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書庫白村江(はくすきえ)の戦い

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白村江の戦い 6

このようにして、日本最初の海外派兵による戦争は、日本側の手痛い敗北に終わった。
 
戦後処理
 
665年に唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が戦後処理の使節として来日し、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。この唐使を送るため、倭国側は守大石らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。
 
667年には、唐の百済鎮将劉仁願が、熊津都督府(唐が百済を占領後に置いた5都督府のひとつ)の役人に命じて、日本側の捕虜を筑紫都督府に送ってきた。
 
天智天皇は唐との国交正常化を図り、669年に河内鯨らを遣唐使として派遣した。百済の影響下にあった耽羅も戦後、唐に使節を送っており、倭国・百済側として何らかの関与をしたものと推定される。 670年頃には唐が倭国を討伐するとの風聞が広まっていたため、遣唐使の目的の一つには風聞を確かめる為に唐の国内情勢を探ろうとする意図があったと考えられている。
 
天智天皇は白村江の敗戦のあと、唐・新羅による報復と侵攻を怖れて北部九州の大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海を主とする西日本各地に古代山城などの防衛砦を築いた。また北部九州沿岸には、防人(さきもり)を配備した。さらに667年には、都を難波から内陸の近江京(滋賀県大津)へ移して、防衛網を完成させた。
 
壬申の乱
 
671年に天智天皇が急死すると、その後、天智天皇の息子の大友皇子(弘文天皇)と弟の大海人皇子が皇位をめぐって対立し、翌672年に古代最大の内戦である壬申の乱が起こる。これに勝利した大海人皇子は、天武天皇(生年不詳〜686年)として即位した。
 
皇位に就いた天武天皇は専制的な統治体制を構築してゆき、新たな国家建設を進めた。天武天皇は、遣唐使は一切行わず、新羅からは新羅使が来朝するようになった。また倭国から新羅への遣新羅使も頻繁に派遣されており、その数は天武治世だけで14回に上る。これは強力な武力を持つ唐に対して、共同で対抗しようとする動きの一環だったと考えられている。しかし、天武天皇没(686年)後は両国の関係が次第に悪化した。
 
内政面では、天武天皇の死後もその専制的統治路線は持統天皇によって継承され、それまでの倭国(ヤマト王権)は「日本」という国家へと生まれ変わることとなった。「日本」の枠組みがほぼ完成した702年以後は、文武天皇によって遣唐使が再開され、粟田真人を派遣して唐との国交を回復している。
 
701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、新国家の建設はひとまず完了した。白村江の敗戦は倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の建設をもたらしたと考えられている。
 
百済遺民その後
 
天智10年(670年)正月には、佐平(百済の1等官)鬼室福信の功により、その縁者である鬼室集斯は小錦下の位を授けられた(近江国蒲生郡に送られる)。
 
百済王の一族、豊璋王の弟・善光(または禅広)は、朝廷から百済王(くだらのこにきし)という姓氏が与えられ、朝廷に仕えることとなった。その後、陸奥において金鉱を発見し、奈良大仏の建立に貢献した功により、百済王敬福が従三位を授けられている。
 
朝鮮半島に残った百済人も新羅及び渤海や靺鞨へ四散し、百済の種は絶滅した。(おわり)

白村江の戦い 5

海上での戦い
倭国・百済連合軍は、福信事件の影響により白村江への到着が10日遅れたため、唐・新羅軍のいる白村江河口に対して突撃し、海戦を行った。
倭国軍は三軍編成をとり4度攻撃したと伝えられるが、多数の船を持っていたにもかかわらず、
火計(火攻め)、干潮の時間差などにより、唐・新羅連合水軍に大敗した。
この際、倭国・百済連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」という極めてずさんなものであった『日本書紀』。
 
陸上での戦い
同時に陸上でも、唐・新羅の連合軍は倭国・百済の軍を打ち破り、百済復興勢力は崩壊した。白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上した。
九州の豪族である筑紫君薩夜麻も唐軍に捕らえられて、8年間も捕虜として唐に抑留されたのちに帰国を許されたとの記録がある。
白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、
唐・新羅水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。
 
戦後の影響
この戦いは唐の勝利に終わった。大陸に大国である唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦役である。
 
白村江の戦いでの敗北は、日本史上でも第二次世界大戦後のアメリカ合衆国による占領をのぞけば、日本が外国の占領下に入る危険性が最も高くなった敗戦であった。この敗戦により倭国は領土こそ取られなかったものの、朝鮮半島での権益を失い、国防体制・政治体制の変革がなされ、急速に国家体制が整備された。
 
天智天皇のときには近江令法令群が策定、天武天皇のときは最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、律令国家の建設が急ピッチで進み、倭国は「日本」へ国号を変えた。
 
