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井伊家の4屋敷

先頃、井伊家の古文書を読んでたら
次のような記述があった。

『江戸の大名小路で火災があった。
しかし、
井伊家の4屋敷は無事だった』

北西風が強くて大名小路のほとんどの建物が類焼したが、井伊家の屋敷は大丈夫だったという報告が江戸から彦根に届いたのです。

東京の地理には全く不案内の我が輩、位置関係がよくわからないが、
ともかく井伊家の屋敷は風上にあったようです。

で、その4屋敷をネットで調べたら、
上屋敷、
中屋敷、
下屋敷2つ

この4つだったそうです。

下屋敷の1つは明治神宮付近。
残りの3つの屋敷は、桜田門の南のほう。
ざっくばらん、で申し訳ない。
全く検証してない…

位置はともかくとして、
上中下の3つ屋敷全部、

なんと、驚いたことに、
改易された加藤清正の屋敷だったそうです。

いやぁ、びっくりポンです!

どういう繋がりでこの加藤屋敷を3つとも拝領することになったのか?
そのいきさつが気になりますね。

さらに、加藤屋敷を拝領する前はどこに屋敷があったのか?

ネットで調べたが、これは出てこない。

誰か調べてほしいものです。


それはともかくとして、
将来江戸城の百名城スタンプ押しに行くことがあれば、この4屋敷跡に行かねばなるまい。


馬《●▲●》助ヒヒーン♪
安土城考古博物館で、
近江源氏に関する連続講座が始まりました。
 
早速、第一回目を聴講。
2018年12月1日(土)
『戦国期京極氏守護領国における近江と出雲』
講師、西島太郎氏(松江歴史館)
 
前回の考古学講座と違ってこの講座は人気が高いので、早めに行った。
とはいえ、紅葉真っ盛りのこの時期だから、多少少なめかな?
と、思ってたが、
到着したら駐車場満杯。
会場は大入り満員。
最後の方の人は、資料のレジメ無し、補助椅子、という盛況。
 
いやぁ、びっくりポンの賑わいでした。
 
はるばる松江から来てくれた西島氏、実は長浜市高月町出身。
だから、京極氏と尼子氏のことが気になっていて研究されてたそうです。
NHKのブラタモリ松江編の案内役として出演されて、現地では有名人になったとか?
その知名度もあって、今回参加者が増えたのかもね。
 
学芸員にとってブラタモリは、
飛躍するための踏石ですな。
 
では、内容をちょこっと紹介。
 
※我が輩の見解も混じってるので鵜呑みしないように。
 
 
【守護京極氏】
初代の高氏(京極道誉)は、
近江、飛騨、出雲、隠岐の4か国の他に上総国も領国となった。
 
が、その後
六角氏が近江守護となったため、
実質上、京極氏は飛騨・出雲・隠岐の3国の守護でした。
近江守護は少しだけ。
応仁の乱が勃発すると、
持清の子の政経・材宗が東軍、
高清が西軍となり、京極家は内戦となる。
 
勢力地盤も政経は出雲を本拠とし、
高清は北近江が本拠となった。
材宗はしきりに高清を攻撃した。
六角氏も協力し優勢だったが、
高清は、管領細川政元の協力を得て撃退。
 
1515年、和睦成立。
これにより
材宗は、北近江から撤退した。
 
その後の近江京極氏は、
守護ではあるものの、
北近江は浅井氏が実質上の執権となった。
 
 
【出雲の京極氏】
当時、松江は湿地帯。
京極氏の本拠は、国府があった中海沿岸の安国寺付近だったそうです。
ちなみに安国寺には後の京極高次の墓もある。
江戸時代、松江藩主の京極忠高は、
出雲における菩提寺として父高次の供養塔を若狭から移した。
それは出雲京極氏の本拠地だったという根拠の示唆となる。
 
ともかく、
月山富田城に行く時は安国寺に立ち寄らねばならないですな。
 
それまで京にいた京極氏、
戦国時代になると近江と出雲に分かれて現地に在住するようになった。
 
出雲の京極氏は、出雲にいながら、北近江京極氏に対抗した。
 
そして、軍事動員は尼子・多賀氏がおこなったようです。
 
なお、飛騨国の守護は、出雲から離れてるため、尼子経久の時期に放棄された、と想像される。
 
 
【近江尼子氏】
出雲尼子氏に関しては有名であるが、近江尼子氏はどうだったのか?
 
