生前に書いて出版された本は3冊。全て自前の英文で、
The Ideals of the East (東洋の理想)1903
The Awakening of Japan (日本の目覚め)1904
The Book of Tea (茶の本)1906
□岡倉天心の時代
●第一期(1913〜1945[大正2〜昭和20])
1913(大正2)9月2日岡倉逝去。9月5日谷中斎場で葬儀。法名「釈天心」。
1914(大正3)9月2日一周忌に再興日本美術院開院式。「天心霊社」建立。
1922(大正11)日本美術院編『天心全集』刊。
1929(昭和4)The Book of Tea (茶の本)の本邦初訳が岩波文庫から刊行(村岡博訳、著者名は「岡倉覚三」)。
1931(昭和6)12月6日東京美術学校前庭に「岡倉天心銅像」(平櫛田中作)除幕式。背板にAsia is One」。
1932(昭和7)清見陸郎「大アジア主義者岡倉天心」(『公論』)。
1934(昭和9)清見陸郎『岡倉天心』(最初の伝記)刊。
1938(昭和13)雑誌『新日本』2月号特集「日本の自覚・先覚者研究の一、岡倉天心」に、保田与重郎、浅野晃、岡倉一雄ら寄稿。
同年 岡倉の遺品の中から出てきた英文ノートを邦訳し『理想の再建』と名付けて刊行。
同年10月 その邦訳を『東洋の覚醒』と変更して出版(浅野晃訳)。
1940(昭和15)その『東洋の覚醒』の英文版を“The Awakening of the East”という題に変えて刊行。
1941(昭和16)土方定一『天心』アトリエ社刊。
1942(昭和17)保田与重郎『日本語録』に「アジアは一つだ」。
同年 富田常雄『亜細亜は一なり』(小説)。
同年「岡倉天心偉績顕彰会」創立。五浦旧邸に石碑「亜細亜は一な里」(大観筆)。
1943(昭和18)内務省情報局編刊『アジアは一つ』(大東亜会議代表演説集)。
1944(昭和19)日本文学報国会編『定本国民座右銘』(朝日新聞社刊)に「アジヤは一つ」(浅野晃解説)。
●第二期(1946〜現在[昭和21〜平成29])
1946(昭和21)3月 塩田力蔵「天心先生を中心にして」(『古美術』16−3)。
同年9月 院展戦後第一回展。
1947(昭和22)林文雄「岡倉天心への批判」(『藝術研究』第四集、のち『藝術とリアリズム』八雲書店1948)。
1948(昭和23)河北倫明「岡倉天心と現代日本画」(『現代日本画論』高相書院)、
土方定一「偉大なる美術史家岡倉天心」(『国立博物館ニュース』)。
1962(昭和37)「岡倉天心生誕百年」記念行事。松坂屋、東京藝術大学附属図書館、茨城大学五浦美術研究所、明治村、『国華』、『朝日ジャーナル』etc.
1979〜81(昭和54〜56)平凡社『岡倉天心全集』全9巻
・・(以下2012年「岡倉覚三生誕150年」にあたり行われた種々の事業など数多く項目はあるが、略)
□展望
1.二つの「岡倉」像がある。「岡倉覚三」を日本近代化過程のなかでの挫折者と見るか、先覚者と見るか。「先覚者」と見るとき「岡倉天心」という呼称が浮上する。
2.なぜ「覚三」が「岡倉天心」と呼び慣わされて定着している/きたのか、を改めて現代の問題として追究して見ることは避けてはいけない問題だろう。
3.岡倉覚三を「天心」と呼ぶこと自体は、厩戸皇子を「聖徳太子」と呼ぶのと変わらないのだが、「天心」は戦時中に別の意味を注入されて、大きな役割を演じてしまった。自分自身が第二次世界大戦中にこんな役割を与えられていたとは、生前の岡倉覚三氏は想像もしていなかっただろう。岡倉覚三を「天心」と呼ぶときには、この戦時期に演じられた出来事への痛みを持って呼ぶのでなければならないだろう(「天心」と呼んで、その痛みを感じないということは、歴史に対して清らかであろうとしていないことにならないか)。そう考えたとき、「岡倉覚三–天心」問題は、戦争の不条理、貧困、格差、差別といった経済利益最優先主義社会の現代が抱える問題とつながっていることを知らされる。
4.岡倉を本当に理解するためには、「岡倉覚三」の五期にわたる生涯にあって、彼の思想と行動は決して一貫していたわけではないこと、矛盾すらしていたその思想過程を丁寧に辿り観察することが必要だろう。
5.The Ideals of the East (最初の英文著書)と The Book of Tea (三冊目にして最後の英文著述)とのあいだにも、彼の思想の変遷、考えかたの違いがある。生前、岡倉はThe ideals of the East の邦訳版を出版することを「あれは不本意な出来の本だから」と強く拒絶していた(岡倉のなかでは嫌われていた自著である)。
どこが不本意だったのか、読み込むこと。The Book of Tea は、The Ideals of the East の不本意なところを回復しようとして書いた本、と読むことができる。
6.晩年(第Ⅴ期)の10年にわたるボストン−日本往還期間にも考えの変容がある。勉強し考えを深めれば深めるほど避け難く起ってくる自己変革である。アメリカにあって「世界」が見えて来ればくるほど、「アジア」の歴史とその行方が大きく迫ってくる。それを、岡倉は、日本では(日本語では)うまく語れていなかった。五浦の六角堂に籠って一人で鬱々と考えていたのだろうか。晩年インドの詩人と取り交わした手紙のなかで、語れない侘しさを切々と綴っている。その落差、懸隔を読み出すこと。
7.第Ⅳ期インド滞在を彼の「挫折」とその「回復」期と見るとき、その後アメリカで考えていたことに新しい読みが開かれ、彼の思想のドラマが新しい意味を帯びてわれわれ21世紀に生きる人間に問いかけてくるのではないか。「近代」とはなにか。「日本」とはなにか。「芸術」は人間にとってどんな意味をもつのか。といったわれわれ現代に生きる人間の生活に潜む根源的な問いである。
8.「岡倉覚三」の遺したものから考えて行くとき、「近代」とはなにか、「日本」とはなにか、「芸術」はどうあるべきか、「美術史とくに日本美術史はどのように書いて行くべきか」と言った問題について、改めて考え直す新しい視点と視野への示唆が得られる。しかし「岡倉覚三」を追求して行くだけでは、おそらく「経済利益最優先社会の現代が抱えているさまざまな問題」を考えるところまでは拡がらないかもしれない。それは、「岡倉覚三」×「岡倉天心」の問題を考えていくときに浮上してくる。「岡倉覚三–岡倉天心」問題は、とても新鮮で重要な、問題なのだ(今回の小沢さんの作品はこの問題へと誘ってくれる)。