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2016年9月3日(土)

熊川宿を後にして九里半街道を進む。

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 国道303号線を歩く。
小浜まで路線バスあるのでいざというときはバスに乗るつもり。


13時41分、
『義民の里 新道区→』

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 「義民松木荘左衛門生誕地」碑。
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熊川宿で立ち寄った松木神社の神になった人。
新道地区の出身だったわけです。
生家はここから300m先の山麓にある、と書いてある。
時間に余裕がないので生家訪問はパス…。

国道を進む

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32度!
9月に真夏日…。

13時53分
『瓜生口バス停』

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バスの時刻表を見る。

やっぱりバスに乗るのはやめる

我が輩は暑くても歩くのです!

13時57分、
『鯖街道 小浜まで四里』福井県上中町

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 約16kmですな。
1里=1時間のペースなら小浜には18時頃になるので、今回は手前の上中駅をめざすことにした。

この看板から国道とお別れ、農道を行く

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 もうほとんど稲刈り終わってます。
早いですね。

農道を歩いてる人誰もいません

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 14時19分
『清水川橋』

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 ここホントに若狭街道なのか?
ちと心配になる

14時21分、
『信主神社』しんしゅじんじゃ

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村の鎮守かな?
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 由緒書き見当たらない…。

若狭街道でした。
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ここに道標があるはずなのだが、見逃した。
いつもちょこっと抜けてる我が輩です

少し、山の方へ寄り道

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『三宅区火の見やぐら、火の見やぐら倉庫』
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 国の登録有形文化財。
建てられたのは江戸時代、
ざくっとしてますな。

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火除け信仰の愛宕地蔵が安置されてます。
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 歩いてばかりだと疲れるだけ、
休憩がてらこのような建物を見るのもいいものです

再び街道に戻る。

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上中町の木、あかまつ

上中町は三方町と合併して現在は若狭町となった。

16時40分、
『パレア若狭』

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介護施設か何かと思って素通りしたが、
コンサートホールだとか?

熊野神社

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名前から察せられるように、715年に紀伊国(和歌山県)から勧請された。

参道が長いので鳥居を見ただけで失礼する


三宅小学校

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 3つの門柱が残ってます。
立派な門があったのかも?

14時59分、
国道に合流。

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天徳寺交差点の向こうに古墳のようなものが見える

近づくと
『十善の森古墳』

イメージ 22 全長65mの前方後円墳。6世紀初めに造られた。

前方部と後円墳それぞれに別の横穴式石室があるという。
大陸から運ばれた金銅製冠などの副葬品が出土した。

両方に石室があるなんて、これはびっくりですね。


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 周濠の痕跡?

そして、坂道を登ってやってきたのが

『若狭瓜割名水公園』

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 皆さん水汲みしてます。

さらに奥へ

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『瓜割の滝』石碑

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 全国名水百選になってる。
瓜割は、あまりの水の冷たさに冷やした瓜も割れてしまったという伝説にちなむ。
滝周辺は「水の森」と呼ばれる

「天徳寺」

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 時間が無いのでパス。
実は電車の時間がせまってるので焦ってました

画像もぶれてます

というか、滝までどのくらいあるのだろうか?
ここで引き返すのも悔しい…。

15時14分、
ようやく瓜割の滝!

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 湧き出る水は神泉として五穀成熟諸病退散の霊験があるという。

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ここで水を飲みました。
長生きできるかな?

というか、

これが有名な瓜割の滝?

ちょっと拍子抜け…。

もっと見上げるような大きな滝を想像してた

期待しすぎたか?


もう時間ぎれ、
疲れた足を引きずりつつ必死で坂を下りました

先程の古墳の所まで戻ると踏切の鐘がカンカン鳴ってる
電車が近づいてる証拠だ

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 15時36分、
『JR上中駅』到着。

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 急ぎホームへ向かう

が、滑り込みアウト!

無情にも電車が出てしまった

がっくり

次の電車は一時間後

ありゃま!

これなら瓜割の滝でゆっくりして
土産に名水の酒買えたのに。

滝まで片道徒歩20分ほどなのでもう一度行けるが
もう体力も気力も無い
何より足が動かない

バスで近江今津駅に戻ったほうが早いかも?
と思い、駅員さんに調べてもらった

電車で直接敦賀経由で帰ったほうが運賃安い
到着時間もあまり変わらない

というので、1時間ホームで待ち、
生まれて初めて小浜線に乗って帰りました

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 歩数は27081歩でした。

おわり。

Φ(*^ひ^*)Φ
次の目標は上中駅から若狭街道を小浜駅、
さらに舞鶴へ。

ま、いつになるかわからんけどね。

いやそれより小浜城、小浜の寺巡りもしなきゃ!

