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【大谷 吉継】
おおたに よしつぐ
朝日日本歴史人物事典の解説
(小和田哲男)
◇ ◆ ◇
[大谷吉継] 没年:慶長5.9.15(1600.10.21)
生年:永禄2(1559) 安土桃山時代の武将。豊後の戦国大名大友宗麟の家臣大谷盛治の子といわれているが,近江の出身とする説もある。通称紀之介。刑部と称し,名は吉隆ともいった。
いつから豊臣秀吉に仕えるようになったかは不明で,はじめ小姓として秀吉の信任を受けたといわれている。天正11(1583)年の賤ケ岳の戦では七本槍に次ぐ戦功をたて,同13年従五位下・刑部少輔に叙任されている。
しかし武功派タイプではなく吏僚派タイプで,九州攻めには石田三成と共に兵站奉行を務め,のち,やはり三成らと検地奉行などを務めた。
三成とは特に仲がよく,これが後年の伏線となっている。
同17年,越前敦賀城主となり,5万石の大名となった。その後,小田原攻めとそれに続く奥羽の平定にも力を発揮し,また,文禄の役には石田三成と共に船奉行を務めた。さらに督戦の奉行として渡海し,明軍との和平交渉にも当たっている。
秀吉死後,徳川家康の天下統一事業に協力する姿勢を示し,慶長5(1600)年7月には家康の会津攻めに従うため敦賀を発ち,途中使者を佐和山城の石田三成に遣わし,三成の子重家の同道を求めたが,三成はかえって吉継を佐和山城に招き,はじめて家康を討つ意思を伝えている。
吉継は思いとどまるよう説得したが,三成の意思の固いことを知り,長年の友誼から行動を共にすることを決意し,そのまま兵を敦賀にもどし,家康方の前田利長軍と戦ってこれを破った。
家康が下野小山で三成らの挙兵を知り,会津攻めを中止して西上すると知った吉継は,敦賀から関ケ原に向かい,かねてから疑いを抱いていた小早川秀秋に備えるため松尾山の北麓藤川台に自ら布陣している。
9月15日の戦闘のとき,一度は東軍藤堂高虎,京極高知らの攻撃を退けたが,東軍に内応した小早川秀秋軍に攻められ,奮闘の末,自刃して果てた。
病のため陣中でも面体を包んだと伝えられ,「関ケ原合戦図屏風」にも頭を白い頭巾でつつんだ姿で描かれている。
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★歴史トレカ:人物★
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人物カード★★26枚
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合計★★★★37枚(うち、未公開;02枚)
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【朴 泳孝 パク-ヨンヒョ】 朝日日本歴史人物事典の解説 没年:昭和14.9.20(1939) 生年:哲宗12.6.12(1861.7.19) 朝鮮李朝末期の開化政治家。日本語読みは「ぼく・えいこう」。 朴珪寿から実学を学び金玉均,洪英植,徐光範らと開化派を結成する。 壬午事変(1882)後に修信使として訪日し,日本の近代化を視察し政界人および福沢諭吉らと交遊する。 帰国後,金玉均らと甲申政変(1884)を引き起こすが,挫折し日本に亡命する。 高宗25(1888)年,国王高宗に「建白書」を上呈し,東アジア情勢の切迫と朝鮮近代化の急務とを訴えた。 同31年,日清開戦後帰国し内部大臣となり甲午改革に参画するが,日本の強い干渉に反発して独断専行し,金弘集らと対立した。 三国干渉(1895)後の閔妃のロシア接近を抑えようとしたが,陰謀罪に問われ,同32年再び日本に亡命。 隆煕1(1907)年帰国し宮内大臣となったが,ハーグ密使事件(1907)に当たり李完用内閣と対立し追放される。 日韓併合(1910)後に日本から侯爵を授かる。 朝鮮独立のため国民の活力を動員し,改革実現をめざしたが挫折した。 ◆ ◇ ◆ <参考文献>森山茂徳『日韓併合』 |
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【高場 乱】
(Wikipedia)
高場 乱(たかば おさむ、天保2年10月8日(1831年11月11日) - 明治24年(1891年)3月31日)は、江戸時代末期の女性儒学者で、医者、教育者。筑前国博多の人。幼名は養命。諱は元陽のち乱。通称は小刀。号は仙芝など。 [経歴]
筑前国博多瓦町の眼科医・高場正山の末子として生まれる。
高場家は代々眼科医の名門で福岡藩の藩医を努めていたが、幼名の「養命」からうかがえるように、乱は男として育てられた。天保12年(1841年)、10歳で(男として)元服。なお、この元服は藩に受理された公的なものである。異例と言えなくはないが、福岡藩の支藩にあたる秋月藩には原采蘋という男装帯刀の女性儒学者がすでにいた。