 
 高句麗の滅亡
一方、朝鮮半島では唐が666年から高句麗へ侵攻(唐の高句麗出兵)しており、3度の攻勢によって
668年に滅ぼし安東都護府を置いた。白村江の戦いで国を失った百済の豊璋王は、高句麗へ亡命していたが、捕らえられ幽閉された。このようにして、3年後の668年に高句麗は滅亡した。
高句麗の滅亡によって、東アジアで唐に敵対するのは倭国のみとなった。
 
 698年に靺鞨の粟末部は高句麗遺民などと共に、満州南部で渤海国を建国した。渤海の建国当初は唐と対立していたが、後に唐から冊封を受け従った。また日本は、新羅との関係が悪化する中で、渤海からの朝貢を受ける形で遣渤海使をおこなうなど、渤海とは新潟や北陸などの日本海側沿岸での交流を深めていった。
 
新羅による半島統一
戦後、唐は百済・高句麗の故地に羈縻州(きびしゅう、今で云う自治省)を置き、新羅にも羈縻州を設置する方針を示した。
 
新羅は旧高句麗の遺臣らを使って、669年に唐に対して蜂起させた。670年、唐が西域で吐蕃と戦っている隙に、新羅は友好国である唐の熊津都督府を襲撃し、唐の官吏を多数殺害した。
他方で唐へ使節を送って降伏を願い出るなど、硬軟両用で唐と対峙した。何度かの戦いの後、新羅は再び唐の冊封を受け、唐は現在の清川江以南の領土を新羅に管理させるという形式をとって両者の和睦が成立した。
唐軍は675年に撤収し、新羅によって半島統一(現在の韓国と北朝鮮南部)がなされた。
 

白村江の戦い 4

唐軍兵力
唐軍の総兵力は不明であるが、森公章は総数不明として、660年の百済討伐の時の唐軍13万、新羅5万の兵力と相当するものだったと推定している。また唐軍は、百済の役の際よりも増強したともされている。当時の唐は四方で諸民族を征服しており、その勢力圏は広かった。この時参加した唐の水軍も、その主力は靺鞨(まつかつ・中国東北部の民族)で構成されていたという。
 
日本書紀によれば、白村江の戦いの663年から666年にかけて、「唐国の使人、郭務悰等六百人、送使、沙宅孫登等千四百人、総合べて二千人が船四十七隻に乗りて、倶に比知嶋に泊りて相謂りて曰わく、・・今吾輩が人船、数衆し。忽然に彼に到らば、恐るらくは彼の防人驚きとよみて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預めやうやくに来朝る意を披き陳さしむ・・」とあり、合計2千人の唐兵や百済人が上陸した。
 
水軍
水軍7,000名、170余隻。指揮官は劉仁軌、杜爽、元百済太子の扶余隆。
陸軍
不明。陸軍指揮官は孫仁師、劉仁原、新羅王の金法敏(文武王)。
 
倭国軍兵力
第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
第二派:27千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譚語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
第三派:1万余人。指揮官は蘆原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県清水市を本拠とした)。
※参考 この時代の日本の人口は推定450万人とされているので、47千人は、今の人口比率だと135万人の出兵となる。ちなみに第二次世界大戦時の出兵は陸海軍共で335万人(死亡130万超)
 
倭国軍の戦闘構想は、まず豊璋王(ほうしょうおう)を帰国させて百済復興軍の強化を図り、新羅軍を撃破した後、後続部隊の到着を待って唐軍と決戦することにあった。
 
6615月、第一派倭国軍が出発。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。豊璋王を護送する先遣隊で、船舶170余隻、兵力1万余人だった。
6623月、主力部隊である第二派倭国軍が出発。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
 
663年(天智2年)、帰国した豊璋は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するなどの内紛が起きた。豊璋王は福信を斬る事件を起こしたものの、倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功した。
 
百済の再起に対して唐は増援の劉仁軌率いる水軍7,000名を派遣した。唐・新羅軍は、水陸併進して、倭国・百済連合軍を一挙に撃滅することに決めた。
 
陸上部隊は、唐の将、孫仁師、劉仁原及び新羅王の金法敏(文武王)が指揮した。劉仁軌、杜爽及び元百済太子の扶余隆が率いる170余隻の水軍は、熊津江に沿って下り、陸上部隊と会合して倭国軍を挟撃した。

白村江の戦い 3

黄山の戦い
 
百済の大本営は機能していなかったが、百済の将軍たちは奮闘し、階伯(かいはく)将軍の決死隊5000兵が3つの陣を構えて待ちぶせた。
新羅側は太子法敏(のちの文武王)、欽純(きんじゅん)将軍、品日(ひんじつ)将軍らが兵5万を3つにわけて黄山を突破しようとしたが、百済軍にはばまれた。
79日の激戦黄山の戦いで階伯ら百済軍は新羅軍をはばみ四戦を勝ったが、敵の圧倒的な兵力を前に戦死した。
 