京極高秀(道誉の子)の庶子の高久が尼子氏の祖。
高久の子の詮久が近江尼子氏の祖となり、詮久の弟の持久が出雲尼子氏の祖となった。
 
近江尼子氏は、犬上郡尼子郷を拠点とした。
 
管領細川高国が近江に逃れた時、尼子氏が京極高清への取次をしている。
つまり、幕府と京極氏の橋渡しをする存在だった。
 
さらに、近江尼子氏の与力の土田氏(多賀町付近が本拠)が尼子氏の名代として六角氏に仕えた。
観音寺城には土田屋敷があった。
 
なので、近江尼子氏は次第に六角氏に使えるようになった。
 
一方で、領地の犬上郡は、浅井氏と六角氏の境目に位置し、
北近江の嶋氏が土田氏との縁戚関係だったので、尼子氏は浅井氏と良好な関係を維持する。
 
ここで、重要な役割を果たしたのが、
『寿松』
近江尼子氏の娘と言われるが、
真偽不明。
寿松は浅井亮政の側室となり浅井久政の生母となる。
側室の子でありながら、久政が浅井当主となれたのは寿松を通じて犬上郡の尼子氏を味方にする狙いがあった。
当初、浅井氏は六角氏に攻められて危機感があった。
尼子氏は六角氏の家臣でもあり、浅井氏にとっては六角氏との取次の点でも役に立つと考えたのでは?
 
尼子氏の代々の通字である「久」が浅井久政に採用されたという点でも寿松が尼子氏一族の女性だった証拠と言える。
 
また背景として出雲尼子氏の影響もあるのでは?と想定されてます。
 
というのは、当時出雲尼子氏は全盛期で、中国地方8か国の大領主。
浅井氏は、六角氏と対抗するために出雲尼子氏の協力を得たいと考えたのでは?
 
だから、寿松は近江尼子氏じゃなくて出雲尼子氏の出身という可能性もあり得る。
 
1540年、出雲尼子氏一門が竹生島造営の勧進に奉賀した記録が有名ですが、これは竹生島信仰に深く帰依した寿松による近江と出雲と関係を考える資料とも言える。
 
そして、1566年、寿松と久政が弁財天像を奉納した。
 
なお、この奉納の後、
出雲尼子氏の月山富田城が落城、尼子義久は毛利氏に降伏する。
一方、浅井氏は久政→長政へと全盛期を迎えます。
 
 
後に近江の六角氏を滅亡させた織田信長は、京極氏を京極殿と呼び、その配下として浅井氏と尼子氏、高島七氏を位置づける認識だったそうです。
この尼子氏は出雲尼子氏と考えられる。
 
 
【出雲尼子氏滅亡後の尼子氏】
尼子勝久が尼子再興の闘いをするが、毛利氏に敗れ、信長を頼る。
しかし、上月城の戦いで勝久自刃し出雲尼子氏は断絶する。
 
その後、
関ヶ原の戦いでは、
京極高次が大津城に籠城した。
この時、高次の家臣として城兵の名前に尼子外記があり、西軍の立花の陣に夜討ちした。
 
大津城開城後、京極高次は高野山の小坂坊に住んだ。
小坂坊を京極家の永代宿坊にする申し入れの連署状には、
尼子外記、尼子忠兵衛、尼子勝右衛門の3名の名前があった。
 
 
さらにその後の
京極高次→忠高→高和の代の分限帳にも尼子氏の名があり、京極家家臣として存続した。
 
しかし、京極氏が讃岐丸亀城主となった時には尼子氏の名前が消えた。
 
伊予に居住する佐々木家文書に尼子郷の領地に関するものがたくさん残されてるので、
近江尼子氏は、京極氏が丸亀に移った時に京極氏から離れて伊予に移ったのかも?
 
