|
トルーマンは7月25日の日記で「日本がポツダム宣言を受諾しないことを確信している」と記載したように、日本側の拒否は折り込み済みであった。むしろ宣言のみによる降伏ではなく、宣言の拒否が原子爆弾による核攻撃を正当化し、また組み合わせて降伏の効果が生まれると考えていた。
8月6日には 広島市 への原子爆弾投下が行われ、同市における甚大な被害が伝えられた。また8月9日(日本時間)の早朝にはソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州国、朝鮮半島北部、南樺太への侵攻を開始(ソ連対日参戦)、ポツダム宣言に参加した。
これらに衝撃を受けた鈴木は同日の最高戦争指導会議の冒頭で「ポツダム宣言を受諾するほか無くなった」と述べ、意見を求めた。強く反対する者はおらず、また会議の最中に 長崎市 への原子爆弾投下が伝えられたこともあり、「国体の護持」「自発的な武装解除」「日本人の戦犯裁判への参加」を条件に宣言の受諾の方針が優勢となった。
しかし陸相阿南惟幾はなおも戦争継続を主張し、議論は天皇臨席の23時からの最高戦争指導会議に持ち越された。
日付が変わって10日、昭和天皇のいわゆる「聖断」が下され、“「天皇統治の大権を変更する」要求が含まれていないという了解の下に受諾する”という回答が決定された。これは3時からの閣議で正式に承認され、スウェーデンとスイスに向けて送信された。また受諾方針については勅語の発表まで公表を行わないことにした。
大西洋標準時(以下本パラグラフのみ)8月10日7時、アメリカはこの電文を傍受した。これを受けたアメリカ政府内では、日本側の申し入れを受け入れるべきであるというスティムソン、フォレスタル、リーヒに対し、バーンズは「我々がなぜ無条件降伏の要求から後退しなければならないのか分からない」と反対した。
結局フォレスタルの提案で、肯定的な返事をするが、アメリカ政府の立場について誤解を与えない回答を行うべきであるという決定が下された。これにしたがってバーンズを中心とした国務省で対日回答案の検討が開始され、10日の閣議で決定された。
回答案は英・ソ・中の三国に伝達され、同意が求められた。イギリスは同意したが、ソ連は日本が条件をつけようとしていることを非難した。しかし翌日未明には反対を撤回し、かわりに日本占領軍の最高司令官を米ソから一人ずつ出すという案を提案してきた。
W・アヴェレル・ハリマン駐ソ大使はこれを拒否し、結局バーンズの回答案が連合国の回答として決定された。回答案は8月11日の正午にスイスに向けて打電され、12日午後0時45分に日本の外務省が傍受した。
この「バーンズ回答」は「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」とし、また「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に"subject to"する」というものであった。"subject to"の訳については「制限の下に置かれる」だと解釈する外務省と「隷属する」だと解釈する軍部の間の対立があり、軍部強硬派が国体護持について再照会を主張し、鈴木首相もこれに同調した。
東郷外相は正式な公電が到着していないと回答して時間稼ぎを行ったが、一時は辞意を漏らすほどであった。8月13日午前2時になってスウェーデンの岡本季正公使から、バーンズ回答は日本側の申し入れを受け入れたものであるという報告が到着し、外務省の主張に力を与えた。
この日の閣議は二回行われ、二回目には宣言の即時受諾が優勢となった。一方でアメリカでは日本の回答が遅いという世論が起きており、この日の夕刻にはアメリカ軍が東京に日本の申し入れとバーンズ回答を記したビラを散布している。
8月14日に改めて御前会議を開き、宣言受諾が決定され、同日付で終戦の詔勅が発せられた。同日、加瀬俊一スイス公使を通じて、宣言受諾に関する詔書を発布した旨、また受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国側に伝えられた。
8月15日正午、日本政府は宣言の受諾と戦争の終結を国民に発表(玉音放送)。なお、陸海軍に停戦命令が出されたのは8月16日である。 宣言受諾とその発表を巡っては国内で混乱が見られ、宣言受諾が決定したという報が入ると、クーデターによって玉音放送を中止させて「本土決戦内閣」を樹立しようという陸軍青年将校の動きがあり、15日未明に一部部隊が皇居の一部や社団法人日本放送協会などを占拠したものの、陸軍首脳部の同意は得られず失敗に終わった(宮城事件)。
宣言受諾後も、ソ連や中国との間で戦闘が続いた。9月2日、日本政府は米戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に調印した。しかしその後も各戦線に残存していた日本軍と中国軍・アメリカ軍との小規模の戦闘は続いた。(おわり)
|

>
- Yahoo!サービス
>
- Yahoo!ブログ
>
- ブログバトン



