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馬秀のすけのブログ
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『高野山』その9終わり


2015年08月07日

15時47分、【檀上伽藍】地区を出ました。


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 西へ向かう
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 突き当たりに
15時57分、【大門】

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 我が輩は逆から来たが、本来の参拝道である九度山からてくてくと町石道を約21km登ってきて、高野山最初の入口の門がこの大門。
昔の人はこの門を見てやれやれようやく高野山や!
と達成感を味わったことだろうね。
当初はもう少し下の谷に鳥居を建てて総門としたようです。
現在の門は宝永2年(1705)に再建された。

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 昭和57年に解体修理されたので綺麗ですが、国重文なり。
入母屋造り、銅瓦葺きの楼門。
運長作の金剛力士像が睨みをきかせます。

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我が輩の高野山参拝はここが終点。
折り返し帰ります。

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 16時13分、『霊宝館』
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 高野山の宝物を集めた博物館です
全部で78000点あるとか?
建物は大正10年に開設。
現存最古の木造博物館建築で、国の登録有形文化財に指定されてる。
中に入りました。
600円也。
撮影不可なのでパンフ画像しかありません。

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 収蔵庫が次々に増設されたため中はちょっと迷路のような感じ。

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 でも、作品の数々は素晴らしい!

今回の展示作品の中に
高野山持明院所有の浅井家親子の絵画がありました。
浅井長政は丸顔、父の久政は面長でした。
桃山時代の作で国重文。
長政の妻お市の方の画像もあった(江戸時代)。国重文。

さらに、武田勝頼妻子像・武田信玄像(国重文)・長尾景虎(上杉謙信)像(国重文)もあり、これだけでも見に来た甲斐がありました。

充分堪能しました。

16時51分、
大師教会本部

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 ここでちと思案する。
歩いて徳川家霊台へ行くべきか、悩む。
30分以上かかると判断。
それになにより翌日もたくさん歩く予定なのでこれ以上の足の負担はヤバイ!

というわけで、本日の探索を断念する。

バス停へ向かう。

常夜燈の横の石垣の隙間にお地蔵さん。

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『蓮華院』

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 葵の御紋でわかるが、
松平親氏が蓮華院の檀家で、以後徳川家の総菩提寺となった。
高野山では一等地にある宿坊ですわ。

門の横に

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 「前橋陸軍予備士官学校菩提所」の石碑

17時05分、

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 千手院橋バス停

17時23分、
高野山駅

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 端から端まで見て回ったが全部を一日で見るのは無理ですな。
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 名残惜しいがこれにて高野山とお別れ。
もう2度と来れないだろうな…。

18時38分、
JR橋本駅。
売店では柿の葉寿司、売り切れでした。

仕方ないので車内で紀ノ川を眺めながら夕食のパン食べた

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 20時00分、和歌山駅到着。

少々お値段高いが、和歌山城が見えるホテルの部屋に泊まりました。

ビスケットをおつまみに缶ビール飲みながら和歌山城を眺める

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 本日25366歩でした。


以上、高野山参拝報告終わり。


翌日の和歌山城登城報告はまたいつか後日…。

次回からは哀しみ本線日本海の城巡り報告をします。


Φ(*^ひ^*)Φ

和菓子の「水無月」食べた
小豆とういろうの組み合わせは最高ですな!

蒸し暑い夏は冷えたビールと焼きナス、トマトがいい。
他は何もいらない。

ナスビやトマトは連作を嫌う。
連作は土が痩せると思い込んでたが、
病原菌が増えて成育しないのが本当の理由だそうな。
だから、新しい土を混ぜたり入れ換える。
輪作にするそうです。
いやぁ知らなかったわ。

父が亡くなってから畑作ってないから
知らなくてもいいことだけどね…。


(*⌒Q⌒*)ヒヒーン


『高野山』その8


2015年08月07日

15時13分、
【檀上伽藍】
高野山の修行道場がここに揃ってます

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 蛇腹道と呼ばれる通路を奥へ。

『東塔』

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 1127年、醍醐寺勝覚権僧正が白河上皇の願いにより建立。
江戸時代に焼失、昭和59年に再建された。

新しい建物ですな。

江戸時代、1843年の大火で檀上伽藍のほとんどが焼失したのです。


『三昧堂』さんまいどう

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 大日如来。
928年金剛峯寺座主済高が創建。
別の場所にあったが、1177年西行法師がここに移した。
江戸時代に焼失、再建された。
広辞苑によれば、「三昧」は、仏教用語で心が統一され安定した状態。一つのことに心が専注された状態のこと。
高野山の僧は修行三昧?