一方、出雲尼子氏は、尼子義久以後の系統が佐々木氏と改姓して長門国へ移り毛利家臣になった、と考えられる。
 
 
おまけとして、
【江戸時代の京極氏と出雲国】
堀尾氏の後に入った
京極忠高は、出雲・隠岐さらに石見国の2郡を預り26万4200石の大大名になった。
それまでの若狭小浜・敦賀11万3500石から倍以上の領地を得た。
 
忠高は、『若狭土手』という大土手を造成した。
斐伊川流域は、上流のたたら製鉄のために下流に砂がたまり、水位が高くなって氾濫を繰り返した。
そこで、幾筋もあった川筋を一本にして大川にした。
 
それまで、鉄山に対しては砂を下流へ流さないように禁制していたが、忠高はこの禁制を解除。
砂を流すことを認め、鉄山開発を進めたため殖産工業が盛んになった。
 
一方、その砂対策のための大土手を斐伊川沿いに造り下流の新田開発も促した。
この一挙両得の大土手が若狭土手として現在も残っていて当時の京極家の土木技術の高さを示すものとなっている。
 
忠高は、石見・銀山も支配した。
これは、佐々木源氏京極家の血統の良さによるもので、江と初を通じて将軍家と縁戚関係にあったのも関係してるとか?
 
しかし、名君と言われた忠高は、出雲に入ってわずか3年で急死。
 
堀尾氏と同じく断絶の危機となるが、名家ということで
播磨龍野に6万石として存続が許された。
この6万石は、大津城の時の石高と一緒。
初心に戻ってやり直せという意味があったとか?
で、この後讃岐丸亀6万石として明治維新を迎えました。
 
 
以上、かいつまんで紹介しました。
 
 
Φ(*^ひ^*)Φ
江戸時代、京極氏が小浜から出雲に移されたのは、
室町時代以来の本来の領地に戻れた、と言えますね。
領民も親近感を持ったのでは?
出雲、松江城といえば堀尾氏や松平不昧公が有名ですが、
尼子氏と京極忠高のこともお忘れなく!
 
 
久しぶりに月山富田城にスタンプ押しに行かねばならない。
前回は10年ほど前だったかな?マイカーで行きました。
あの時、寿退社された女性から餞別としてもらったお洒落なハンカチを富田城の本丸跡に落とした。
あの大事なハンカチを探さねば!
 
 
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
 
日曜日、京都へ行きました。
 
ベッキーが京都から丹波篠山まで街道を歩いた、
というテレビ番組を見たので、
ベッキーが歩けるなら我が輩も!
 
ということで、
 
丹波口から丹波街道を歩いた。
 
紅葉が最後の見頃なので
 
桂離宮に立ち寄った。
 
桂離宮は、八条宮智仁親王(正親町天皇の孫)が別荘として建てた。
紅葉見頃。
さすがに絶賛の庭園でした。
 
庭園の池に天の橋立がある。
これは、智仁親王が正室の京極常子を慰めるためにつくった。
常子の父は京極高知で、丹後宮津城主だったからです

守護大名の正統が戦国大名として生き残れた京極氏は、全国的にも極めて稀有な例なのです。

 
上桂から苔寺、鈴虫寺を通り
 
松尾大社まで足伸ばしたため、
神社は早くも来年です
 
結局、街道歩きは桂川までしか行けなかったが…
 
丹波街道と言えば、明智光秀ですよね。
再来年の大河ドラマまでに福知山城まで行きたいけど…。
 
て、この前
丹波街道じゃなくて
丹後街道を歩くと言ってたのは
どこのドイツや!
 
