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馬秀のすけのブログ
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"2019年4月6日(土)
中山道歩きの続きは、美江寺駅から再スタートとなる。
近江国内の洩れは無くなったのでこれからは心置きなく、ひたすら東へ向かうのみ。
とはいえ、本日は絶好の天気でお花見日和☀️
街道歩きする前に、花見をすることにした。
あの有名な国の天然記念物『根尾薄墨桜』、まだ1度も見たことない。
今回はまたとないチャンス!

10時前、大垣駅に到着。
JRのホームに接続されてるので、改札口を出なくても乗り換えられる。

ホームに切符売場があり、終点の樽見まで買う。

920円也。
この時期は「桜ダイヤ」で、増便になってる。
二両編成でほぼ満員。
始発なのに座れない。

11時過ぎ、終点の樽見駅到着。

徒歩15分ほどで、薄墨公園に。

『薄墨桜』

いやぁ、これは凄い!
樹齢1500年以上。
日本三大巨桜。

こんな大きな桜を生で見るのは初めて!
噂に違わず壮大です。
ちょうど満開で良かった、良かった。

生ビールと小籠包で花見。

再び樽見駅に戻った。
たくさんの人が並んでる
隣の水鳥駅までの切符を買おうとしたら、駅員が『最終はどこで降りますか?』と聞いてきたので、
「美江寺駅」と答えたら、
水鳥駅で途中下車できると言うので、美江寺までの切符を買った。

740円也。

13時45分、『水鳥駅』で下車。

水鳥は、「みどり」と読む。
樽見鉄道の駅名は難読が多い。

1891年の濃尾地震(マグニチュード8.0)の震源地がここなんです。

6mも隆起した根尾谷断層を見ることができる。
東海地域の死者7000人以上だとか?
我が滋賀県も震度5〜6だったらしい。

地下観察館に入った。

500円也。
正直言って500円は高すぎると思ったが、震災復興支援のつもりで支払った…
タモリさんは来たことあるのか?

そして、次の電車で本来の目的地の美江寺駅に向かった。

下車する時におばさんのグループが運転手と揉めてる。
ワンマン運転なので、切符を運転手に渡すのだが、おばさんが持ってた切符は、途中下車前途無効。
運転手が『下車できません』と言う。
おばさんは、『切符を買った時に駅員が途中下車できる、と言った』
おそらく、おばさんは終点の大垣駅行きの切符を買ったのだろう。

運転手、『どこの駅員がそんなこと言ったのですか?』

そんなやり取りがあって、
キレたおばさんが、
『もういいわ、ここで降ります』と言って運転手に切符を渡して降りようとしたら、
運転手が、『わかりました。
可哀想なので今回は例外で認めます』と言って切符をおばさんに戻してました。

思うに、駅員と運転手との間で意志疎通ができてなかったのでは?

切符を売りたいために、樽見駅の駅員が大盤振る舞いで途中下車有効と言ったのではなかろうか?

JRなら絶対にあり得ないが、
地方の私鉄ならある程度何でもあり、でいいんじゃないですか?

というか、樽見鉄道は、
休日限定の1日乗り放題フリー切符を販売すべきだと思う。
特にシーズン中は、その方が会社も利用者も便利だと思いますよ。

なお、おばさんグループは美江寺のサボテンを見に行ったそうです。


我が輩は、美江寺駅から次の河渡宿まで中山道を歩きました。

昼にビール飲んだのでキツかった…


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
土曜日に、JRハイキングで醒ヶ井駅裏にある兜山に登った
イメージ 3
石灰岩がいたるところにゴロゴロある石灰岩山です

イメージ 1
↑2筋の竪石垣らしき構造物がある。
『竪石塁』と呼んでいて、古代朝鮮式山城あるいは中世山城の遺構ではないか?
と言われる。


イメージ 4
神籠石は九州に多い。
近江にある理由が無い。

イメージ 2
高地性集落跡?
烽火台跡?