そういや、最近NHKFMラジオの○○三昧(ざんまい)聴いてないな。


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「西行桜」は桜の時期に見たいものです。


『大会堂』だいえどう

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 阿弥陀如来。
1175年皇女五辻斎院頌子が父の鳥羽上皇追善のため創建。
西行法師は蓮華乗院と称した。
現在の建物は江戸時代末頃のもの。
頌子の母は春日局。
と言っても将軍家光の乳母の春日局ではありません。
史上最低の視聴率だった大河ドラマ清盛では西行、白河・鳥羽上皇なども登場した。
平安時代末をじっくり描いた作品だったが、人間関係ややこしく面白味に欠けたのが敗因か?


『愛染堂』あいぜんどう

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 愛染明王。
1334年後醍醐天皇勅願。
江戸時代に焼失、再建された。

左手に
『不動堂』

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 不動明王。
1198年行勝上人が創建。
14世紀に再建、別の場所にあり明治期にこちらに移された。
平安時代後期の神殿造りと鎌倉時代後期の仏式建築が合体した様式。
そのため、伽藍内では唯一の国宝建物です。

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隣に「蓮池」がある


『金堂』

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 薬師如来。
高野山全体の総本堂。
重要な法会はここで営まれる。
819年弘法大師創建。
現在の堂は昭和7年再建された。

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中に入ったが、どんなだったか、忘れてしまった


『根本大塔』

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 大日如来。
大きすぎてカメラの枠の中に入りきらない
東塔の大型版といった感じ。
弘法大師と次の二代に渡って建築、887年完成。
昭和12年再建された。


『御影堂』みえどう(みえいどう)

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 大師の持仏堂だったが、亡くなられて後に師の御影堂となった。
御影堂の読み方は宗派によって違う。
浄土系は「ごえいどう」だと思う…。


『三鈷の松』

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 弘法さん、空海さん、大師さんといえば、その象徴が金剛杖!
この魔法の杖ゆかりの地が全国にいくつもある。
そのなかで伝説じゃなくて事実はいくつあるのだろうか?…。

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 それはともかくとして、松葉が三本という珍しい松。
大師が唐から伽藍建立の地を占うためにお投げになった三鈷がこの松に掛かったとか?

ミサイルかい!



『准胝堂』じゅんていどう

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 准胝観音。

ピンボケ画像。
972年以前に創建。
明治16年再建された。
大師が得度した時に自らの本尊として准胝観音を祀った。
以後、高野山での得度の場所となってる。


『孔雀堂』

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 孔雀明王。
1200年、雨乞いのため孔雀明王(国重文)を祀って建立。
1984年再建された。
孔雀は厄除けとともに雨乞いにも役立つそうな。
あの甲高い鳴き声が天に届くのかも…。


『西塔』

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 大日如来。
887年、大師の次の二世真然僧正が建立。
1834年再建された。
東塔、大塔が新しすぎてイマイチなのに対し西塔は古めかしくてナイスです。
国重文なり。

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 手前の石灯籠は華岡青洲が寄進したとか?


『山王院』

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 奥に御社(みやしろ)があり、丹生・高野・気比・厳島の4神を祀る。
御社は1522年再建で国重文。
山王院はその拝殿。
1711年以前に創建。1845年再建された。
山王と聞くとどうしても比叡山・日吉大社を思い浮かべてしまう…。

そして、
『中門』

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 檀上伽藍の南門である。
819年に創建。昨年高野山1200年記念で再建された。
できたてのほやほやですわ

江戸時代に焼失後は礎石しか残ってなかった。
四天王は


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 焼失を免れた持国天(東方守護、憤怒相、刀・宝珠)、

多聞天(毘沙門天、北方守護、甲冑姿、宝塔・鉾or宝棒)

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 新しく
増長天(南方守護、赤身の武神、鉾・刀)、

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胸元にトンボ

広目天(西方守護、甲冑姿、筆、巻子or縄)

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 胸元に蝉!
が加わった

て、トンボやセミのブローチ付ける四天王なんか


恐くないッス!

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 中門を出ました。


大門に向かいます!

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その9に続く


Φ(*^ひ^*)Φ
昨年から始めた北国街道歩き、

いよいよ最後、余呉駅から近江の最北端中河内地区へ向かった。
しかし、
途中の椿坂にて、足が痛くなり、あえなく断念。
悔しいけど、引き返しました。
うーん残念!


14km、14000歩だからまだまだ歩けると思ってたが坂道の連続で負担が大きかったようだ。


真夏の峠越えはキツイですな、
かといって真冬の湖北は雪国だからもっと大変。

難度高いわ!

