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(その5)は、張彦遠『歴代名画記』の私訳です。その巻頭の一章をご披露します。流布している岩波文庫や平凡社東洋文庫の漢文読み下しではさっぱり判らないという人が多いので、現代語訳を試みようというわけです。
「 」は原文にある語、〔 〕は原文にある註、( )はふりがな・訳者の説明です。
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張彦遠『歴代名画記』私訳
画の源流について
絵・画というものは、「教化」(教えを説いて善の道に進ませる)を行い「人倫」の道を助け、「神変」つまり自然界やこの世あの世の神秘・造化の働きを見極め、そのかすかな小さな現象(「幽微」)をも見つめようとする。
書物(「六籍」すなわち易経・書経・詩経・礼記・楽記・春秋の古典)がわれわれに与えてくれるのと同じ効力を持っている。絵はまた、四季の巡り・自然の動きと同じ働きしており、人が作ったものではあるが「天然」(自然)が促してくれてこそ生み出しえるもので、作為によって出来るのではない。
最古の祖先の王たちが、天命によって君主となったとき、背中に霊妙な文字を書いた亀が現れ、龍が宝を絵(図)にして示したことがあった。有巣(ユウソウ)と燧人(スイジン)(いずれも大昔の帝王である)のとき、この瑞兆があった。この事跡は玉(ギョク)や玉の札(「牒」)、歴史書(「金冊」)に輝かしく記されている。
庖犠(ホウギ)という古代伝説の帝王が榮河(ケイガ)(黄河のこと)の中から龍の図を得た。それが典籍・画図の始まりといわれており、軒轅(ケンエン)という帝王は洛河(黄河に注ぐ河)にいる神亀の背にあった「洛書」を手に入れ、史皇(シコウ)・蒼頡(ソウケツ)という黄帝(軒轅のこと)の史官が、それを画や字にした。
文運の星である奎(ケイ)(星宿の15星)は、芒のような尖った光を放っており、天下の「辞章」(言葉や文章)を司っている。蒼頡は眼を四つ持っていて、空を仰ぎその天界の現象を観察記述した。その結果、鳥の跡や亀の甲の線に習って図形を揃え、「書字」(文字)の形を制定した。そうすると自然造化の神々は、秘密を隠しておくことができなくなり、天から粟を降らし、天に住む「霊怪」たちも姿を隠していることができなくなって、夜になると「鬼(霊怪)」たちは、声を挙げて泣くのであった。
このとき、書と画は「同体」、体を同じくして「未分」、まだ分れていなかった。「象制」(かたちの決まり)が肇(はじめ)て創られたけれど、それはまだまだ簡略なものだった。つまり意を伝えるには不充分な形であり、意味の関連を整える必要があった。そのために「書」が誕生した。同様に象(かたち)の状(さま)も単純すぎて見わけ難いところもあった。それを整え深めて「画」が誕生した。このことはすべて、天と地、そしてその命を享(う)けた「聖人」たちの意(おもわく)によるものである。
「字学」(文字の学問)の本を調べると、文字の「体」には六体あるという、一は「古文」、二は「奇字(きじ)」、三は「篆書(テンショ)」、四は「佐書(サショ)」(隷書)、五は「繆篆(ビュウテン)」(うねり曲がった篆書、漢代印刻の書体)、六は「鳥書」である。鳥書は旗印に書かれた文字であるが、この文字の端が鳥の頭の象(かたち)をしており、これが画となっていく。〔漢末、大司空の「甄豊(ケンボウ)」は、字体を研究して「六書」に分類した。「古文」とは孔子の家の壁に遺されていた文字の体である。「奇字」とは、すなわち古文の異体のこと。「篆書」は、つまり小篆。「佐書」とは、秦の隷書のこと。「繆篆」とは「印璽(インジ)」を模した字体で、「鳥書」が「幡信」(旗の記号)として虫や鳥の形を表したものだとある〕。