と、言われそう…。
 
ε=ε=(ノ≧馬≦)ノ
 

馬《●▲●》助ヒヒーン♪
現在、博物館では
『キミそっくりな古代人がいたよ』
というヘンテコリンなタイトルの特別展が開催されてます。


それにともなう講座が11月17日(土)があり、聴講しました。

この時期の休日はお出かけシーズンなので、さすがに満員御礼とはいかないけど根強い古代ブームもあり、そこそこの入りでした。


講座のタイトルは
『人物埴輪のイレズミと岩橋千塚』
講師は、

和歌山県立紀伊風土記の丘資料館主査学芸員

瀬谷今日子さん。


別名キョンキョン!
いや、我が輩が勝手に名付けたのですが…。

年齢は、三十路後半。
あと少しで四十路?


キョンキョン、わざわざ和歌山県からはるばる来てくれました。
安土駅に降り立ち、思わず飛び出した一言は、
「寒〜」


和歌山県は南国だから、さもありなん。

年齢も年齢なのでキツそうなスーツ・スカート姿ですわ。

というか、
講座の最中ずっと
髪の毛を左側に寄せたり、元に戻したり、耳の後ろに寄せたり、
この繰り返し!

髪の毛無い我が輩に対する当て付けか!

そんなに気になるなら髪の毛ショートにしたらどないやねん?

資料館勤務ですが、館内での事務は後回し、通常は古墳発掘現場に入り浸りの状態だそうで、
さらに休日は主婦業で忙しい。
そんなわけで、自分の身なりに気をつかう暇もない考古学女子さんのようです。

考古学女子といえば、小牧山城跡発掘で今や押しも押されぬ人気者となった小野友記子主査さんも、
本来は古代の遺跡調査が専門。


考古学女子さんは、可愛い系が多いですよね。
て、我が輩の主観ですが…。


ということは、
午後の講座にも関わらず眠らずに講師さんの顔ばかり見てたんかい!


という突っ込みが入りそうなので、



ちょこっと、内容を紹介。

まずは、展示会のチラシの画像

イメージ 1



イレズミ埴輪が2体

と思ったが、実はこれ裏表が顔の両面人物埴輪(国重文)。
イメージ 2




表も裏も顔の埴輪は、国内初めてだとか?
顔のイレズミには
「← 鼻→」が刻まれてる。
この矢印は羽根を表現してるらしい。
矢羽根かな?

出土した場所は
和歌山市の紀伊風土記の丘、
『岩橋(いわせ)千塚古墳群』国史跡
和歌山県の古墳の半分ぐらいがこの丘に集中してるそうです。
古墳群の中の「大日山35号墳」(前方後円墳)
の西側の造り出しから出土した。

西側は、このような首ばかりの埴輪ばかり。
イメージ 3





一方、東側の造り出し部は、胴体ばかり出土した。

ならば、一体を2つに分けて古墳の両側に埋めたのか?
と考えられますよね。

そこで、重ね合わせたが、
合う組み合わせが1つも無かった。

つまり、別々に首と胴体の埴輪が造られた、ということになる。

どんな意味があるのか?
謎ですな。

弥生時代、全国で顔にイレズミされた埴輪が出土してるが、
実は、畿内が空白地域になってる。
※ちなみに、和歌山県・滋賀県は畿内ではありません。

現在、イレズミというとマイナスイメージ、反社会的という意味で、
イレズミした外人さんが温泉に入れないなどと、
物議がかもされてますが、
このイメージは江戸時代以降の文化に起因してる。

古代では、
馬など動物を扱う人、海人など非農業的な人、武人男性などがイレズミをしてた。

イレズミは特定の職掌集団の象徴として彫られた。

で、弥生時代の人面埴輪の分布と海部(安曇氏など)の分布を重ねてみるとほぼ合致する。

古代のイレズミは刑罰や習俗というよりも
特定の集団を表す表現だったようです。

これらのことから、
ヤマト王権と特定集団との支配、非支配の関係を示唆する説もある。


イレズミの模様は、羽根の他に髭をあらわすものもあり、
また時代差、地域差もいろいろ。

イレズミ埴輪の出土は5世紀頃から近畿地方周辺から始まり、6世紀頃から関東方面が増えていく傾向にある。

さらに、イレズミと紋様のパターンと地域との関連について詳述されたが、
ここで説明するのは難しいので割愛します。


イメージ 4



気がついたらあっという間に一時間半の講座が終わりました

たまたま偶然、何の思い込みもなく受けたが、非常に有意義な講座でした。

全国の城跡は、古墳跡と重なる部分が多い。

先日訪れた大依山古墳群、小谷城の近くの雲雀山古墳群、虎御前山古墳群など、合戦の陣地として改変されたりしてます。

古墳群巡りもいいんじゃないでしょうか?