というか、足が弱くなってる…。


またいつかリベンジして、詳細をブログアップする予定です。

さていつになるやら…。



β《#^ひ^#》でヒヒーン


『高野山』その7


2015年08月07日

長々と【奥之院】の墓めぐりした後、バスで高野山の中心部に到着。

14時22分、
【金剛峯寺】

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 弘法大師が「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祈経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)」というお経から名付けられた。
高野山全体の総称でもある。

座主の住寺、さらに全国真言宗の総本山の宗務所となってる。


現在の金剛峯寺は青厳寺と興山寺の2つの寺を合併したもの。
青厳寺は文禄2年(1593)、秀吉が母の大政所の菩提のために建立。
現在の本堂は文久3年(1863)、再建された。
興山寺は、青厳寺よりも古くて天正18年(1590)に、木食応其(もくじきおうご)上人によって建立された。
こちらも秀吉が寄進した。
木食上人は以前にも紹介したが、近江の人です。
秀吉と木食上人が現在の高野山の基礎をつくったと言ってもよい


「正門」

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 金剛峯寺の中では一番古い建物。

本堂(主殿)の屋根は桧皮葺き、

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 天水桶は火災の時の火消しのため。


「かご塀」

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 桧皮葺きの築地塀。

「経蔵」

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 1679年に再建された。
金剛峯寺の前身の青厳寺の経蔵。
重要な物はこちらに保存し、火災対策とした。
手前の木は昭和天皇・皇后行幸記念植樹の高野槙。

高野槙を土産に買ってこいと言われたが、母の言い間違いで買わなかった…。

「鐘楼」

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 1864年、再建された。
こちらも青厳寺の鐘楼。
袴腰付入母屋造りという形式。

「森林いのちの塔」

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 東北大震災復興のための護摩木を積んだ供養塔、
アート作品。

中に入りました

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 撮影不可のため画像ありません。

新別殿という休憩所で、法話を聞いてお茶をいただき約50分休憩しました。
時間もったいないが、
猛暑日だったので、涼しい所に入るとなかなか外に出られない。

とはいえ、翌日の和歌山市内のあの暑さから比べたら高野山のほうがはるかに涼しいんだけどね。

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 豊臣秀次が自刃した「柳の間」、
我が国最大の庭と言われる「蟠龍庭」
なども見学しました。

金剛峯寺を出ました

『六時の鐘』

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 福島正則が両親の菩提を祈るために1618年に建立された。
現在、午前6時から午後10時まで偶数時に鐘が付かれる。

高い石垣の上に建てられてる。

石垣の下に

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 「四町 太上天皇」の町石がある。
根本大塔から四番目の石碑です

これよりその根本大塔へ向かいます

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その8に続く


Φ(*^ひ^*)Φ

我が家の紫陽花
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日曜日、関ヶ原で熊本復興の寄付したら
くまモンシールもらった
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良かったモン


β《#^ひ^#》でヒヒーン。


『高野山』その6


2015年08月07日

【奥之院】を散策
参道のお墓を巡ってます

Д《加賀前田家二代利長墓所》

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 前田家は菅原道真の系統だと言ってます。
ので、金沢の墓には菅原朝臣利家之墓と書かれてるとか?

全然関係ないけど、広島県の安芸吉田郡山城の入口に毛利家の墓があります。
大江と書かれてました。
大江広元が祖先で相模国毛利に移り、毛利氏と称した。
それゆえ、毛利家当主の名前には代々「元」がつきます。
戦国大名、胡散臭い家系が多いなか最も確かな由緒のある家柄が毛利家だと言われてます。

近江国、湖北余呉の北国街道沿いに菅山寺がある。
菅原道真が修業し、寺の名前の由来にもなってる。
江戸時代、加賀前田家の参勤交代は基本的に信州経由だったが、険しい北アルプスの親不知越えが難しい時にはたまに近江の北国街道を通ったことがある。
余呉湖も菅原道真ゆかりの湖。
前田家は感慨深く通ったのだろうか?

菅山寺は高い山の上にあります。
昨年登りました。
ハイキングとしては過去最低、7名の参加者しか集まらなかった。
それほど過酷な山登りでした。
もう2度と登りたくないです…。

初代の利家と比較するとパッとしない利長ですが、三代利常とともに
徳川家の難題を克服し加賀前田家百万石を守った功績は立派といえるのではないか?
家名存続のカギを握るのはどの家も二代目ですわ。


Д《東日本大震災物故者慰霊碑》

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 物故者は、死んだ人のことを言う。
由来は諸説あるが、広辞苑によると中国の思想家「筍子」の君道に登場する言葉だそうな。
物は服、故は古で、服が古びるようになる人間も死んでいくという意味。
余談ですが、授乳中の母親はタケノコを食べ過ぎないほうがいいそうです。

震災で行方不明、あるいは亡くなられた方々の慰霊碑に
合掌!