一方この黄山の戦いで新羅軍も多大な損害を受け、唐との合流の約束期日であった710日に遅れた。唐の蘇定方はこれを咎め新羅の金文穎を斬ろうとした。金は黄山の戦いを見ずに咎を受けるのであれば唐と戦うと言い放ち斬られそうになった。蘇定方の部下が取り成し罪を赦された。
 
唐軍は白江を越えたが、泥濘が酷く手間取った。そこで柳の筵を敷いて上陸、熊津口の防衛線を破り王都に迫った。百済の義慈王は佐平の成忠らの進言を聞かなかったことを後悔した。
712日、唐軍は王都を包囲する。その為、百済王族の投降希望者が多数でた。唐側はこれを拒否した。713日、義慈王は熊津城に逃亡、太子隆が降伏し、718日に義慈王が降伏し、百済は滅亡した。
 
 
百済遺民の抵抗
 
唐の目標は高句麗征伐であり、百済討伐はその障害要因を除去する意味の征伐であった。唐軍の主力が高句麗に向かうと、百済遺民の鬼室福信・黒歯常之らによる百済復興運動が起きた。
 
82日には百済残党が小規模の反撃を開始し、826日には新羅軍の任存(にんぞん。忠南大興郡大興面)への攻撃を防衛した。93日に劉仁願将軍が泗沘城に駐屯するが、百済残党が侵入を繰り返した。百済残党は撃退されるが、泗沘の南の山に45個の柵をつくり、駐屯し、侵入を繰り返した。こうした百済遺民に呼応して20余城が百済復興運動に応じた。その為、熊津都督の王文度も着任後に急死している。
 
唐軍本隊は高句麗に向かっていたので救援できない為、新羅軍が百済残党の掃討を行う。
109日に、ニレ城を攻撃、18日には攻略すると、百済の20余城は降伏した。そして
1030日には泗沘の南の山の百済駐屯軍を殲滅し、1500人を斬首した。
しかし、百済遺臣の西武恩卒、鬼室福信、僧侶道琛(どうちん)、黒歯常之らの任存城や、達率余自信の周留城(スルじょう)などが抵抗拠点であった。
 
倭国による百済救援
 
百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に人質として来日滞在していた、百済王の太子豊璋王(ほうしょうおう)を擁立しようと、倭国に救援を要請した。
 
中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。
661年、斉明天皇は九州へ出兵するも邦の津にて急死した(暗殺説あり)。
 
斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に
任命して全面的に支援した。この後、倭国軍は三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸した。
 

白村江の戦い 2

百済の退廃
百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。654年に大旱魃(だいかんばつ)による飢饉が半島を襲った。しかし百済義慈王は飢饉対策をとらず、その上6552月に皇太子の扶余隆のために宮殿を修理するなど退廃していた。
 
6563月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の成忠(浄忠)が投獄され獄死した。日本書紀でもこのような百済の退廃について「この禍を招けり」と記している。
 
6574月にも旱魃(かんばつ)が発生し、草木はほぼなくなったと伝わる。このような百済の情勢について唐はすでに6439月には「海の険を負い、兵械を修さず。男女分離し相い宴聚(えんしゅう・宴会)するを好む」として、防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していた。
 
6594月、唐は秘密裏に出撃準備を整え、また同年「国家来年必ず海東の政あらん。汝ら倭客東に帰ることを得ず」として倭国が送った遣唐使を洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらないように工作した。
 
この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、大化改新最中の倭国内部でも警戒感が高まった。大化改新期の外交政策については諸説あるが、唐が倭国からは離れた高句麗ではなく伝統的な友好国である百済を海路から攻撃する可能性が出てきたことにより、倭国の外交政策はともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で二者択一を迫られることになる。
 
百済の滅亡
6603月、新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、蘇定方を神丘道行軍大総管に任命し、劉伯英将軍に水陸13万の軍を率いさせ、新羅にも従軍を命じた。唐軍は水上から、新羅は陸上から攻撃する水陸二方面作戦によって進軍した。唐13万、新羅5万の合計18万の大軍であった。
 
百済王を諌めて獄死した佐平の成忠は唐軍の侵攻を予見し、陸では炭峴(現大田広域市西の峠)、海では白江の防衛を進言していたが、王はこれを顧みなかった。
 
また古馬弥知(こまみち)県に流されていた佐平の興首(こうしゅ)も同様の作戦を進言していたが、王や官僚はこれを流罪にされた恨みで誤った作戦を進言したとして、唐軍が炭峴と白江を通過したのちに迎撃すべきと進言した。百済の作戦が定まらぬうちに、唐軍はすでに炭ケンと白江を超えて侵入していた。

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