遠いけど紀伊風土記の丘に行きたくなりましたよ。

講座の最後に、スーツ姿の講師さんの足元を見たら、
オシャレと遠遠いくたびれた土色のリュックがありました。

考古学女子さんは、
やっぱり髪の毛を後ろにくくり、作業ズボンを履いた姿が似つかわしい

と、思いました。



Φ(*^ひ^*)Φ
講座の後、
博物館の敷地を散策した。

イメージ 5



イメージ 6

外縁部は自転車道、遊歩道として整備されていて、
通路はカエデ並木になってる


イメージ 7



イメージ 8

紅葉とイチョウ

イメージ 9



イメージ 10



イメージ 11
ここは観音正寺、観音寺城への登山口

すこし奥まで入ったが、時間も時間だし、何よりも山に登る格好じゃないので
引き返しました

イメージ 12

イメージ 13
山の上は観音寺城

イメージ 14
今や消滅危機にある余呉型民家が移設されてます

イメージ 15

人混みが嫌な方は隠れた紅葉スポット

安土城博物館へお越し野洲!

考えてみたら百名城の安土城と観音寺城、二つがすぐ隣り合わせにあるなんて
凄いですな。

古墳ファンの方は近くにある
『安土瓢箪山古墳』は、県内最古最大の前方後円墳で、
入口の紅葉は圧巻ですよ


馬《●▲●》助ヒヒーン♪
10月23日は平日ですが、
市内で、滅多にない記念シンポジウムが開催されたので参加しました。

正式な表題は、
『アイコフォート国際会議in彦根
記念シンポジウム』

サブタイトルは、
「城廓の世界史-アジア・ヨーロッパ世界と彦根」

難しい講演会ですわ。

アイコフォートというのは、
城塞軍事遺産国際会議と、翻訳されてます。

毎年、世界各地で開催されてるのですが、アジアでは今回我がひこにゃん市が初開催なんですって。

この記念すべき会議が開催されたのは、
彦根城を世界遺産にするための企画の一貫です。

彦根城の世界遺産登録申請は、十数年前におこなわれたが、いまだに登録されず、
後から申請された富士山や長崎などに追い越されて、
もういい加減申請あきらめたほうがいいのでは?
と、我が輩は思ってるのですが…。

内容は世界の城廓ということなので
市民としては少しぐらい協力せねば、と思い参加しました。

さすがに国際会議ということで、
黒っぽいスーツ姿の人がたくさん来てます。
外人さんもいます。
普段着の我が輩は、場違い?
せめて上着だけでも着て行くべきだったかな…

会場に入ると、
イヤホンを渡されました。
外人さんの話を日本語や英語に同時通訳してくれる代物ですわ。

使い方の説明が無くて弱りましたよ。

……………………………………………………………………………………

【講演会の内容ちょこっと紹介】

●開会の辞、大久保貴彦根市長

●挨拶、河野ICOMOS会長とミラグロスICOMOS会長

●基調講演、中井均滋賀県立大学教授
『日本近世城郭の本質的価値−普請と総構−』
江戸時代の幕府の法令では、各藩は城の堀、土塁、石垣などの普請に関しては幕府に届けて許可を得なければならない。
一方、天守などの建築物は、元通りにするための修理ならば、届け出無用。
藩主御殿に関しては記述なし。
つまりどこに御殿を建ててもお構いなしというわけ。
幕府にとっての大きな脅威は「土木」だということ。

