安土城考古博物館で、
近江源氏に関する連続講座が始まりました。
早速、第一回目を聴講。
2018年12月1日(土)
『戦国期京極氏守護領国における近江と出雲』
講師、西島太郎氏(松江歴史館)
前回の考古学講座と違ってこの講座は人気が高いので、早めに行った。
とはいえ、紅葉真っ盛りのこの時期だから、多少少なめかな?
と、思ってたが、
到着したら駐車場満杯。
会場は大入り満員。
最後の方の人は、資料のレジメ無し、補助椅子、という盛況。
いやぁ、びっくりポンの賑わいでした。
はるばる松江から来てくれた西島氏、実は長浜市高月町出身。
だから、京極氏と尼子氏のことが気になっていて研究されてたそうです。
NHKのブラタモリ松江編の案内役として出演されて、現地では有名人になったとか?
その知名度もあって、今回参加者が増えたのかもね。
学芸員にとってブラタモリは、
飛躍するための踏石ですな。
では、内容をちょこっと紹介。
※我が輩の見解も混じってるので鵜呑みしないように。
【守護京極氏】
初代の高氏(京極道誉)は、
近江、飛騨、出雲、隠岐の4か国の他に上総国も領国となった。
が、その後
六角氏が近江守護となったため、
実質上、京極氏は飛騨・出雲・隠岐の3国の守護でした。
近江守護は少しだけ。
応仁の乱が勃発すると、
持清の子の政経・材宗が東軍、
高清が西軍となり、京極家は内戦となる。
勢力地盤も政経は出雲を本拠とし、
高清は北近江が本拠となった。
材宗はしきりに高清を攻撃した。
六角氏も協力し優勢だったが、
高清は、管領細川政元の協力を得て撃退。
1515年、和睦成立。
これにより
材宗は、北近江から撤退した。
その後の近江京極氏は、
守護ではあるものの、
北近江は浅井氏が実質上の執権となった。
【出雲の京極氏】
当時、松江は湿地帯。
京極氏の本拠は、国府があった中海沿岸の安国寺付近だったそうです。
ちなみに安国寺には後の京極高次の墓もある。
江戸時代、松江藩主の京極忠高は、
出雲における菩提寺として父高次の供養塔を若狭から移した。
それは出雲京極氏の本拠地だったという根拠の示唆となる。
ともかく、
月山富田城に行く時は安国寺に立ち寄らねばならないですな。
それまで京にいた京極氏、
戦国時代になると近江と出雲に分かれて現地に在住するようになった。
出雲の京極氏は、出雲にいながら、北近江京極氏に対抗した。
そして、軍事動員は尼子・多賀氏がおこなったようです。
なお、飛騨国の守護は、出雲から離れてるため、尼子経久の時期に放棄された、と想像される。
【近江尼子氏】
出雲尼子氏に関しては有名であるが、近江尼子氏はどうだったのか?
京極高秀(道誉の子)の庶子の高久が尼子氏の祖。
高久の子の詮久が近江尼子氏の祖となり、詮久の弟の持久が出雲尼子氏の祖となった。
近江尼子氏は、犬上郡尼子郷を拠点とした。
管領細川高国が近江に逃れた時、尼子氏が京極高清への取次をしている。
つまり、幕府と京極氏の橋渡しをする存在だった。
さらに、近江尼子氏の与力の土田氏(多賀町付近が本拠)が尼子氏の名代として六角氏に仕えた。
観音寺城には土田屋敷があった。
なので、近江尼子氏は次第に六角氏に使えるようになった。
一方で、領地の犬上郡は、浅井氏と六角氏の境目に位置し、
北近江の嶋氏が土田氏との縁戚関係だったので、尼子氏は浅井氏と良好な関係を維持する。
ここで、重要な役割を果たしたのが、
『寿松』
近江尼子氏の娘と言われるが、
真偽不明。
寿松は浅井亮政の側室となり浅井久政の生母となる。
側室の子でありながら、久政が浅井当主となれたのは寿松を通じて犬上郡の尼子氏を味方にする狙いがあった。
当初、浅井氏は六角氏に攻められて危機感があった。
尼子氏は六角氏の家臣でもあり、浅井氏にとっては六角氏との取次の点でも役に立つと考えたのでは?
尼子氏の代々の通字である「久」が浅井久政に採用されたという点でも寿松が尼子氏一族の女性だった証拠と言える。
また背景として出雲尼子氏の影響もあるのでは?と想定されてます。
というのは、当時出雲尼子氏は全盛期で、中国地方8か国の大領主。
浅井氏は、六角氏と対抗するために出雲尼子氏の協力を得たいと考えたのでは?