うーん…

謎が謎を呼ぶ環状列石群です。

地元の保存会が綺麗に整備されてるので、登りやすい。
登山口は、醒ヶ井駅の北側、遠回りして天野川を渡り、多和田の大宝神社横にある。
ただし、湿った夏はヒルが多いので、塩必須です。


馬《●▲●》助ヒヒーン♪
2017年2月19日

松尾山を無事下山。
ちょこっと史跡巡りをすることにした。

『脇坂安治陣跡』
イメージ 1
小谷城出身、賤ヶ岳七本槍に名を連ねた人。
合戦当時は洲本城主でした。
西軍から東軍に寝返ったが、合戦前から内通していたため戦後は大洲城主になってます。



『藤下若宮(とうげわかみや)八幡神社』
イメージ 2
壬申の乱で敗死した大友皇子を祀る。
イメージ 3
本殿は桃山様式の建物。

そして、
イメージ 4

『藤古川(ふじこがわ)』
イメージ 5
滋賀県の川の98%は琵琶湖に注ぐため淀川水系の1級河川です。
これに対して藤古川は、伊吹山系から京極氏の上平寺城を経て県境を越え、伊勢湾に注ぐ。
木曽水系の1級河川。
琵琶湖に注がないという点では異端児の川です

中山道を西から来て、川を越えると登り坂になる。
「大木戸坂」と呼ばれてます

イメージ 6
土塁の痕跡?

これより不破の関所内。
坂の頂きに
「西城門」

不破の関の中ではここが一番重要な関門。
大木戸があったのでしょうね。

古代、鈴鹿関・愛発関とともに三関は、天武天皇が治安維持のために設けた。

吉野を脱出した大海人皇子は美濃に向かい近辺の兵を固めて不破路を閉鎖、
この後、大友皇子の西軍を破り天武天皇となりました。
反乱者から立場が変わった天武天皇は、
この壬申の乱での自分の教訓をもとに三関を設置。

普段は、兵士が通行をチェックするだけだが、
天皇崩御や非常事態の時は関所を閉鎖。
都からの逃亡者や反乱の情報が東国に向かわないようにせき止めるのが重要な関務となりました。



『伝関守跡』
イメージ 7
伝なので、不確定。

不破の関が撤廃された後、中世になると関銭を徴収するための関所となりました。
坂の頂きの西城門付近で、一番見晴らしのよい場所です。
イメージ 8

庭に芭蕉の句碑がある
イメージ 9

「秋風や藪も畠も不破の関」

堅固を誇った不破の関も芭蕉の頃には荒れ果てた地になっていて、
秋風が物悲しい、
などと解釈されてます。

高台に
「不破関資料館」100円←滋賀県では考えられない値段
イメージ 10
ここでちょこっと昼食休憩。

施設内のパンフレットに関跡の見学コースマップがあったので、
早速探索することにした。

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イメージ 13

民家の裏、私道と思われる道を進む

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周囲は畑

『不破関関庁跡と兜掛石』
イメージ 14
普通の石の塊ですわ

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この畑に掘立柱、瓦葺きの建物があったようです
イメージ 16

街道に戻り、

『東城門跡』
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ここまでが、関所の範囲ということになる。
どんな門があったのだろうか?

近くには福島正則陣跡がある
イメージ 18

真っ直ぐ南に向かうと
『鍛冶工房跡』
イメージ 19
ここが関所の東南隅。
発掘調査で、工房跡と中世の銭(関銭?)が発見された

この畑の延長線上に南限土塁があった。
イメージ 20

この先へ行きたいが、雪が残ってる私有地の畑の中を進むわけにはいかない

引き返し、集落の中を右往左往し
ようやく見つけました
イメージ 21

『南限土塁跡』
イメージ 22
南北間432mだと確定した。
低いけど、当時はもっと高い土塁だったろうね。

♪南風や 南限土塁 畠の横


次は北に向かいます
東山道の東城門跡から真っ直ぐ北上したいが、道がない
イメージ 23
なので、一旦国道21号線に出て
西へ向かい南へ下がる

位置的にはこの竹やぶの中に東限土塁跡があるはずなのだが、
イメージ 24
たぶん私有地だし、断念した

♪東風吹かば 竹藪分けて 見せてくれ


北限は東海道線を越えます
イメージ 25

実はこの付近もかなり迷って近くの民家の人に聞きました
イメージ 26


そして、

『北限土塁跡』
イメージ 27
8世紀の構築と確認されてます。
藤古川から西に460mの長さの土塁だった

現状2mの高さです
イメージ 28

横がお墓なので現在まで残ったのかな?

