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新・そば通信
新・そば通信は蕎麦屋さん訪問の記事を中心に蕎麦についてのあれこれを紹介します。

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居酒屋にあっては
例えば、酒についての話だと
客と店主は、カウンターを挟んで対等に話すことができる。
居酒屋に行くくらいだから
酒についての好みや蘊蓄の2〜3は持っているだろう。
魚についても同じことが言えるかもしれない。
だから初めての店でも会話が弾む可能性は高い。
しかし、蕎麦屋となるとそうはいかない。
何よりも、普通蕎麦屋の店主にそんな時間はない。
だから、カウンター式で対面キッチンの蕎麦屋は少ない。
御影の“石庵”や都島の“愚庵”はカウンター式対面キッチンで、
しかも、店主が話好きという稀なケースだと思う。

仮に会話があったとしても、
その内容はどちらかというとカウンターの向こう側の話になり、
客側に余程の知識がないと、会話は弾みにくいのではないか。

健さんなら、
そしてカウンターの向こうに千恵子さんがいるならいざしらず、
一人黙々と酒や肴をいただくというのは、
あまりいい図とはいえないように思う。

私のように一人が原則の人間でもそう思う。
やはり相手(仲間)がいて酒肴+話というのが酒の楽しみ方の王道だろう。

実際私自身、楽しいかと聞かれれば、
だれかさんのように『別に』としか答えようがない。
何かの機会にまた触れることがあるかもしれないが、
人は食事、つまり喰うという行為そのものからは
無意識的に目を背ける傾向があるのではないかと思っている。
だから、他者と食事を共にするということは、
食事という行為そのもから目や意識をそらせる、
つまり一種の『禊』行為を行っているのではないかと思うのだ。

人間が最も嫌うのは、
ハイエナや禿鷹の食事スタイルなのではないだろうか。
つまり口元や体中が獲物の血にまみれ、むさぼり喰う姿。

だからこそ食事に作法やマナー、
強いては文化を持ち込んだのだろう。
だから他者と食事を共にするということは
文化を共有することになる。

となると独り黙々とソバをすするということは
反文化的・反人間的な行為ということになってしまう。
そうならないために、ソバ通と言われる人々は
ソバを食べるにあたって
あぁでもないこうでもないと
口うるさくいうことで
ソバ食の文化的な面を強調し、
人間としての尊厳を保とうとしているのだろうなと
思わないでもない。

女房が東京土産に竹やぶの乾麺を買って来てくれた。
“竹やぶ”が乾麺を作っていることは知っていた。
ご主人の阿部孝雄さんの本に乾麺について記述があった(はずだった)
ところがどんなことが書いてあったのかと
2冊の本を取り出してぺらぺらとめくってみても
気が急いているせいか、その記述が見つからない。
ちょろっと1〜2行触れてあっただけかも知れない。
確か《竹やぶが作るのだからいいものを作りたい》といった
意気込みが書いてあったような気がするのだが…。


イメージ 1

イメージ 2

だからという訳でもないけれど、
いつもは比較的大雑把に堅さを確かめつつ
茹でるのだが、
今回はきっちりと時間を計って茹でることにした。


期待感の現れでもある。


ところが表示されている目安時間の4分半になっても
生茹で状態の堅さがある。
まあ目安だし、鍋も小さいので強力な火力で一気にという訳にはいかないので
プラス30秒で火を止めた。
しっかりと洗って、器に盛ると、どうみてもソバというよりは
細目のパスタのように見える。


イメージ 3

つまり乾麺のときにはしっかりと角がたっていたのが
茹でることでまるく角がとれたようなのだ。
プラス30秒の弊害か
それとも乾麺の宿命か


理由は分からないけれど
ソバは角のたったものがいいといわれる
ソバを食べてきた経験上、否定は出来ない。
でも悪い例外はいっぱいあった。


いい例外は“にこら”くらいだ。


それはともかく見た目パスタのようなソバは
驚くほど食欲が湧かない。


イメージ 4

いやな予感を感じつつ一口、二口と口に運ぶ。


これが“竹やぶ”のソバ?!


六本木ヒルズ店で食べたソバの味わいは微塵もない。
プラス30秒が何の効果ももたらさなかったようだ。
近所のスーパーで売っている乾麺との違いが感じられない。
後日、一袋(60g)のみを1リットル以上のお湯で試してみたが
4分半はおろか5分半、つまりプラス1分も余分に茹でたにもかかわらず
乾麺独特のパサつきと堅さが抜けなかった。


イメージ 5

能書きを読む限り、あり得ない味だが、
能書きとはそういうものだ、と言えばそれまでだ。


“竹やぶ”がこんな(と思うのは私だけだろうか)乾麺を作る意味が
どこにあるのか不思議でならない。
経営の大変さも本には書かれていたが…
 
ソバは三たてといわれるが
私の場合は三ない
つまり打てない、打たない、打ちたくない
なのだけれど、自宅で美味しいソバを食べたければ
この三ないを克服するしか道はないのだろうか。
ちなみに我が家ではたまに金子製麺の石臼粗挽生そば(半生麺)を食べるが、
今のところこれが最高だ。
 
イメージ 6

そのあと番組名は分からないけれど
偶然“来来亭”のサクセスストーリーのようなバラエティ番組をみた。

社長が自分の6,300万円の愛車をニンジンにして
そのモチベーションで社員をひっぱり、
独立開業へと導く。
そして実際に成功した店長(独立自営)達が
何人もでていた。
みんな例外なく高級車で社長宅に集まる。