熊本大分地震の物故者の慰霊碑もつくられるのかな?

『誓子句碑』

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 「夕焼けて西の十萬億土透く」
高野山の夕焼けは西のはるかかなたにおられる阿弥陀様を透けて見ることができる
という意味だと思うが、はてさて?
山口誓子は京都市岡崎出身。
西宮の屋敷は阪神淡路大震災で倒壊した。
ウ〜ン…。

帰り道は新しい時代の墓が多い

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Д《日産自動車(株)物故授業員慰霊碑》

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 諸般の事情によりコメントは差し控えさせていただきます…。


Д《見真大師墓》

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 て、誰やねん?と思った人多いだろうな。

石段を登りました

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 見真大師は親鸞の諡号です。
我が家は浄土真宗なので、参拝しました
合掌!

Д

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左側が《ヤクルト》、
手前が、《東洋ゴム》
小さい頃、ヤクルト毎日飲んでました。

新車買うとたいがいトーヨータイヤが装備されてます。
タイヤ交換するときはたいがい、石橋タイヤを買います…。


14時05分、

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 中の橋案内所に戻りました。
これにて奥之院探訪終了。
約20万基の墓があるので、二時間ちょいで全部見て回るのは無理。
またいつか来れたらまた来たい

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 バス待ちの間に高野山のお土産を買いました

高野豆腐は買ってません…。


14時20分、
千手院橋バス停で下車。

これより総本山の金剛峯寺へ参ります


ちなみに高野山のメインストリートは

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 『小田原通り』と呼ばれる。

秀吉の小田原征伐で降伏した北条氏直は高野山に流罪。
蟄居したのが、千手橋の近くにある「高室院」でした。
以来、小田原通りと呼ばれるようになった。

千手橋バス停は交差点を挟んで2ヶ所に分かれてる。
奥の院方面と大門方面を結ぶ小田原通りの直通バスがあるが、千手橋で乗り換えねばならないバスもある。
時刻表とにらめっこして千手橋のどちらのバス停から乗れば目的地に効率よく行けるか、事前に調べるべし。

バス停の前で小田原評定してたら乗り遅れますよ!



その7に続く





Φ(*^ひ^*)Φ

毎週火曜日は我が地元、鳩のマークのスーパーの特売日。
買物客、普段の倍増!
店内大混雑。

一人のオバチャン、買物籠二つ持ってる。
1つをレジで精算。
しばらくして、通路に隠しておいたもう1つの買物籠を精算した。

なんで、そんな面倒なことするねん?
いっぺんに精算したらいいやん!

と思ったが、そのカラクリが判明した。

それは、『特売卵』
タイムセール超安値の卵、
1人、1パック(98円)しか買えない。

さらに、今月我が輩の誕生日以後、
卵以外の商品千円以上とのセット販売、と制限が追加された。

つまり、卵だけ買うというのはダメ!
店が損するわけです。

ので、このオバチャンは考えた。

2000円以上の買い物をして、
卵2パック買うために分割精算したのである。

混んでるし別のレジで精算すれば同一人物とバレることはない。


オバチャン賢い!

生活の知恵ですな。

ちなみに我が家は卵2パック買った。
1つは特売卵、
もう1つは卵かけご飯用の高い卵である。

生活の知恵無い…。

β《#^ひ^#》でヒヒーン梅雨男


『高野山』その5

2015年08月07日

【奥之院】を散策
参道のお墓を巡ってます

奥之院の奥まで来ました

12時31分、
Д《豊臣家墓所》

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 石段を登る。
他の墓と格の違いを感じさせる

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 秀吉を始めとして母、弟など家族の墓が立ち並ぶ

秀吉役、長浜駅前の秀吉像は竹中直人に似てると言われる。

今回の小日向氏も秀吉にぴったりだと思う。
甲乙つけがたいですな

そして、
Д《織田信長公墓》

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 こちらはもっと長い石段を登る

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 今回の真田丸、信長役は誰だったっけ?
忘れてしまった…。
印象薄い

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 合掌!