雪でぬかるんでるが、奥へ進む

イメージ 29

東北のコーナーです
北限&東限になる
ここに望楼があったらしい
発掘調査で土師器と和銅開珎が発見された。

イメージ 30
この延長線上に東限土塁が続いていたのだろうね。

※なお、良い子は土塁の上に登るのはやめましょう。
貴重な史跡を壊さないように!

♪北風や 墓が守る 不破土塁

元にもどって
南を向くと線路の先に、入れなかった東限の竹やぶが見えます


♪不破土塁 JR線路が 貫いた

イメージ 31

最後に一句

♪雪薮や つわ者どもが  不破の跡

というわけで、
不破の関所の範囲を確認できました



以上でブラタモリ

もとい

ブラ馬秀、古関探訪おしまい!

今回はお城編じゃないよね…。

その3に、つ、づ、く〜!



Φ(*^ひ^*)Φ
出世法師直虎ちゃんから
年賀状の返信が来ました

イメージ 32

浜松出世の館にこの葉書を持っていけば、記念品がもらえるそうです。

期限は今月末まで。

18切符もう無いので行けないわ…。

β《#^ひ^#》でヒヒーン



2016年7月18日(月)海の日

15時53分、
そろそろ帰らねばならない

が、島津豊久の墓だけ参ることにした

チョイと南下、

イメージ 1


 井之内バス停に
旧伊勢街道、墓所の看板が!

イメージ 2


 しばらく行くと
『瑠璃光禅寺』

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 豊久公墓所と書いてある

イメージ 4


 しかし、境内の中にそれらしい石碑も供養塔も墓も見当たらない

イメージ 5


 お堂の中に位牌か何かあるのかもしれないが、
わざわざ見せてもらうのも気が引けるので退散

地図には豊久墓と書いてあるし別の所にあるのかな?
と思い、

イメージ 6

 さらに南下、


「西山」地区まで来た。
道はだんだん狭くなるし
これより先は霊仙の山の中に入ってしまうようだ。

仕方ないので今回はあきらめる

いつか、島津退き口探訪でもあればその時に参加すればいいわ…。

で、引き返す

しばらくして、
見つけたのが
『上多良火葬場跡』

イメージ 7


 明治以後の上多良地区共同火葬場でした

ありゃま!

坂を下り大きな交差点に来た。

イメージ 8


 そばに「上多良公民館」があり、ここでトイレ休憩

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 と言っても閉まってるので、裏のほうで適当に…。

ふと、交差点の反対側を見るとなにやら看板発見!

もしや?

と思って近づいたら

な、な、なんと!

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 『島津豊久の墓』の看板

最後の最後にようやく見つけました

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 解説板によると、
やっぱり瑠璃光寺に位牌があるようです。
ここは、「カンリンヤブ」という林で、「島津塚」と呼ぶ。

イメージ 12


 薄暗い林の中を入っていくと

いくつか石碑があり、

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15


 鳥居には「白菊大?」の額。
白菊稲荷のことだと思う。

イメージ 16


 カナカナカナカナ…と蝉の鳴き声が
大きく響きわたり、
ちょっと感傷的なりました。


なお、宝暦治水に参加した薩摩藩士の中には蒲生(薩摩)出身のものがいて、工事の暇をみては牧田の戦死地を訪れ先祖の供養をしたそうです。

合掌!


イメージ 17

牧田川、河岸段丘



とりあえず満足して帰りました

おわり。


Φ(*^ひ^*)Φ

台風来て、空気が入れ替わった。
ひんやりしてきた。
とりあえず、我が地方被害無くて良かった。
県南部は大変だったようですが…。

大河真田◯、
石田三成と大谷吉継の最期シーン

あっという間に終わった

もう少しなんか描いて欲しかった…。

でも、やっぱり最期シーンはジーンときますな。

β《#^ひ^#》でヒヒーン


西高木家陣屋跡その3

2016年7月18日(月)海の日

15時25分、『宮バス停』

イメージ 1

 今回はマイカーで来たが、大垣駅・関ヶ原駅からバスで行けます。
イメージ 2


 バスの本数はまぁそれなりに、あります…。

『東高木家陣屋跡』

イメージ 3


 土蔵が残ってます。文政年間の建物。
なまこ壁ですね。

イメージ 4

 伊勢街道の石碑。
石垣が残ってます。

イメージ 5


 奥がいい感じなので向かったが、ロープでとうせんぼ!