16歳で一度は夫を得るが、これを不服として自ら離縁、20歳の時に亀井昭陽の亀井塾に入る。亀井塾は身分性別を問わない学風で、実際に女性の弟子も多かった。先に挙げた原采蘋もその一人である。
亀井塾で学問を修めた乱は明治6年(1873年)、福岡藩の薬用人参畑跡(現在博多駅の近く)に私塾興志塾(通称「人参畑塾」)を開設、医業の傍らで教育にも携わる道を選んだ。
弟子は何故か乱暴者が多く、乱もあえてそういった人物を拒まなかったという。そのせいか乱は世間から「人参畑の女傑」と呼ばれ、塾も「梁山泊」などと呼ばれていたというが、乱自身は生来虚弱で、華奢であったと伝えられている。
そんな興志塾に明治7年(1874年)頃に入門したのが頭山満であるが、彼の他にも後に玄洋社の主要なメンバーとなった平岡浩太郎や進藤喜平太、箱田六輔に武部小四郎などはいずれも興志塾で学んだ。
◇ ◆ ◇ その弟子たちが起こした明治10年(1877年)3月の福岡の変への関与を疑われ、乱も一時は拘束されるが、釈放されている。その後、頭山らが結成した向陽社(玄洋社の前身)内部の抗争を仲裁するなどしつつ、弟子たちの行く末を見守っていたが、自由民権運動のうねりの中で多くの弟子たちが命を失っていった。 ことに、弟子の一人である来島恒喜が大隈重信へテロを仕掛け自殺したことには衝撃を受けたようで、これを「匹夫の勇」(思慮浅く、ただ血気にはやって行動したがるだけの勇気)と評した書簡が残っている。
来島の自殺の翌年、乱は後を追うように病床に伏し、医者であるにも関わらず一切の治療を拒みながら、弟子たちに看取られつつ逝去した。明治24年(1891年)3月31日のこと、59歳であった。
◇ ◆ ◇
参考文献
##永畑道子『凛―近代日本の女魁・高場乱』藤原書店, 1997。 ISBN-13: 978-4894340633 ##石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』海鳥社、2010年。ISBN-13: 978-4874157879 ◇ ◆ ◇
pixivの高場乱に関するイラスト
【紀尾井町事件】ある福岡士族の反応
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【旅順攻囲戦】
(Wikipedia;『乃木希典』より。)
乃木が率いる第3軍は、第2軍に属していた第1師団および第11師団を基幹とする軍であり、その編成目的は旅順要塞の攻略であった[78]。
明治37年(1904年)6月6日、乃木は遼東半島の塩大澳に上陸した。このとき乃木は、大将に昇進し、同月12日には正三位に叙せられている[75]。
第3軍は、6月26日から進軍を開始し、8月7日に第1回目の、10月26日に第2回目の、11月26日に第3回目の総攻撃を行った[注 11]。 また、白襷隊ともいわれる決死隊による突撃を敢行した[79]。
▲乃木希典(のぎまれすけ)▲
乃木はこの戦いで正攻法を行い、ロシアの永久要塞を攻略した。第1回目の攻撃こそ大本営からの「早期攻略」という要請に半ば押される形で強襲作戦となり(当時の軍装備、編成で要塞を早期攻略するには犠牲覚悟の強襲法しかなかった)、乃木の指揮について、例えば歩兵第22連隊旗手として従軍していた櫻井忠温は「乃木のために死のうと思わない兵はいなかったが、それは乃木の風格によるものであり、乃木の手に抱かれて死にたいと思った」と後年述べたほどである。乃木の人格は、旅順を攻略する原動力となった[80]。
乃木は補充のできない要塞を、正攻法で自軍の損害を抑えつつ攻撃し、相手を消耗させることで勝利出来ると確信していたが、戦車も航空機もない時代に機関砲を配備した永久要塞に対する攻撃は極めて困難であった。
第3軍は満州軍司令部や大本営に度々砲弾を要求したものの、十分な補給が行われることはついになかった。
旅順攻撃を開始した当時、旅順要塞は早期に陥落すると楽観視していた陸軍内部においては、乃木に対する非難が高まり、一時は乃木を第3軍司令官から更迭する案も浮上した。
しかし、明治天皇が御前会議において乃木更迭に否定的な見解を示したことから、乃木の続投が決まったといわれている[81]。また、大本営は、第3軍に対して、直属の上級司令部である満州軍司令部と異なる指示を度々出し、混乱させた。
特に203高地を攻略の主攻にするかについては、第3軍の他にも、軍が所属する満州軍の大山巌総司令や、児玉源太郎参謀長も反対していた。それでも大本営は海軍側に催促されたこともあり、満州軍の指導と反する指示を越権して第3軍にし、乃木たちを混乱させた[82]。
乃木に対する批判は国民の間にも起こり、東京の乃木邸は投石を受けたり、乃木邸に向かって大声で乃木を非難する者が現れたりし、乃木の辞職や切腹を勧告する手紙が2,400通も届けられた[83][84][85]。
