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〒781−0262 高知県高知市浦戸城山830番地 坂本龍馬記念館 気付 坂本龍馬 様 ↑ これは、高知市の桂浜にいる龍馬さんの住所らしい・・・。 とは言っても、普段この住所に手紙を送って届くかどうかは謎。 けれど、確実に届ける方法もあります。 それは・・・ 昨年もご紹介した、『 龍馬に誓う年賀状 』 !! 限定3000セットのこの年賀状は、5枚1組。 (昨年は2000セットが即完売だったらしい・・・) そのうち1枚が龍馬さん宛てになっています。 昨年集められた年賀状は、元旦に当神社にて奉納された後、桂浜の龍馬像へと届けられました。 またそれに合わせて様々なイベントが開催され、桂浜は大賑わいでした。 今 年 は 更 に !!! 平成23年3月24日。 龍馬さんが土佐を脱藩した日に『 タイムカプセル 』 にするそう! 更に更に10年後、再び桂浜で開封される予定なんだとか! 夢がぎっしり詰まった年賀状ですね!!! 【巫女】 |
土佐の男に恋をして・・・
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南海忠烈碑の表面・裏面とも修復が終わり、現在ホームページに詳しいことを掲示する準備を進めております。 その中で表面の文は、大島岬神社(現 高知県護国神社)に勤王殉難志士の人たちが合祀に至った経緯が書かれているようです。 その中で注目して頂きたいのは、「土佐未有祠衆相議請干官合祀於大島岬神社在高知縣治之東祭戊辰戦死者之所」です。(写真では分かりにくいかもしれませんが、こういう文が書かれています。) 要するに「戊辰戦争で亡くなった人を祀っている大島岬神社に勤王殉難志士を祀るように」との事なのです。 そこで当神社で発行しました、「高知県護国神社百年史」を開いてみると、第1回の合祀は明治元年に東征の役に戦没した高知藩士104柱と書かれております。 では勤王殉難志士の合祀は?というと、明治14年に80柱、明治22年に5柱が第4回・第6回に合祀されています。 このように勤王殉難志士は亡くなってから随分後に合祀されています。 ところが靖国神社への合祀を見てみると、勤王殉難志士は維新前・維新前後の殉難者の中では先頭となったようです。(以下、秦郁彦著「靖国神社の祭神たち」参照) 明治8年1月 殉難者合祀を府県知事に通達。 明治8年10月 高知県有志の請願書により顕彰すべき80人のリストアップがされる。 明治13年より 高知県有志の請願書→高知県令→内務省→内閣書記官→宮内省→主管参議(閣議)→太政大臣→陸海軍卿へ合祀実施の指令 このような手順で明治14年5月27日には太政官達(合祀実施指令)が出たのだが、実際靖国神社では合祀の祭典が行われたのは明治16年5月の2年後となったようです。 (そこには色々な理由があるようですが、興味深いのは大島岬神社では太政官達の2ヶ月後の明治14年7月27日に合祀されているということです。これは何故?) そしてこの明治16年の合祀以後、明治21年に土佐藩追加5名と長州藩の殉難者、その後明治26年まで殉難者の合祀がされるのです。 薩摩・長州ではなく土佐が先頭に立った。そこには人数が少なかったのもありますが、請願書を提出した高知県有志の努力と県令の素早い対応があったからなのではないでしょうか・・・・私はそう思います。 【権禰宜O】
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偶然にも、岡田以蔵(岡田宜振)の墓前にて命日祭を執り行うにあたり、中心となって計画・実行をなさったというトカジさんが見て下さっており、 『 岡田以蔵 』 というお酒を持ってお参りに来て下さいました。 このお酒は宮司の手によってご神前に奉納させていただきました。 以蔵さんもさぞおよろこびのことと思います。 ありがとうございました。 これもまたご縁ですね。 またお会いできるのを楽しみにしております。 【巫女】 |
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本日は、当神社の御祭神 『 武市半平太命、岡田以蔵 命 、久松喜代馬命』 のご命日です。
特別な祭典などは行っておりませんが、当神社では毎朝午前7時に 『 命日祭 』 という祭典を執り行っており、本日、武市半平太 命、岡田以蔵 命 久松喜代馬命 をはじめ 「 5月11日 」 にお亡くなりになった御祭神のお名前も読み上げました。 さて、武市半平太命や、坂本龍馬命などの志士が高知県護国神社のはじまりである、致道館の社に合祀されたのは明治元年。
岡田以蔵が合祀されたのは昭和58年になってからです。
なぜ、合祀の時期が違うのでしょうか?
