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2015年11月15日(日)
連続講座「近江の城郭」第2回『長比城』

現地探訪の前に県文化財保護課の松下浩氏の講座がありました。


◆2、『斎藤道三の登場』
◇斎藤氏の家来の長井氏が勢力をもつようになる。
長井氏は頼芸を擁立し、守護の頼武を越前に追放した。

そして、国盗りの代名詞ともいうべき斎藤道三が登場する。

イメージ 1


◇「六角承禎条書」(永禄3年7月21日)
これは承禎が宿老衆の平井・蒲生・後藤氏などに宛てた条書。
斎藤氏がいかに悪逆なやつか、ということを説明してる。
そのなかに義龍の父道三の記述がある。
それによると、
道三の父の長井新左衛門尉は京都妙覚寺の僧侶で、還俗し西村姓から長井姓になる。
そして、斎藤氏の家臣の長井氏の同族となる。

従来は道三の経歴と考えられてきたが、実際は道三の父の経歴が混じってたと判明した。

ので、守護の頼武を越前に追放したのは父の長井新左衛門尉だったのである。
道三は最初、長井規秀、
弱体化した守護代斎藤家に入り込み斎藤利政と改め、斎藤道三となる。
道三は守護の頼芸を傀儡として実権を握っていく。
そして、さらに守護頼芸も追放し美濃国守となる。

六角承禎は、主君を追い出した道三が領国を奪い取る悪いやつだ、
と言うわけである。


◆3、「六角氏と美濃」
六角氏は当初越前朝倉氏と同じく守護土岐頼武を支援した
しかし、頼芸と和議をし長井氏と協調するようになる。

が、道三が頼芸を追放してしまい頼芸は六角氏を頼った。
頼芸は六角定頼の娘と婚姻し縁戚関係にあったからである。
で、六角氏と道三は反目するようになる。

六角氏と対立する道三は、敵対関係にあった尾張の信長と協調関係を模索、娘を信長に嫁がせた。
この布石を打った後に頼芸を追い出したと考えられる。

一方、六角氏はこの頃幕府の将軍が次々に近江にやって来てその対応に追われ、美濃を気にかける余裕がなかった
だから、戦をしかけるほどの対立にはならなかった。

そして、道三の後は息子の義龍が道三から斎藤家当主の座を奪い取る。
そうなると今度は尾張と美濃が緊張関係になる。

ホンマか嘘かわからないが、信長は道三から美濃を譲るという書状をもらってたので義龍を攻撃する大義名分があった。

信長は、永禄三年の桶狭間の戦いで今川氏を破り東の脅威が取り除かれるといよいよ美濃攻略にとりかかる。

義龍としては近江と尾張の両面が敵となると非常に不利になる。
そこで、今度はあまり協調してなかった六角氏と同盟関係を結ぶことにした。
六角氏側は、湖北の浅井氏が台頭し六角氏を凌ぐ力を持つようになり
浅井氏との対立を有利に進めるためにも斎藤氏と協調したほうが良いと考え、
承禎の息子の義治は義龍の娘を迎えた。
このように斎藤と六角両者の思惑が一致し路線変更となる。

イメージ 2


この路線変更が
「観音寺騒動」の原因となった。
六角氏の居城である観音寺で、義治が重臣の後藤氏を討ち果たした事件。
六角氏の家臣は観音寺を去り主従関係が破綻することになる。
従来の説では勢力の強かった後藤氏を弱体化させるためと言われてるが、実際は後藤氏は忠実な家臣だった。
それよりも義治と父の承禎との反目があった。
義治に付けられた宿老衆が承禎に付いて、義治は思うように政務を行えない。承禎に対する反発が後藤氏に向けられた。



◆4、『織田信長の登場と近江』
同盟関係を結んだが、結局美濃は信長のものとなり六角氏はなんの役にも立たなかった。
それはつまり、六角氏自身の内紛でそんな余裕が無くなってた。