だから、寿松は近江尼子氏じゃなくて出雲尼子氏の出身という可能性もあり得る。
1540年、出雲尼子氏一門が竹生島造営の勧進に奉賀した記録が有名ですが、これは竹生島信仰に深く帰依した寿松による近江と出雲と関係を考える資料とも言える。
そして、1566年、寿松と久政が弁財天像を奉納した。
なお、この奉納の後、
出雲尼子氏の月山富田城が落城、尼子義久は毛利氏に降伏する。
一方、浅井氏は久政→長政へと全盛期を迎えます。
後に近江の六角氏を滅亡させた織田信長は、京極氏を京極殿と呼び、その配下として浅井氏と尼子氏、高島七氏を位置づける認識だったそうです。
この尼子氏は出雲尼子氏と考えられる。
【出雲尼子氏滅亡後の尼子氏】
尼子勝久が尼子再興の闘いをするが、毛利氏に敗れ、信長を頼る。
しかし、上月城の戦いで勝久自刃し出雲尼子氏は断絶する。
その後、
関ヶ原の戦いでは、
京極高次が大津城に籠城した。
この時、高次の家臣として城兵の名前に尼子外記があり、西軍の立花の陣に夜討ちした。
大津城開城後、京極高次は高野山の小坂坊に住んだ。
小坂坊を京極家の永代宿坊にする申し入れの連署状には、
尼子外記、尼子忠兵衛、尼子勝右衛門の3名の名前があった。
さらにその後の
京極高次→忠高→高和の代の分限帳にも尼子氏の名があり、京極家家臣として存続した。
しかし、京極氏が讃岐丸亀城主となった時には尼子氏の名前が消えた。
伊予に居住する佐々木家文書に尼子郷の領地に関するものがたくさん残されてるので、
近江尼子氏は、京極氏が丸亀に移った時に京極氏から離れて伊予に移ったのかも?
一方、出雲尼子氏は、尼子義久以後の系統が佐々木氏と改姓して長門国へ移り毛利家臣になった、と考えられる。
おまけとして、
【江戸時代の京極氏と出雲国】
堀尾氏の後に入った
京極忠高は、出雲・隠岐さらに石見国の2郡を預り26万4200石の大大名になった。
それまでの若狭小浜・敦賀11万3500石から倍以上の領地を得た。
忠高は、『若狭土手』という大土手を造成した。
斐伊川流域は、上流のたたら製鉄のために下流に砂がたまり、水位が高くなって氾濫を繰り返した。
そこで、幾筋もあった川筋を一本にして大川にした。
それまで、鉄山に対しては砂を下流へ流さないように禁制していたが、忠高はこの禁制を解除。
砂を流すことを認め、鉄山開発を進めたため殖産工業が盛んになった。
一方、その砂対策のための大土手を斐伊川沿いに造り下流の新田開発も促した。
この一挙両得の大土手が若狭土手として現在も残っていて当時の京極家の土木技術の高さを示すものとなっている。
忠高は、石見・銀山も支配した。
これは、佐々木源氏京極家の血統の良さによるもので、江と初を通じて将軍家と縁戚関係にあったのも関係してるとか?
しかし、名君と言われた忠高は、出雲に入ってわずか3年で急死。
堀尾氏と同じく断絶の危機となるが、名家ということで
播磨龍野に6万石として存続が許された。
この6万石は、大津城の時の石高と一緒。
初心に戻ってやり直せという意味があったとか?
で、この後讃岐丸亀6万石として明治維新を迎えました。
以上、かいつまんで紹介しました。
Φ(*^ひ^*)Φ
江戸時代、京極氏が小浜から出雲に移されたのは、
室町時代以来の本来の領地に戻れた、と言えますね。
領民も親近感を持ったのでは?
出雲、松江城といえば堀尾氏や松平不昧公が有名ですが、
尼子氏と京極忠高のこともお忘れなく!
久しぶりに月山富田城にスタンプ押しに行かねばならない。
前回は10年ほど前だったかな?マイカーで行きました。
あの時、寿退社された女性から餞別としてもらったお洒落なハンカチを富田城の本丸跡に落とした。
あの大事なハンカチを探さねば!
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
日曜日、京都へ行きました。
ベッキーが京都から丹波篠山まで街道を歩いた、
というテレビ番組を見たので、
ベッキーが歩けるなら我が輩も!
ということで、
丹波口から丹波街道を歩いた。
紅葉が最後の見頃なので
桂離宮に立ち寄った。
桂離宮は、八条宮智仁親王(正親町天皇の孫)が別荘として建てた。
紅葉見頃。
さすがに絶賛の庭園でした。
庭園の池に天の橋立がある。
これは、智仁親王が正室の京極常子を慰めるためにつくった。
常子の父は京極高知で、丹後宮津城主だったからです
守護大名の正統が戦国大名として生き残れた京極氏は、全国的にも極めて稀有な例なのです。
上桂から苔寺、鈴虫寺を通り
松尾大社まで足伸ばしたため、
神社は早くも来年です
結局、街道歩きは桂川までしか行けなかったが…
丹波街道と言えば、明智光秀ですよね。
再来年の大河ドラマまでに福知山城まで行きたいけど…。
て、この前
丹波街道じゃなくて
丹後街道を歩くと言ってたのは
どこのドイツや!
と、言われそう…。
ε=ε=(ノ≧馬≦)ノ