顔光禄(ガンコウロク)(あるいは顔延之、384―456)は、図載(絵を描く勤め、画を操る仕事)の意(おもむき・ありさま)に三つあると言っている。一つは「理」(ものごとのみちすじ)を図にすること。易の「卦」が示すものがそれである。二ばんめは「識」(知っていること・考え)を図にすること。「字学」はそれである。三ばんめが形を図にすること、「絵画」がそれに当る、と。
また『周官』(書経の中の一編)には、「国子」(公卿大夫の師弟)に教えるには「六書」を与えよとあり、その第三に「象形」を挙げている。「象形」とは 画の始まりのありかたである。そこからも「書画」は、呼び名はちがうけれども「同体」であることがわかる。〔『周官』に、保氏は六書を掌(つかさど)るとあるが、この「六書」というのは、指事、諧声、象形、会意、転注、仮借のことであり、すべて蒼頡が創ったものである。これらは、そもそも書の字体の性格を表すところのものであり、そのなかに「画」の源流となる「象形」が入っている。〕
帝舜または有虞(ユウグ)と呼ばれた古の帝王が、「朕(チン)(天皇や皇帝が自分のことをいう代名詞)は日月星辰、山龍華虫を観て、会(絵=五采)を作り、宗彝(ソウイ)を飾り、藻(五色に染めた糸)、火、粉、米、黼(フ)(黒白の縫取り、縫取りをした衣)黻(ホチ/フツ)(弓の字を二つ背中合せにした形の古代の礼服模様・膝掛け)、チ(葛布)、?(縫取・絵絹)を用い、五彩を持って飾り、五色によって服(服制)をつくらんとする」(『尚書』)といっているが、彩色を施し、祭器を作り、服制・標識を制定したとき、「絵画」という制度と方法、その概念が成立した。
旗に施した色・形にみられるように、「比象」すなわち形の極め方も深まった。ここにおいて「礼楽(れいがく)」(礼儀と音楽)は大いに展開し、広められ、「教化」もよく行われ、揖譲(ユウジュウ)して(みな礼儀正しく賢く振舞い)天下は平和、文芸も盛んであった。
『廣雅』という三国魏の時代に編まれた書に、「画は類なり」とある。また『爾雅』という秦か漢の時代に編まれたと伝わる書物には、「画は形なり」とある。『説文解字』(後漢の許慎著、永元12〔100AD〕年刊。後世に最大の影響力を持つ字書)には、「画は畛(シン)(田の間の道・境)なり、田の畛畔(田のあぜ、境界)に象(かたど)る故に画という」と誌されている。後漢末、劉熙が著した『釈名(シャクミョウ)』(別名『逸雅』)という本には、「画は挂(ケイ)である、彩色することを以て物象を挂(か)けるからである」といっている。「挂ける」というのは、『説文』で「画は挂である」といっていることと呼応している。「挂」という字には、「分ける、区切りをつける、(衣などを)掛ける」という意味がある。鼎(テイ)(かなえ、三本足で二つの把手のある器)や鐘に魑魅(ちみ)(怪獣)を鋳刻(いこく)すると、怪物たちの姿もはっきり見えてくる。「挂」とは旗印(物象の特徴)を明確にすることである。旗印が明らかになれば、規則や法則もしっかりして国の制度を備え整うことができる。
霊魂を祭る清廟(みたまや)には厳粛にソンイ(青銅の祭器)が祀られ、南北(国土)を測定して境界を正し、田地を治める。こうして君に忠であり、親に孝であればみんな、後漢の明帝が永平年の頃(58―75AD)に洛陽宮の南の宮・雲台に二十八将軍功臣図を描かせ、道義心篤く殊勲を立てれば前漢の宣帝が甘露3(51BC)年のとき長安未央宮麒麟閣(びおうきゅうきりんかく)に十一人の功臣の壁画を描かせられたように、絵にしてのこされもする。
善行を為した人の図を見れば、悪を行うことを自ら戒(いさ)めるし、悪行を為した人の絵を見れば賢者のことを考える。その人の姿(肖像)が絵に描かれていることによって、その人の徳や行跡も明らかに照らし出され、成功と失敗の事跡をつぶさに知り、その人の生きた歴史も学べる。伝記は、その人の事跡を叙述するが、その人の容貌は伝えられない。詩や賛はその人のすばらしさを讃えるがその人の生きている姿(さま)までは描けないだろう。「図画」という表現方法は、この容貌・姿を描き伝える技なのである。