信長は浅井長政にお市を嫁がせ浅井氏を家臣化させるための布石を打った。
さらに六角氏には上洛にあたって協力要請をした
しかし、六角氏は拒否したので、観音寺を攻める。
六角氏は退去し、信長の支配地となる。
もし、六角氏が信長に協力したなら信長配下でそのまま生き残れたかもしれない。

その後、浅井氏も倒され近江国は信長の勢力に入るのである。

Φ(*^ひ^*)Φ
近江守護としてのプライドがある六角氏、軍事力・家臣統率力が無かったが、
どうしても信長の前にひざまづくことはできなかったのだろうね。

講座は以上です。

この後、午後に長比城探訪、山登りしました。




Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
昨日、奈良県の砂かけ祭りを見学しました。
前から後ろから砂をいっぱい浴びましたわ…。

現地に行く途中の電車内。
隣に我が輩よりも年長の女性が座った。
鞄からコピー用紙を取り出してなにやら読んでます。

気になるので、チラッとのぞきこんだら

な、な、なんと!
『鹿背山城』の解説書でした。
木津川付近にある山城で松永久秀ゆかりの城跡です。

以前、テレビで千田学長が縄張り図作成の見本の城として紹介されてたが、
山の上にあるし、交通アクセスも悪く、難度高い山城なのでまだ行けてない。


この女性は今から登りに行くのだろうな。
一人なのか、探訪会に参加するのか?

いずれにしても
ウ〜ン悔しい!

チラッと、じゃなくて真剣に横からのぞきこみ指くわえて
解説を読むだけの我が輩でした…。

いつか登るぞ!

β《#^ひ^#》でヒヒーン

2015年11月15日(日)
連続講座「近江の城郭」第2回『長比城』

現地探訪の前に県文化財保護課の松下浩氏の講座がありました。

ちょこっと紹介

◆1、『美濃の戦国史』
◇南北朝動乱の活躍で土岐頼貞が美濃守護となる。
孫の頼康の代に美濃・伊勢・尾張の三国守護になった。
が、有力守護の力を削ぎたいという幕府(足利義満)の政策として土岐康行の乱後、伊勢と尾張は切り離され結局美濃国のみとなる。
Φ(*^ひ^*)Φ
近江佐々木氏が京極・六角など4つに分家したのも室町幕府の関与があったと言われてます。

◇その後、幕府の弱体化に伴い守護代が台頭、
美濃は富嶋(としま)氏と斎藤氏が勢力争いを繰り広げ、勝利した斎藤氏が守護代としての地位を確立した。
斎藤妙椿、養子の妙純の時、勢力を増して隣国とかかわってくる。
折しも応仁の乱が始まる。

イメージ 1


土岐成頼、斎藤妙椿は西軍に付く。
近江では京極氏が東軍、六角氏が西軍だったため
六角氏支援のため近江に進攻、東軍の京極政経・多賀高忠を攻撃した。
息子の妙純の時は異母兄利藤と争い、利藤は六角氏に亡命。
妙純は近江へ出兵、利藤を追討した。

これらの争いはあくまでも領内の勢力維持のためであって隣国を脅かす、近江を攻めとるという類いのものではない
せいぜい小競り合い程度であった。
隣国の争乱とかかわり協調関係を築き自国の安定をはかるものである。
さらに妙純は娘を朝倉氏に嫁がせ朝倉氏とも連携をはかった。


◇そんななか、守護土岐氏は後継者争いを展開する
成頼の子政房と元頼が争う。
政房には妙純が、元頼には父の成頼が付く。
結局、政房・妙純が勝利。
イメージ 2


この戦いを船田合戦(1494〜6)という。
元頼方の石丸利光は近江に逃亡し六角氏の支援を受け再起をはかる。
が、撃退した。

その後、妙純はこの戦いで味方となった京極高清の求めに応じて六角高頼追討のため近江に進攻、緒戦を勝利するものの決着つかず和議を結び美濃に撤収。
その途中で土一揆勢に襲撃されて戦死した。