信長は比叡山とともに高野山も攻める予定だったが、本能寺の変で亡くなり挫折、秀吉も高野山攻めをおこなったが、
応其上人と講和し、高野山が灰燼に帰すことはなかった。

応其上人は近江ゆかりの人です

応其(おうご)上人は近江国蒲生郡で生まれた。
父は佐々木義秀(承禎の家臣)。佐々木氏は信長に抵抗するが義秀は秀吉に協力したとか?
佐々木六角家が没落した後、大和高取城主越智氏に仕える。
しかし、高取の越智氏が没落し、現在の橋本市に移る
上人は35歳の時、高野山に入り僧となった。
橋本市の荒野の開拓をおこない町民から慕われた。
秀吉の高野山攻めでは調停役をこなし秀吉と仲よくなる。
これにより高野山は安泰となった。
関ヶ原の戦い後、徳川時代となり秀吉と親しかった上人は身を引き、近江国甲賀郡の飯道山に隠居、1603年、73歳で亡くなりました
高野山の危機を救った人として今も尊敬されてます。

イメージ 7


イメージ 6


 飯道山登頂はきつかった
もう二度と登りたくない…。


Д《筒井順慶公墓》

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 なんで、隣にあるのだろうか?
日和見の代名詞のように思われてるが、信長一筋でずっと従ってたのは間違いない。
信長が長生きしてたら、順慶は大大名になれたかもね?

12時37分、
『御厨橋』

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 この橋を渡ると弘法大師廟の霊域。
これより撮影不可なので、御廟の建物画像はありません。

帽子脱いで神妙に参拝。
突き当たりの御廟前で合掌しました

参拝の戻り道、人がなにやらお堂の中をのぞいてます

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 近寄ると
『弥勒石』
善人には軽く、悪人には重い、と言われる重い石です。
格子のすき間から腕を入れて中の石を持ち上げれば成功、願いがかなうとか?
前のおじさんが、持てた!
というので、
見たら、

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 両手で石を持ってる

それ、反則やで!
というか、両手入れるのも難しいんだけどね。

我が輩も挑戦したが、全然持てなかった

悪人なので重いのや…。

『御供所』

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 12時55分、
『休憩所』

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 金子良成 師の法話を聞きながら、
パン食べました。
ようやくお昼。

約30分休憩した

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 こうやくん、我が市のキャラ博にまた来てね!

午後の部、再開!

墓を見ながら下山、


Д《浅野内匠頭墓所&赤穂藩四十七士菩提碑所》

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 赤穂藩、当初は姫路城の支藩で池田輝政の五男政綱が立藩した。
子供が無くて没したが、なぜか改易とならず、弟輝興に相続が認められてお家存続。
例外中の例外ですな。
が、その輝興が突然発狂し、結局断絶となりました。
さすがにこれはお目こぼしなかったようですな。
この後、入ったのが浅野長直。新しく赤穂城を築城した。
そして、三代目藩主の長矩の時、あの事件が起こりました。
浅野家断絶。
その次に入ったのが森蘭丸の森家。
実は森家も津山藩の時、藩主が発狂し断絶。
赤穂で再興された。
いろいろといわく因縁のある赤穂藩です。
若い頃に飲酒運転で登城(時効)したことあります。
当然ながら百名城スタンプまだです。
行きづらい…。


Д《結城秀康石廟》国重文

イメージ 16


 今回、重文の墓を見るのは初めて。
越前松平家初代当主秀康(家康次男)と母の墓。
すべて石製で木材は一切使用されてない。
秀康は秀吉と家康の一字をとって秀吉の養子にもなってる。
今回の真田丸での登場シーンは無いような…。
越前松平家、当初68万石でした。
二代目の忠直は大坂の陣で功あったが後に乱行し、配流。
嫡男光長は越後高田へ。
入れ替わり越後高田より忠昌が入り52万5千石 。
この時、北之庄を福井と改名した。
六代藩主綱昌の時、幕府から突然乱心という理由で減封、
25万石となった。
その後、加増され32万石にまで回復したが、当初の半分の石高で幕末を迎えた。
福井城は行きやすい場所にあり、いつでも行けるという理由でいまだに水戸城…。


Д《法然上人圓光大師墓所》

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 比叡山で修行し、浄土宗の開祖となりました

その奥に
Д《相模三浦向井家墓所》
向井家は伊勢出身で水軍を率いて功をなし、武田家→徳川家に仕え江戸時代は旗本として存続した。
領地はずっと三浦だったようです
♪岬巡りのバスは走る…。
もう一度、バスで三浦岬&城ヶ島へ行きたいな。

イメージ 18


 その6に続く



Φ(*^ひ^*)Φ
6月7日、


今年も無事誕生日をむかえることができた

世の中の皆様に感謝。


だニャー


β《#^ひ^#》でヒヒーン


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