だから、陸士衡(リクシコウ)(陸機(リクキ)、261―303、晋の人)はこう言っている、「丹青(絵を描くこと)が興ってきたのは雅頌(『詩経』にいう詩の六義の二つ)を叙すのと同時期、つまり『詩経』が詠われている頃から始まっており、偉大な業を為した行いを輝かせる。事物を述べるのに言葉にかなうものはないが、形を遺すには画よりすぐれるものはない」と。曹植(ソウショク)(192―232、魏の人)も言っている、「画を観るということは、たとえば『三皇五帝』(三皇とは天皇・地皇・人皇、伏義(フギ)・女禍(ジョカ)・神農、五帝とは少昊(ショウコウ)・センギョク・帝黌(テイコウ)・尭(ギョウ)・舜(シュン)あるいは包犠・神農・黄帝・尭・舜、蒼帝・赤帝・黄帝・白帝・黒帝など、要するに古代の伝説上の神・帝王をいうときの慣用句)の図をみれば、怖れ多い気持ちを抱き、三季(夏・殷・周の三代)の悪皇帝の図をみれば、怒り嘆き、非道な賊臣の絵を見れば歯ぎしりしてくやしい気分に浸り、高節な人士の絵をみれば息を呑んで見とれる。忠臣が殉難する画をみれば高尚な悲しみに心を奪われ、主君に追われた忠臣や親に捨てられた孝行息子の画をみれば溜息ついて涙し、淫乱な男や女の絵姿をみれば、憎しみのまなざしを注いで、貞淑な姫や妃の姿をみればほめそやしたくなる。図画というものは、こうしてわれわれに鑑戒(いましめ)を与えてくれるものなのだ」と。
昔、夏の国が衰え、最後の王、桀(ケツ)王が暴虐を働き、太史(長官)の終(シュウ)は画を抱えて商の国に逃げた。殷が亡びたときは、紂(チュウ)王は太史の諫言(かんげん)に耳をかさなかったが、内史の摯(シ)は図巻を車に積み周の国へ亡命した。燕(エン)の太子丹(タン)は秦の始皇帝に、彼に背いて逃げてきたハン将軍の首と図巻を献呈したいと荊軻(ケイカ)を使者に出した(荊軻は秦王暗殺の密命を帯び図巻の中に匕首(あいくち)を隠して王に会見しようとしたが失敗し処刑された)。漢の高祖(沛公(はいこう))が秦を滅したとき、その官の蕭何(ショウカ)は、他の将軍が宝物掠奪に夢中になっているなか一人、秦の宮廷の図書を集めていた。沛公が漢王になったとき、その図書がいかに役に立ったか、いうまでもない。
図画というものは、国家の貴重な宝であり、国を治め乱を平らげるときに大きな役割を果す。だから後漢の明帝の宮殿(未央宮)に壁画が描かれ功労者を称えたのだし、蜀(ショク)の献帝の学堂の壁に古代の神々や歴代の帝王の像、梁に弟子や名臣の図を描いて、道の勧めと戒を教えたのである。馬后(バコウ)は女の身でありながら、虞舜や娥皇、女英、尭の図を見、主君にそのような人物になってほしいと勧め諫めた。石勒(セキロク)は羯胡(えびす)つまり異国人で後趙の支配者となったが、「春秋」「史記」「漢書」の書籍を重んじ、その後継者・甥の石虎は太武殿を建てて古の聖賢、忠臣、孝女の図を描かせた。画を楽しむことは、すごろくや博奕に夢中になるのとはちがう、聖人の教えにかなった楽しみ事なのである。
私(張彦遠)は、かねてから王充(後漢の人、57-88、『論衝』を著す)がこんなことを言っているのを困ったことだと思っている。王充がいうには、図画に描かれた人を観るのは古人(昔の人)を観ていることにすぎないので、それは死人を視るのと変わらない。その顔の絵を見るより、その人の言行を観る方がずっとよくその人のことが判る。古の賢者の事は竹帛(チクハク)(書物)にちゃんと記載されている。壁に描かれた画だけが古賢の功を伝えているのではないというのだ。
思うに、こういう議論は、『老子』にいうところの「下士、道を聞けば大いに之を笑う、笑わざれば以て道と為すに足らず(王充のような下等な奴に笑いとばされるからこそ絵画の真価はますます本物になる)」で、『史記』にあるように食物を耳にもっていくようなもの、『荘子』がいう牛に笛を吹いて聴かせている愚行に等しいといえよう。
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