ありゃま!ですな

この戦死で、以後斎藤氏の勢力は衰退していき、
美濃国内がまたまた混乱することに。

◇守護土岐氏は政房が当主となるが、その後継として子の頼武(よりたけ)と頼芸(よりなり)が争う。
越前朝倉氏の妻をめとった頼武が朝倉氏の加勢を得て勝利、
守護になります。
[image:4]
が、この戦いはここで一件落着とはいかないのである。

Φ(*^ひ^*)Φ
幕府の力が弱くなると
自国内の内紛は隣国にも波及するようになる。
他国領主を巻き込んで自分達の勢力維持をはかろうとする。
お互いに血縁・地縁を頼り有利な隣国の領主を取り込むのである。
そのためには、同盟関係も簡単に変化する。
そんな時代だったんですね。


その2に続く


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
画像が載ったり載らなかったりうまくいかない
投稿するのいやになってきた…。

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
昨年の花燃ゆは見てるうちに何度もあくびしたり退屈だったことあるが、
今回の真田丸は今のところ楽しんで見てる。
視聴率が若干下降気味。
だからといって、昨年のように脚本家を途中で何度も変えるとかわけのわからないことをしない
でね。
家康が軽すぎてイメージ狂う?
いいじゃないの!

面白ければそれでいいです。
歴史好きさんが少しでも増えればいいのです。

歯舞は、はぼまいと読むのです…。


β《#^ひ^#》でヒヒーン

2016年01月10日(日)
安土城考古博物館連続講座
講師、中井 均(滋賀県立大学)

講座内容を紹介。
例によって我が輩の個人的感想を織りまぜてるので
鵜呑みしないように!

◆『秀吉の城の伝播』
☆戦国大名毛利氏は吉田郡山城から広島城へ(天正17年)。
その構造は聚楽第と同一。
本丸の角馬出し、隅に天守。

イメージ 1



↑聚楽第

↓広島城

イメージ 2



☆戦国大名長宗我部氏は岡豊城から大高坂城(高知城)、浦戸城へ。
浦戸は狭くて城下町をつくれる広さが無いにもかかわらず、城を移した。
石垣、瓦、天守台の存在。秀吉の技術支援があったのではないか?

いずれも山城から海岸へ進出。
毛利氏や長宗我部氏が秀吉の築城技術を取り入れて真似したと思ってたが、
これは秀吉が命令して築城させたのではないか?
朝鮮出兵を睨んで西日本の海岸に築城させた、と考える。




◆『瓦からみた信長の城と秀吉の城』
金箔瓦は誰でも使用できるわけではない
☆信長段階の金箔瓦は、信長の城と子息のみに許された。
安土城、岐阜城(信忠)、松阪の松ヶ島城(信雄)、伊勢神戸城(信孝)

長浜城から金箔瓦が出てない
信長自身の城じゃないから。


☆秀吉段階の金箔瓦は、
1、秀吉と一門の城
大坂城、聚楽第、伏見城、肥前名護屋城、
大和郡山城(秀長)、八幡山城・清洲城(秀次)。
関東に移された徳川家康領に接する城、
中山道→松本城、小諸城、上田城
甲州街道→甲府城
上州街道→沼田城
東海道→駿府城

家康に対する金箔瓦包囲網だとか?

Φ(*^ひ^*)Φ
びっくりポンや!
う〜ん…。


2、唐入り道の城と寺社
興隆寺(向日市)、離宮八幡宮(八幡市)、高槻城、岡山城、広島城、厳島神社、小倉城

聚楽第から九州に向かう通り道(西国街道)に位置する。

仙台城や山形城からも出てるが、これは関ヶ原以後のもの。

それだけに、佐和山城や水口岡山城から金箔瓦が出土したら困る…。

Φ(*^ひ^*)Φ
ぶっひゃっひゃー!



