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その950
オイラ 元気でござるよ
![]() ![]() ![]() ![]() 本日は はれ
でござる。
1856年の今日は、幕府が日蘭和親条約を長崎で調印するでござる。
日蘭和親条約は
江戸幕府とオランダが締結した和親条約でござる。
日米和親条約が締結されたことを受けて、江戸幕府はオランダと新たな関係を規定することになったのでござる。
鎖国政策において
朝鮮王朝と琉球王国の関係は「通信」とされ、貿易が行われたのみならず国交があったのでござる。
しかし
オランダとの関係は「通商」とされ、貿易は行われたものの国交はなかったのでござる。1641年にオランダ商館が平戸から、現在のの長崎市の出島へ移されて以降、オランダ人の行動範囲は出島に限定されたのである。
この条約の締結は
オランダとの関係は「通商」から「通信」となり、両国間の国交が結ばれることになり、オランダ人の長崎市街への出入りが認められるようになったのでござる。
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その949
オイラ 元気でござるよ
![]() ![]() ![]() ![]() 本日は はれ
でござる。
1578年の今日は、織田信長は国元に残っていた家臣の妻子を安土へ移すよう命じたでござる。
事の起こりは
織田信長の御弓衆だった福田与一なる人物の家から出火した火事でござる。
『信長公記』には、この日、火事が起こった事を知った信長は そこで
菅屋長頼を奉行に任命し、調査したのである。
そうしたところ
御弓衆:60名、御馬廻り衆:60名の計120名が、未だ妻子を安土に引っ越させていない事が判明し、これらの者を一斉に叱責したのでござる。
その後のこと
岐阜にいた息子の信忠(に命じて尾張(おわり=愛知県西部)のその者たちの邸宅を焼き払い、宅地内の木を伐採するのでござる。
焼け出された妻子たちは、とる物もとりあえず、安土へと移り住んだのでござる。
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その948
オイラ 元気でござるよ
![]() ![]() ![]() ![]() さて
あるところの、ある村に働き者の福助さんという男とその嫁がいたでござる。
福助さんの仕事は「ボロ買い」で、嫁は夫が仕事をしている間は、
ある日、福助さん仕事に行く途中で何のへんてつもない竹筒を見つけ、家に持って帰ったでござる。そして嫁の目の前で竹筒を覗きながら、「お前は昼間タチの悪い人たちと遊んでいたじゃろう、何でもお見通しだ」と、遊びほうけていた嫁を戒めたでござる。
ズバリ指摘された嫁は驚き、福助さんに謝ったでござる。それから福助さんの不思議なノゾキメガネの事は、村じゅうに知れ渡り、ついには城下まで伝わったでござる。丁度その頃、殿さまが将軍さまから頂いた大事な小刀が無くなったので、城では大騒ぎだったでござる。そこで、家老直々に福助さんの家まで出向き、小刀を探すために城へ向かうカゴへ乗せられたでござる。
そもそも竹筒は何の効力もないので、困っていた福助さんは、峠道でスキをみて逃げ出した。近くの茂みに隠れていると、偶然、近くで泥棒が城から盗み出した小刀を隠しているところを目撃したでござる。
城に到着した福助さんは「竹筒の効力はこれで最後です」と念を押したうえで、先ほど泥棒が隠していた場所を殿さまに教えてやったでござる。小刀が見つかった殿さまはたいへん喜んで、ただの竹筒を高価な値段で買い取ってくれたでござる。福助さんは、無事に城から帰って、また元のボロ買いの仕事に励んだでござるそうな。
「福助さんのノゾキメガネ」という昔から伝わるはなしでござる。
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その947
オイラ 元気でござるよ
![]() ![]() ![]() ![]() 本日は はれ
でござる。
1338年の今日は、三井寺に駐留していた足利尊氏軍を、新田義貞率いる後醍醐天皇軍が攻撃し、天皇軍が京都を奪回したでござる。
第96代・後醍醐天皇は
足利尊氏や新田義貞、楠木正成らの味方を得て、鎌倉幕府を倒して行った、建武の新政でござる。
しかし
功績のあった武士たちより公家を優先する改革は、行ったしりから不評続きでいっこうにうまく進まないのでござる。
そんな中
関東で起こった反乱の鎮圧を命じられた尊氏は、乱を鎮圧した後も京へは戻らず、逆に、反・後醍醐天皇を打ち出して京へと攻めよせますでござる。
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その946
オイラ 元気でござるよ
![]() ![]() ![]() ![]() 本日は はれ
でござる。
1593年の今日は、文禄の役で、宇喜多秀家率いる大軍が、漢城北部の碧蹄館で、明&朝鮮軍と激突した『碧蹄館の戦い』があったのでござる。