しかたなく、
引き返し伊勢街道をチョイと歩く。

江戸時代、高木家は旗本だが、交代寄合として知行地の多良屋敷に居住、大名と同じく参勤交代をおこなった。

高木三家は二家(北と東家?)と一家(西家?)が隔年で参勤、
4月中旬に東海道を江戸へ、
6月初旬に中仙道を多良へ帰る。
江戸在府は約45日ほど。
西家は総人数約80人、北と東家は約50人だったそうです。

参勤交代、行きと帰り、道を変えたのですね。

江戸での待遇は一万石以上の大名並み。
ちなみに春に訪れた美濃不破竹中陣屋の竹中氏も交代寄合でした。

なお、高木家は大坂夏の陣後、治水などの普請役を課せられ、
木曽三川普請見回りを勤めた年と翌年は参勤交代を免ぜられた。

イメージ 6

 この石垣は北高木家陣屋の遺構かな?
違うかも…。

日の丸発見!

イメージ 7

 そうでした、今日は祝日(旗日)でした。

最近、祝日に日の丸旗立ててる家見かけなくなった。
我が家も玄関の柱に旗を立てる筒があったのですが…。
遺憾に思います。

北高木家の陣屋跡よくわからないので、
資料館の方へ引き返しました

伊勢街道沿いに
『宝歴暦治水の日向松』

イメージ 8

御手伝普請を終えた薩摩藩士たちが、水奉行の高木家陣屋に植えた松、今は一本だけだが、昔は松並木になってたそうです。

海津の千本松と同じ種類。
それにしても、わざわざ故郷の宮崎の松を植えるなんて!
費用と労力大変だったろうね。

『多良小学校跡』

イメージ 9

 この崖の上に資料館があります。
イメージ 10

陣屋は河岸段丘の上の要害です。

春に訪れた柳生陣屋を思い出した。
今年は陣屋跡を3つも回ったぞ!

資料館に戻り車で伊勢街道を南へ向かいました。

『大神神社』

イメージ 11

 「おおみわ」と読みます。
道が狭いのでこの神社の駐車場で対向車をやりすごす。

イメージ 14





さらに、南下、
『八幡神社』

イメージ 12


 『松貞山本堂寺』
ここに、
「舛屋伊兵衛顕彰碑」

イメージ 13


 水奉行の高木三家、美濃の木曽為替水系だけの担当だったが、宝永2年から美濃・伊勢・尾張の巡見役をつとめ、供人数約30名引き連れて歩き回ったようです。
宝暦治水では、薩摩藩の惣奉行平田靭負の切腹が有名ですが、
高木家では、西高木家の家来で現場監督の内藤十左衛門が工事が指図通りおこなわれなくて責任をとって切腹した。

なんで、うまくいかなかったのか?
それは幕府が、現場人足を地元の百姓請けでやれ、と命じたからです。
専門の土木業者の請負はダメ!
これは地元の救済事業だから村人をこきつかえ、というわけです。
老若男女だれでもOKだったとか?
当然ながら素人の集まり、能率あがらず、無駄が多い。
宝暦4年4月14日、薩摩藩士2名が切腹した。
理由は不明だが、だいたい想像できますな。

4月22日、堤の一部に欠陥を見つけた内藤十左衛門は
現場人夫を取締る庄屋に直すように命じたが、横着者で言うことを聞かない。
郡代に相談しようと思っているうちに工事が完了した。
このままだと、幕府目付にみつかって高木家の責任問題になるかもしれない。
ので、責任とって切腹したのでした。

5月、6月の雨期になると、洪水発生!
せっかく修復してもまた決壊、
疫病も発生、薩摩藩では病死者16人、自殺者38人に及んだ。

そして、9月からの油島の堤防はさらに難工事!
幕府の方針もなかなか決まらず評定が繰り返され、
遅々として進まず、

東高木家の家来の舛屋伊兵衛は難工事の原因は水神の怒りによるものだと思い、自分が人柱になり、濁流に身を投じた。

翌年3月、なんとか工事完成。
しかし、薩摩藩の総奉行平田靭負は工事の責任をとって自刃しました。

合掌!