3、『滴水瓦』(てきすいかわら)←中国や朝鮮の瓦
日本の瓦は軒と平瓦の角度が直角、
朝鮮の瓦は120〜130度の瓦、軒の先端は逆三角形(滴水瓦)
朝鮮出兵に参戦渡海した大名の居城に使われた
加藤清正(熊本城)、小西行長(麦島城)、蜂須賀家政(徳島城)、浅野幸長(和歌山城)、加藤嘉明(松山城)など。

イメージ 3



滴水瓦のほとんどがお城から出てくる。
日本の直角の瓦にも真似して使われるようになる。

Φ(*^ひ^*)Φ
名古屋城天守は現在鉄筋コンクリートで復元されてる。
これは戦後復興の象徴として建てられた。
だから、木造に建て替えるのは反対だとおっしゃってた


最後に南九州の豊臣城塞化として、飫肥城・佐土原城、
そして、余談として志布志城の話があった。

いずれもGWに訪問する予定なのでグッドタイミング!
ナイスでした。

しかし、調べれば調べるほど南九州は交通が不便、
車じゃないとロス多すぎて回れない…。



Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
今朝の冷え込みで、昨日の雪がガチガチに。
雪道より恐い凍結路です。

九州や南国地方にとっては観測史上初の大雪&積雪だったようですが、
我が地方は拍子抜け!

毎年これくらい普通に降るがな。
水道も凍結しなかったし、30センチの積雪ならどうということ無い

何が40年ぶりや?

学生時代、この雪が2週間ほど毎日降ったわ!

名神高速のチェーン規制のバイトでぎょうさん稼いだなあー

今日は上天気、雪もかなり溶けたなり。


今年の冬もおわり!

明日からまた春の陽気か?

β《#^ひ^#》でヒヒーン


2016年01月10日(日)
安土城考古博物館連続講座
講師、中井 均(滋賀県立大学)

※適当に意訳してるので鵜呑みしないように!

◆『秀吉の城の最新情報』
☆大坂築城、平地に築かれた大土木事業
特に遠隔地から石を運搬し積むという作業は後の近世城郭に大きな影響を及ぼす
ただし、豊臣期の石垣は近場から採取した色とりどりのバラバラの石が大部分で織田期を継承してる。
現在見られる大きな石垣は徳川期の石垣。

☆山の上の詰城と居館という二元的構造から、防・住が一元的に集約される。
二段構造の本丸は表空間と奥空間を設ける
これも後の近世城郭に受け継がれる

☆山里丸の出現→城郭という軍事的空間に侘びの空間を創設した。
聚楽第・伏見城・肥前名護屋城など。

Φ(*^ひ^*)Φ
山里丸は姫路城にもありますな

「現在の大坂城は徳川期のもの。
太閤さんの城ではない。」

これを強調されてました!

秀吉の城跡としてまともに遺構が残ってるのは肥前名護屋城のみ。
他はみな壊されてしまった。

確かに肥前名護屋城は素晴らしかった
建物復元せずあのまま残しておいてほしいです


☆秀吉居城の発掘調査
大坂城→本丸詰の石垣再調査、三の丸外堀の堀障子
聚楽第→本丸の南辺石垣
伏見城→指月伏見城の石垣、木幡伏見城の残存状況、
少しづつ判明してきてる。
倭城の縄張り調査と発掘調査も進んできた。
倭城の技術が松山城、米子城へ受け継がれる