豊臣秀吉の朝鮮出兵でござる
文禄元年(1592年)の
夜明け頃、釜山(プサン)に上陸した秀吉軍は、その昼には釜山城を攻略し、首都・漢城(ハンソン・現ソウル)を目指して北上するのでござる
当初は
朝鮮王朝に対して不満を持つ朝鮮人自身の協力もあって、慶州(キョンジュ)を攻略した加藤清正の2番隊を筆頭に、別働隊で動く小西行長の2番隊・黒田長政の3番隊が、破竹の勢でござる。
かくして
漢城の目の前までの敵軍の南下を確認した秀吉軍の諸将は、その目標を、漢城の徹底防衛一本に絞ったのでござる。
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その945
オイラ 元気でござるよ
![]() ![]() ![]() ![]() 本日は はれ
![]() でござる。
1119年の今日は、相模川にかけられた橋の新造供養に出席した源頼朝は、帰途、落馬して病むでござる。
源頼朝は
稲毛重成の亡妻元子の追善供養のために造った、相模川橋の法要供養に臨席の頼朝が鎌倉の館へ帰途、八的ヶ原(辻堂)に差しかかりし時に突然落馬する難に遭遇するでござる。 京の鎌倉往還(三浦藤沢信用金庫辻堂支店駐車場前)「保暦間記」に「建久九年の冬、右大将(頼朝)殿 相模川の橋供養源氏・義広、義経、行家己下の人々の怨霊現じて、将軍の目を見合せり」と記され、八的ヶ原とは辻堂の地を指しているのでござる。 将軍頼朝は怨霊が目に現じて、落馬したと記述されているが、その真相は。頼朝だけか知るのでござる。
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その944
オイラ 元気でござるよ
本日は はれ
でござる。
1554年の今日は、織田信長が今川方の尾張村木城(砦)を落としたでござる。
地理的に
美濃(みの・岐阜県)の斎藤道三と、遠江&駿河(とおとうみ&するが・静岡県西部)の今川義元に挟まれる形だった現在の愛知県でござる。
そんな愛知県の西部が
尾張(おわり)で東部が三河(みかわ)でござり、戦国時代の常として、ここらへんでの境界線を巡っての抗争が絶えなかったわけでござるが、両者とも未だ弱小でござったのじゃ。
国内統一すらできていなかった尾張の織田信秀は
加納口の戦いの後、道三との戦いを一旦休止し、自らの息子・信長と道三の娘・帰蝶(濃姫)の結婚を実現させて同盟を結び、生き残りを図るのでござる。
時は過ぎ
信秀が病死して、当時18歳の信長が後を継ぐのでござる。
そして・・・・・・
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その943
オイラ 元気でござるよ
![]() ![]() ![]() ![]() 本日は はれ
でござる。
1570年の今日は、織田信長が第十五代将軍・足利義昭に五ヵ条の掟書を突きつけるでござる。
信長の『信長朱印条書』の
第一条の「将軍が諸国へ書状を出す時には、信長の添状(許可書)を付けなければならない事」と第四条の「天下の事は信長に任したのだから、義昭の意見は無用である」ということに、義昭は怒り心頭するのでござる。
このことは
毛利や武田に上杉などに、せっせと手紙を書いて接近しようとしていた義昭へのけん制であり、事実上の最高権力者が自分である事を宣言したに等しいことなのでござる。
この事で
信長と義昭の対立は決定的になり、義昭は逆に諸国の大名や石山本願寺と結託して、反信長の体制をとり、信長のまわりは敵ばかりになるのでござる。
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その942
オイラ 元気でござるよ
![]() ![]() ![]() ![]() 本日は あめ
でござる。
1190年の今日は、白河上皇が熊野三山へ行幸されるでござる。
熊野詣の熊野は
和歌山県は紀伊半島の岬の突き出たあたり一帯を指す地名で、もともとは、「樹木が生い茂っていて、昼なお暗い」といった「隈々しい(くまぐましい)」に由来した地名だと言われているでござる。
そこにある
熊野三所(社)権現や熊野三山など呼ばれている大きな3つの神社である、熊野本宮大社(ほんぐうたいしゃ・熊野坐神社)、熊野速玉大社(はやたまたいしゃ・新宮)、熊野那智大社(なちたいしゃ)を中心に、平安時代頃から仏教修行の道場として注目を浴びるようになるのでござる。
現在は
稲荷社や八幡社に次ぐ、3番目に多く全国に散らばる熊野神社をいう神社名の本源が、ここなのでござる。
本宮は
阿弥陀如来、新宮は薬師如来、那智は千手観音と十一面観音を安置している事から、現世と来世の2世のご利益を得る事が出来るとして、特に、今の地位を失いたくない貴族や公家が、こぞって熊野詣に出かけた事から、やがて、それが庶民にも広がって行き、「蟻(あり)の熊野詣」と表現されたくらい、大勢の人が参拝に訪れるようになったのでござる。
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