昔のお役人はみんな責任感強かったのですね。


江戸時代、尾張は徳川義直が領主となる。
木曽川は西に備えるための重要な地点として、
犬山から弥富まで木曽川左岸約59キロを堅固にした。
これが「お囲い堤」。
で、対岸の美濃側はお囲い堤より3尺低くせよ、として
美濃側に高い堤防を築かせなかった。

このため水量が増えれば、必ず美濃側が決壊、
慶長から宝暦までの140年間に美濃の洪水は110回だったという。
徳川御三家の御威光には逆らえず、みな泣き寝入りの連続だったようです。

で、洪水のたびに農民が工事の嘆願を繰り返す。
幕府は復旧工事のため御手伝普請を16回おこなった。
最初に命令されたのは、二本松藩。

そして、宝暦三年(1753)将軍家重は、薩摩藩に御手伝い普請を命じた。
その後も長州萩藩、鳥取藩、福岡藩、富山藩など、次々に命じます。

どれもこれも木曽三川とは全く関係ない遠方の外様ばっかり。

イジメや!


この怨みが幕末維新の原動力になったのかもよ?…。


その4に続く

Φ(*^ひ^*)Φ

9月6日は、父の六回忌でした。
晩年、ガンと認知症で入退院を繰り返す日々でした。

元気な頃は「他の人ができることは自分もできる」が信条で、なんでもトライする人でした。

NHKテレビ、ぶらタモリでタモリさんが八木港でタライ舟を操ってました。
あれ、ホントに難しいんですよ!
我が輩も昔挑戦したが、運動神経0だからどうにもならなかった

父は器用にうまく操ってましたよ。

運動神経や器用さ、行動力は我が輩に遺伝しなかった…。

β《#^ひ^#》でヒヒーン


西高木家陣屋跡その2

2016年7月18日(月)海の日


聞くところによると、続(新)百名城の選定がすすめられていて、
来年の4月に公表されるとか?
まだ、30ほどしかスタンプ押してないのに、さらに100も増えるなんて永久に無理やな…。

選定の基準は国史跡が前提だとか?
となると、佐和山城・水口岡山城は圏外や…。
近江では清水山城、京極氏館城、玄蕃尾城、鎌刃城などが国史跡、
さて、どれが選ばれるかな?

西高木家陣屋跡は国史跡です。

続百名城に選ばれる条件みたしてるけど、
さて、どうかな?

資料館は西高木家上屋敷内にあります。


イメージ 1

 資料館の横には『多良中学校』があったようです

『長屋門(表門)』

イメージ 2


 嘉永5年(1852)の下屋敷御門をここに移築した。

イメージ 3

 この奥に明治29年に建てられた主屋があるが、非公開なので入れません。

イメージ 4

 板塀の隙間から覗いて撮影したが、ピンボケ…。

イメージ 5

こちらは少し高いマウンドの上から撮影した。

イメージ 6

鬼瓦を拡大すると、高木家の家紋『違鷹ノ羽』、
江戸時代あちこちで流行した家紋だそうな。

イメージ 7

来た道を戻り、表門を見上げる

イメージ 8

 高石垣です。

イメージ 9

 狭い登城道を登る
石垣は穴太積みかな?

イメージ 10

先ほどの表門の横に出ました。
向こうに資料館が見えますね。

イメージ 11

振り返ると下に石垣が伸びて埋門跡が見える。

伊勢街道を通った人達はみなこの陣屋城郭を見上げたのだろうな。

イメージ 12


 寛政年間(18世紀末)、尾張藩の役人の記録によると、
「高木三家の館は祢宜村と宮村の間にあり、館を山の峯に構え下よりみあげ、殆ど城郭に彷彿たり、…。」
と、感想を述べている。

牧田川の河岸段丘を利用した天然の要害に築かれた城郭です。
春に訪れた柳生陣屋跡に似てますな。

石垣伝いに埋門まで行きかけたが、怖いので下に降りました

埋門石垣の上の石碑には
『高木三家入郷地』と彫られてます

こちらは
『美の衆陣屋跡』と書かれてる。
美濃には竹中氏など他にもいくつか旗本があったが、
高木家だけ美濃衆と呼ばれたようですな。



その3に続く

Φ(*^ひ^*)Φ

再来年の大河ドラマは西郷隆盛だとか?

幕末維新なら河井継之助を取り上げてほしいな

β《#^ひ^#》でヒヒーン


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