)」作、「妙品は意趣余りある(つまり、作者の考えがその技によってあふれ出るように作られている)」作品、「能品は形似を得たる(つまり、形がうまく描けている)」作だとしています。
この「三品」をさらに三つに分類価値づけして、「神品」の「上」「中」「下」、「妙品」の「上」「中」「下」というふうに分け、「九品」としたのは、唐代末の朱景玄(「唐朝名画録」)でした。
もう一つ、忘れてはならないことは、「神品」のさらに上のランクがあったことです。これは「逸品」と呼ばれ、「神品」よりさらに凄い作品につけられました。
こんなふうにして「逸」「神」「妙」「能」という価値体系の呼称が中国文化圏で慣習化していったわけですが、東アジアでは、美術史と美術鑑賞の方法(美学)と、制作論が未分化というより一体となって考えられてきたということが、とても面白い、現在のわれわれにとって教えられることが多いところだと思います。(完)


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