今回の 『 土佐恋 』 は岡田以蔵命をご紹介します。
【岡田以蔵について】
「 以蔵の名は土佐勤王党血盟者192名の中にはないが「血盟者以外の勤王党同志人名録」112名の中に近藤長次郎や清岡道之助らと共に名を連ねている。
家は郷士で20石を領した。
武市瑞山道場で一刀流剣術を修業し、安政3(1856)年9月、瑞山に随伴して江戸に出、桃井春蔵に入門して鏡新明智流を修め、帰国後、瑞山に従って九州諸藩をめぐって剣の腕を磨いた。 文久2(1862)年、藩主豊範に従って上京したが尊王攘夷論のうずまく中で、彼は同志と組んで天誅を加えた。スパイ的行動により前土佐藩監察井上佐一郎、幕府の間諜越後浪士本間精一郎、宇郷玄蕃や儒者池内大学、その他を暗殺した。
文久3(1863)年はじめには龍馬のすすめで勝海舟の塾へも一時入門したが、同年の勤王党の獄によって捕えられ、たび重なる拷問に耐えきれず自供し、同志の不利をまねいたとされる。
慶応元年閏 5月11日、武市瑞山は切腹、同志3人は斬首、以蔵は斬首の上、雁切河原に晒された。
28歳だった。 」
岡田以蔵が合祀された、昭和58年11月の 『 維新殉難志士 合祀者 御祭神名簿 』 にはこう記されています。 【武市瑞山に心服し、勤王活動に入る。
独断による暗殺多く除かる。 土佐藩元監察 井上佐市郎を斬る。 藩に捕らえられる拷問の末自白の類同士に及ぶ。 慶応元年5月11日 28歳
合祀を申請不許可の記録あり。
墓所 薊野 真宗寺】 当時、処刑された以蔵はその罪のために藩から合祀が認められませんでした。
しかし、昭和50年を過ぎた頃、高知県退職公務員連盟の中に維新志士の顕彰会が発足され、その総意により、『 岡田以蔵が藩士であることにかわりはなく、その功績を認め、御霊 ( みたま ) を鎮めることが必要である。 』 とみなされ、またご遺族のご要望もあり、昭和58年に合祀されることとなったのです。
辞世の歌
「君が為め 尽くす心は水の泡 消えにし後は 澄みわたる空」。 以蔵はどのような想いで詠んだのでしょうか。
思わず空を仰ぎました。
【巫女】
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当神社の済美館という部屋には、このような額が飾られています。 ちょっと見えづらいですね・・・。 内容を分かりやすくさせていただくと、 『 地を焼くような太陽。 流行る病 (マラリアなどの熱病)。 攻めてくる敵兵を討ち、めぐる歳月。 その中で、忠実なる勇士は 幾万人も殉じる。 不意に拝した停戦の詔(みことのり)を 謹んでお受けし、武器を捨て、激しい悲しみに涙する。
大御心の奥深きことが心と腹の中まで貫かれ、
これは、陸軍大将 山下奉文の遺詠です。悲しみと恨みは限りなく、フィリッピンの空を仰ぐ。 我は何度でも生まれ変わり、 祖国を再興することを誓う。 』 なぜこのような詩が当神社にあるかというと、この方もまた、高知県出身なのです。 【山下 奉文(やました ともゆき)】 (親しみをこめ、「ほうぶんさん」という呼び方もあるようです。) 明治18年11月8日 高知県大豊町に生まれる。 (美空ひばりさんがヒットを祈願をしたという『大杉』で有名な町です。) 陸軍大将 従三位勲一等功三級。 マニラ軍事裁判において昭和21年2月23日 刑死。 指 揮 : 北支那方面軍参謀長 第4師団長 航空総監 関東防衛軍司令官 第25軍司令官 第1方面軍司令官 第14方面軍司令官 昭和28年11月に高知県護国神社合祀。 昭和34年、靖国神社に合祀されました。 時々、この遺詠をお詠みになった方から、 『 意味を教えて欲しい 』 とお声をかけられることがあるので、今日は宮司に読み方を教わりながら一生懸命書いてみました。 今日は詩がメインとなってしまったので、山下奉文大将についてはまた後日、ご紹介させていただきます。 【巫女】
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