Φ(*^ひ^*)Φ
彦根城の登り石垣は倭城の影響と言われてますね。
彦根城学芸員さん、韓国の倭城のいくつかを見に行った、とおっしゃってた

大坂城は6月まで
多聞櫓(たもんやぐら)・千貫櫓(せんがんやぐら)・焔硝蔵(えんしょうぐら)の内部が特別公開されてます。

櫓の内部はどこでも一緒で、特別見るべきものがないが
狭間や窓から城内外の様子を見られるのがいい。

彦根城でも佐和口多聞櫓は無料公開されてる。
内部から登城道や水堀を眺めると、見張りの武者になった気分になれる。
いいものですよ。

聚楽第、伏見城に関しては後日の講座で別の講師が詳細発表されるので、今回は触れられなかった。

その3に続く


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
伏見城の講座、昨日聴講した。

感想はやめときます…。

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
市内の商店街から手紙が届いた

どうせまたセールの案内だろうと思いつつ開封すると

な、な、なんと!

抽選で近江米10kg当たりました


と、書いてある

昨年末に買い物シール集めて応募したのが当たったのです。


早速その引換券を持って昨日もらって来ました!


お年玉年賀ハガキでは切手シートが3枚当たったし
今年は春から縁起がいいわい!


というか、今年の運を使い果たした?

後はバチが当たらないことを願うのみ…。

β《#^ひ^#》でヒヒーン


2016年01月10日(日)
安土城考古博物館連続講座
講師、中井 均(滋賀県立大学)

講座内容を紹介。
例によって我が輩の個人的感想を織りまぜてるので
鵜呑みしないように!

◆『はじめに』
信長の城、秀吉とその一門が築いた城を
織田と豊臣の頭文字を合わせて
「織豊系(しょくほうけい)城郭」という

その特色は石垣・瓦・礎石建物、
近年の調査で信長以前の城でこれらが残る城跡が増えてきた

この3つの要素をさらに特定化して

石垣は「高石垣」
瓦は「金箔瓦」
礎石建物は「天主・天守」

この三つが揃った最初の画期的な城が
安土城であった!

◆『信長の城の最新情報』
☆小牧山城→主郭周囲に巨石を用いた2段、3段の段築の高石垣があった。
「佐久間」の墨書は割普請を示すものかも?

瓦は出土していない

☆岐阜城→山城(高石垣)と山麓信長居館に石垣、
各屋敷地に庭園がある。
瓦が出土、飾瓦のみ金箔

安土城は軒瓦すべて金箔

☆☆これにより安土城の石垣築城の発想は小牧山城や岐阜城がもとになってる。
安土城石垣は近江の穴太の導入と言われてるが、小牧山・岐阜城の技術を用いたと考える

行方不明になってるが、安土城から発見された「惟住」の墨書石は割普請の証拠かも?

安土城の入口、大手にある家臣団屋敷「伝羽柴秀吉邸」は信長の山麓居館と考える。

Φ(*^ひ^*)Φ
ちなみに伝前田利家邸は安土絵図にのってなくて、なんで前田邸跡と呼ばれるようになったのかわからない、ということです。

伝羽柴秀吉邸は上下二段構造、昨年の千田学長の説では
上下2段は別々の屋敷で1対ではない、とか?

だから、これら大手付近の屋敷跡は信長の山麓居館だと想定。


☆☆☆小牧山城・岐阜城と同様に
天主・本丸御殿と山麓居館(=伝羽柴邸)という二元構造。

というわけで、安土城は高石垣・金箔瓦・天主という3つの要素をもつ城である。
ただし、縄張りは山城的なものがあり、戦国的城郭を脱することはできなかった。

その2に続く


Φ(*^ひ^*)Φ
本年最初の講座、しかも中井教授なので
急いで早く行きました。

が、すでに駐車場満杯!

なんとか駐車して会場に入れた

しかし、

定員オーバーで入れなかった人は一階のロビーで講座のライブビデオを見るという事態になったそうです!

中井教授の人気、恐るべしですな。


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
昨日は初積雪で2回雪かきした。
ええ、運動や!
いや、重労働やわ。

今日は暦の上で大寒

この週末はさらに大寒波が来るとか?

やっぱり冬だったんですな

あーさぶー!

β《#^ひ^#》でヒヒーン


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