詳細はわからないけれど、
ロイヤリティをとらないこと、
複数店の経営も可能等々
今までのフランチャイズ店舗展開とは
違った側面も紹介されていた。

その少し前に“慈久庵”を見ていただけに
これは『ラーメン』だからこそできることで『そば』では不可能だろう。
さらにいうなら『ラーメン』でなくても可能かもしれないが、
『そば』では不可能だ、と思わざるを得なかった。

その理由の一つに“その一“で述べた鹿島茂氏のいう
そば(切り)的なベクトルと
ラーメン的なベクトルの違いがあるような気がする。

少なくとも、私が魅力を感じる趣食的な『そば』はそうだ。

『そば』は江戸時代のファーストフードだという言い方がされる。
確かに『駅そば』や『立ち喰いそば』はまさにファーストフードであり、
その限りでは、チェーン展開も十分可能だし、実際そんな“そば店”もある。

将来、経営と調理の大天才が現れて、
趣食的な『そば』とファーストフード的なヌードルそばを融合させた
まったく新しいそば店チェーンが出てくる可能性を否定はできないけれど
気持ち的には出てきて欲しくないというのが正直なところだ。

現に、その兆しを垣間みせる店があるのだけれど、
その店とは、どこがどうとうことはないけれど
そば好きの間では評価が高いにも関わらず、
私自身ソリが合わず評価が高くならないのも
そのあたりに原因があるのかもしれない、と思っている。

わたしが記憶するそばの思い出で
一番古いものは
小学生の高学年のころ、
スキーで宿泊した民宿の炉端で振る舞われた“そば”である。
その太短いそばは、
民宿のお母さんが打ったものだったと思う。
味のことなどまったく覚えていないけれど、
子ども心になぜかもてなされている自分を強く感じた。
尤も子どものころに『もてなし』の何たるかが
分かっていた訳ではないけれど、
なぜか特別の嬉しい気持ちが沸き上がってきたことは覚えている。

そんな記憶をこころの片隅のどこかに留めて半世紀。
突然、ふっと思い出したのだけれど
その記憶は、“そば(切り)”というものの一面を
表現しているような気がする。

そばは特定の人間のために打たれる
ということではないだろうか
そばは、顔の見えない不特定多数を相手には打てないような
面をもっている気がする
(これは勝手なお思い込みだろうとは思う)
つまりそばは“自分”も含め、
個・人に対しての素朴な(もてなし)料理なのではなかろうか。

想像の域をでるものではないけれど
そばを打つ人間は誰か特定の人間の顔。
それは笑顔のような気がするが、
を思い浮かべて打っているのではないだろうか…。
たとえ商売であっても、
そこに原点があるのではないかと思う。

日曜日に“遠くへ行きたい”を見ていたら、
なんとまさに“行きたい”そば店の一つ“慈久庵”が登場した。
東京での繁盛店をたたんで、
ふるさと茨城に新たに店を構えたとのこと。
店主がひとりですべてをこなし、
焼畑農業でそばの自家栽培をしていることなどが紹介されていた。
そばは小麦粉のつなぎが5%入ったもので、
手挽きではなかったが、電動臼での自家製粉だった。
出来上がったそばは見た目においしそうで
ますます行きたくなったのはいうまでもない。
しかしなんといっても遠い。

店主の口から『穀物』という言葉が発せられたのも
私には興味深く思われた。
『そばは不味くなる事はあっても旨くなる事はない。』
だからこそ、原料を厳選していった結果、
今では“焼き畑”という農法での
自家栽培にたどりついたとのこと。

地元の農家も巻き込んで大量に栽培し、
茨城産のそばを広めたいといったようことを語っていた.

原点は子どもの頃の“味”にあるという。
わたしの知り合いで独自の農法を行っている人がいるが
その人も原点は子どもの頃の“味”だという。

わたしにはそんな豊かな“味”の経験はない。
わたしが記憶しているのは素材の味わいというよりは
母の味付けという事になるのだろうか。
実際、母の味に賛辞を惜しまない人はたくさんいる。
ただ人に喜んでもらいたい、
喜ぶ人の顔をみるのが愉しみだった母。
見返りを求めず、そんな気持ちで料理を作っている人間。
まさにそれが“母の味”ということなのかもしれない。
話がそれてしまった。

茨城産のそばを広めたいとは
事業としてではなく、
いわば豊か(だった)な味わいのお裾分けという風に理解した。

求道者のような店主を見るにつけ、
フランス文学者の鹿島茂氏のエッセイを思い出した。

外国人に日本文化の特性を説明する際、
氏はそば(切り)的なベクトルと
ラーメン的なベクトルというサンプルを使うとのこと。

細かなことは覚えていないけれど
そばは決められたルールと定数から逸脱しない制限的で禁欲的な食べ物で、
例としては短歌・俳句・能・狂言・日本画・相撲などがあげられていた。

逆にラーメンはゆるいルールと定数があるだけ(ほとんどないに等しい)で、
あとはなんでもござれ。
歌舞伎・日光東照宮・マンガ・アニメなどがその例であった。

わたしはそれを求心的と拡散的という風に理解した。

まさに“慈久庵”の店主も求心者という印象だった

“そば”はまぎれもなく食物ではあるが
“そば”という人間の《生き方》でもある。
もちろん同様に“ラーメン”という《生き方》もあるわけだが
わたしは“そば”という生き方に心が惹かれる。
あるいは生き方としての“そば”に…というべきかもしれない。

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