大坂の陣で外堀を埋めたら豊臣家滅んだ。
名古屋城も総構えの縄張りにする予定だったが豊臣家が滅んで脅威がなくなり、総構えの建設を中止した。

彦根城は、総構えで外堀の遺構の一部が今も残っていて外堀土塁も国特別史跡に追加された。

天守などの建築物よりも縄張りの重要さを強調されました。


●二コラフォシェール(エクス=マルセイユ大学教授)
『ヨーロッパの城郭と都市』
日本の城は殿様が真ん中にいて、逃げられないようになってる。
ヨーロッパの城は川のそばにあり、川から逃げられる。
城郭の中央に住民が住み、兵士は城の外縁部に配置されて町を守る。

五稜郭のような多角形の城は大砲対策。死角を無くす形。
収容人数に応じて形を変える。例えば4000人以上収容する場合は八角形になる。

●松本慎二(南島原市教育委員会)
『島原天草一機と原城』
原城は世界遺産に登録されたが遺構は破壊されて往時をしのぶことができない。
天草一揆の時に幕府軍が駐屯した陣地跡が原城の手前の丘陵に今も破壊されずにいくつも残ってる。
赤外線航空探査で古絵図そのままの遺構が確認できた。
現状は藪の中にあるので見学は無理。
整備して見学できるようにしたい。

この他に、韓国と中国の教授がそれぞれ自国の城郭について述べられた。
詳細は省略。

というか、
レジメ、資料が全く用意されなかったので、ここに書けない…

……………………………………………………………………………………



記念にもらったこの分厚い冊子、
横文字なのでさっぱりわかりません。
画像をみると中国か韓国の城のようなので、その紹介本かな?
と思いますが…。

我が輩にとっては豚に真珠
とりあえず部屋に飾っときますわ。

今日は、一般向けお披露目で
もっと濃い研究者向けの学術の発表は、
二日目、三日目にありました。

有料だし、
我が輩は研究者ではないので参加せず。

というか、五時間も座ってたら疲れました。

ま、そんなわけで
彦根城が世界遺産に登録されるかわからないけど、
国際会議が地元で開催されたのは
誇るべきですな。

今回、嬉しかったのは
南島原のお城に関するこの冊子。

いつか島原の城跡巡りするつもりなので、これは役に立ちます。

これが本日の大きな収穫でした

Φ(*^ひ^*)Φ
ちなみに、シンポジウムの模様が夕方のNHKローカルニュース滋賀版で取り上げられました。
客席も撮影されたが、
残念ながら、我が輩は写ってなかった。
いい席に陣取ったのですが…。

ともかく、国宝天守に関しては姫路城に勝てない。
どうやって姫路城との違いを示せるかが世界遺産登録のためのカギになりますわ。


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

滋賀県の戦争遺跡

東近江市、道の駅愛東マーガレットステーション近くの
滋賀県平和祈念館で
「戦争遺跡分布調査報告会」があります。

■開催日時
2月18日(日) 13:30〜15:00
■演題・講師
「滋賀県戦争遺跡の調査から」 
講師:中井均氏(滋賀県立大学教授)
「米原機関車避難壕の測量調査」 
講師:杉山佳奈氏(滋賀県立大学大学院生)
■会場
滋賀県平和祈念館 2階 研修室(東近江市下中野町431)
■参加費 無料
■定員 80名(当日先着順、申込不要)
■詳しくは
滋賀県平和祈念館0749-46-0300へお電話いただくか当館ホームページをご覧ください。
■滋賀県平和祈念館ホームページ

Φ(*^ひ^*)Φ
以前紹介したことあるが、
中井教授は戦国時代のお城研究者です。
と同時に戦争遺跡にも携わっておられます。
ま、明治時代以前であれ以後であれ、城跡も戦争遺跡ですよね。

昨年度、滋賀県内の戦争遺跡を調査されたそうです。
中世城郭調査と同じ要領で調べたのかな?