この間、9月21日には、伯爵に陞爵した。
11月30日、第3回総攻撃に参加していた次男・保典が戦死した。前年5月の長男・勝典の戦死直後、保典が所属していた第1師団長の伏見宮貞愛(さだなる)親王は、乃木の息子を二人戦死させては気の毒だろうと考え、保典を師団の衛兵長に抜擢した。
伏見宮貞愛(さだなる)親王
乃木父子は困って辞退したが、親王は「予の部下をどのように使おうと自由であり司令官の容喙は受けない」と言い張った[86])。保典の戦死を知った乃木は、「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ」と述べたという[87][88]。
長男と次男を相次いで亡くした乃木に日本国民は大変同情し、戦後に「一人息子と泣いてはすまぬ、二人なくした人もある」という俗謡が流行するほどだった[89]。なお、乃木は出征前に「父子3人が戦争に行くのだから、誰が先に死んでも棺桶が3つ揃うまでは葬式は出さないように」と夫人の静に言葉を残していた[90]。
◇ ◆ ◇
明治38年(1905年)1月1日、要塞正面が突破され、予備兵力も無くなり、抵抗は不可能になった旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセリ(ステッセルとも表記される)は、乃木に対し、降伏書を送付した。
これを受けて1月2日、戦闘が停止され、旅順要塞は陥落した[91][92]。
※なお、この戦いに関する異説として、旅順に来た児玉源太郎が指揮をとって203高地を攻略したというものがある。この異説は、作家の司馬遼太郎が著した小説が初出で世に広まり、以降の日露戦争関連本でも載せられるほどとなった。しかし、司馬作品で発表される以前にはその様な話は出ておらず、一次史料にそれを裏付ける記述も一切存在しない[93]。203高地は児玉が来る前に一度は陥落するほど弱体化しており、再奪還は時間の問題であった。
◇ ◆ ◇
また、この戦いで繰り広げられた塹壕陣地戦は、後の第一次世界大戦の西部戦線を先取りするような戦いとなった。
鉄条網で周囲を覆った塹壕陣地を、機関銃や連装銃で装備した部隊が守備すると、いかに突破が困難になるかを世界に知らしめた。他にも、塹壕への砲撃はそれほど相手を消耗させないことや、予備兵力を消耗させない限り敵陣全体を突破するのは不可能であることなど、第一次世界大戦でも言われた戦訓が多くあった。
しかし、西洋列強はこの戦いを「極東の僻地で行われた特殊なケース」として研究せずに対策を怠り、第一次世界大戦で大消耗戦となってしまった[94] 。
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1940(昭和15)年9月末、東京荻窪の荻外荘(てきがいそう)に近衛文麿首相を訪ねた山本は、日米戦争の見通しについて 『それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい。』 連合側と枢軸側との戦力差がはっきりと開いていることや、政界・マスコミがドイツ軍の快進撃に幻惑されていることを知る山本らは、日独伊三国同盟に強く反対していたが、陸海軍の強硬派が勝利すると、日本は『太平洋戦争』への道を邁進することとなる。 「誠を貫き、他者の評判(俗論)に捕らわれず、斃れてついに初志貫徹することの難しさを知るものがあるだろうか?」 華々しく戦うだけで、人間は真実を得ることができるのだろうか?いや、そうではない。 多数意見の短絡を見抜き、俗論の攻撃を一身に浴びながらも人々の将来の安堵を祈願する辛抱が必要なのではないか? アメリカの強盛を識(し)り、アメリカとの対立に備えながらも、現実の開戦に強く反対していた山本は、自らが育て上げた空母機動艦隊を擁して真珠湾に奇襲を仕掛ける。 しかし昭和17年(1942年)、ミッドウェー海戦において、ついにアメリカ海軍の損害:航空母艦1隻に対し、日本海軍は主力航空母艦4隻とその全艦載機300及び熟練パイロットを喪失するという状況に至った。 当時の日本の航空機は「攻撃」に重点が置かれ、「防御や索敵」は軽んじられていたという。 長い時間をかけて育成された貴重なパイロットも、情報不足の中でアメリカ側の物量の前に身を護る盾も無く、弾雨に曝されることとなったのである。 この結果、日本が優勢であった空母戦力は均衡、その後、増強を続ける米側に圧倒されてゆく。 昭和18年(1943年)4月18日、山本は、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空で、米軍に通信文を傍受・撃墜され戦死した。 享年59歳。 こののち日本は、次第に劣性となり、各地で多くの戦死者を出しつつ原爆投下・敗戦を迎えることとなる。 |