戦争遺跡の代表といえば、
広島原爆ドーム。
世界遺産に登録するために直前に無理やり国史跡にした、といういわく付き。

原爆ドームですらこの調子だから
ましてや全国各地の戦争遺跡で、史跡保存されてる遺跡はきわめて少ない

年々、戦争遺跡は消滅してます。
この危機感で急きょ調査されたのかも?

古墳を改変して陣地や城跡に、
さらに城跡を改変して陸軍陣地に、
というように、近代の戦争遺跡も歴史の積み重ねの結果なのです。

戦争のおかげで
名だたる国宝の名城天守がことごとく壊されたぞ!
と残念がってる人も多いのでは?

確かに先の大戦は無謀でした。
大東亜戦争は、最初の好調な時点で講和していたらあんな悲惨なことにはならなかった。

政治力のある人物がいなかったのが敗因。
軍人だけのイケイケだけでは勝てないのです。

この反省と現在の硬軟混ぜ混ぜの北朝鮮のやり方を見れば、今の日本はどうすべきか?
もっと深く考えるべきだと思う。

すんません、脱線しました。



『米原機関車避難壕』
イメージ 2

「米原」という文字をみるとつい米国原潜を思い浮かべてしまうが、
まいばらですよ。
イメージ 3

米国の爆弾による被害対策として
米原市岩脇地区に機関車避難壕がつくられました。

戦後、このほら穴はごみ箱になってました。
しかし、地元の岩脇地区の人達が保存に立ちあがり、綺麗に整備してくれました。
現在、見学できるようになってます。
その避難壕を
中井教授の指導のもとで学生さんが調査されたようです。

どんな構造だったのでしょうか?気になりますね。

少しでも興味ある方は参加してみてくださいまし。

我が輩も行きたいが、
当日は別の予定がある。

う〜ん残念無念!


〓〓〓大河ドラマにちなんで〓〓〓


彦根城博物館で、井伊家文書が紹介されてました。
その中に
『西郷隆盛の挙兵・彦根城攻撃計画』関連の書状がありました。
イメージ 1

西郷隆盛が述べた計画は、

『薩摩藩軍勢255騎と大銃4挺を大坂で準備。
老中間部詮勝が京都で、もし暴政をおこなったら、
すぐに伏見に進軍!
土佐藩・長州藩とともに間部を打ち払い、
さらに、沢山城(佐和山城)に押しかけ、一戦で落城させる。』

『この時、赤鬼(井伊直弼)は彦根の軍勢の多くを関東に出兵させていたので
沢山はもぬけの殻なので簡単に落とせる。
尾張も味方する』

という内容です。

結局、この計画は書状を書いた鵜飼父子が井伊家に捕らえられたため
露見し、西郷は井伊家から危険視され薩摩に逃げることになります。

これ、大河ドラマで取り上げてくれるかな?

無理だろうな…。
 
それはともかくとして、
この書状には、『沢山城』が出てくるが、
彦根城は出てこない。

江戸時代初期、
彦根城築城後も井伊家は『佐和山衆』と全国的に認識されてた。
彦根の知名度は低かった。
と、言われてます。

しかし、幕末の頃には佐和山よりも彦根城のほうが一般的な知名度は高かったと思われるだけに
ちょっとびっくりポンです。

なぜなのか、ちと考えてみた

※彦根城にとって佐和山城は一番の弱点。
西郷どんは、佐和山を占領すれば勝ったも同然という考えで、「沢山」と言ったのか?
『大銃』は大砲のことだと思う。
佐和山から彦根城に向けて大砲をぶっぱなすつもりだったのだろうか?


※西郷隆盛は石田三成を評価してたので、佐和山に思い入れがあったからこの表現になった、とも考えられないこともない。

さて、どうなんでしょうかねえ?


なお、博物館の解説では、
幕末まで沢山城(さわやまじょう)が全国的な知名度だったかも?
あるいは、
危険な内容なのでぼやかす必要があり彦根城じゃなくて沢山城と書いた

と、説明されてます。


う〜ん…。


β《#^ひ^#》でヒヒーン

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