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

ホームセンターで、漆喰を買ってきた。
さっそく、屋根瓦のすき間に塗った。
水を多量に混ぜすぎたため、サラサラ。
うまく付かない

失敗した…。


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2016年9月3日(土)

【熊川宿】
熊川城跡から無事帰還、

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 宿場歩き午後の部再開。

白石神社の隣に
12時41分、
『得法寺』

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 蓮如上人旧蹟の石碑があるので浄土真宗の寺、とわかりますね。

「蓮如上人像」

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 1475年、越前吉崎御坊から海路で小浜に上陸。
その時、熊川のこの寺で3日間滞在。
寺は天台宗から浄土真宗に改宗した。

「徳川家康腰掛けの松」

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 朝倉氏を討つため京都から敦賀に向かう途中に熊川のこの寺に一泊。
翌朝出発するときに腰かけた松。
松は枯れてしまったので、これがその痕跡かな?

「土地は熊川、寺は得法寺、余は徳川、因縁あるかな」
と家康が言ったとか?
※家康は上州新田の得川氏の後裔として徳川に改称したと言われる…。

本堂

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 境内の奥にお墓がある

「熊川城主沼田氏の供養塔」

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室町時代中期に建てられた。
前回に述べたように沼田氏は細川氏の家臣となり後に熊本へ移り重臣として存続しました。

熊に縁がありますな。
とりあえず、クマに会わなくてよかった。
合掌。

ちなみに

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 有名な朝倉攻めで金ヶ崎からの逃走路、
信長は若狭街道を朽木から京へ戻った。
家康は舞鶴寄りの遠回りで戻り、
しんがりの秀吉は小浜からほぼ真っ直ぐ山越え最短距離を南下し、京へ戻った。

と、資料館のおばちゃんが解説してくれました。

ホホー…。


得法寺の目の前に
『御蔵道』

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 熊川宿は陸路の他に街道に沿って流れる「北川」の水運でも栄えた。
藩米はこの先の舟着場に陸揚げされ松木神社の境内にあった蔵屋敷まで運んだ。
その通路なので、御蔵道と呼ばれた。


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こちらは舟着場側、
道は細いですな。

『松木神社』

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 石碑が2つある。
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イメージ 12


 そして、
「義民 松木庄左衛門像」

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重税にあえぐ百姓達は年貢引き下げ嘆願を繰り返すが
小浜藩は聞き入れず。
投獄された松木庄左衛門は獄中でも嘆願、
1652年、磔の刑に処せられた。
しかし、その代わり年貢引き下げは実現した。
28歳の若さでした。
で、彼の遺徳をたたえ昭和8年に松木神社が創建されて神様となりました。

鳥居から坂道を登る
ちょっとキツかったです

義民館。

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 御蔵屋敷跡、
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 12棟の米蔵があり約3万俵の米を貯蔵した。
ここから人馬で近江で出て、舟便で琵琶湖なら大津へ出荷した。

ちょっと高台になってます。

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 紅葉の頃に来るといいかも?

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 街道に戻る

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 『荻野家住宅』国重文
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 人馬継立をおこなう問屋で、屋号は倉見屋。
熊川宿では最古の町家。

13時33分、
国道に接近、

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 これより【下ノ町】地区。
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 ちなみに上ノ町→かみんちょ、中ノ町→なかんちょ、
下ノ町→しもんちょ
と、読むそうです。

ここで道が曲がるので『まがり』と呼ばれる

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 おばちゃんの解説によると下ノ町は全部新しく建て変えられた家並みだそうな。

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だから、このなまこ壁の蔵も新しい建物です。

『孝子与七の碑』

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 享保年間、与七と妻は自分達は貧しいものを食べて
ご馳走は父母に食べさせた
小浜藩主は親孝行をたたえて米数俵与えた。


扶養給付金?

13時40分、
熊川宿の西の端に来ました。

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 小浜と京・大坂を結ぶ街道の要衝として栄えた熊川宿、
江戸時代も後半になると北回り航路が盛んになり、大坂から北陸日本海側への荷物は直接海路で運ばれ、小浜港荷揚げが減り熊川宿の隆盛も下降します。
そんなおり、あらたに浮上したのが巡礼道。
西国三十三ヶ所観音霊場巡りが盛んになります。
28番宮津の成相寺→29番舞鶴の松尾寺、
そして、30番近江竹生島宝厳寺。
松尾寺から宝厳寺へはこの若狭街道を通る。
前日、熊川宿に泊まり翌朝一番に出発すると竹生島行きの船に間に合い
さらに近江八幡31番長命寺に行ける、というので熊川宿が重宝された。
こうして熊川宿は命脈を保ったそうです。

これにて、熊川宿とお別れ。
資料館のおばちゃんの解説のおかげでいろいろと勉強できて楽しめた熊川宿でした。


この後、いろいろ考えた末
若狭街道を小浜方面に向けて歩くことにしました


その4に続く

Φ《#^ひ^♯》Φ

我が家の柿、
今年は不作。

毎年毎年豊作とはいきませんな。

当分の間、毎日おやつは柿です


柿食えば

風邪が治るの
我が輩は


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若狭熊川城

2016年9月3日(土)

【熊川宿】
11時41分、
中ノ町地区です
『白石神社』しらいしじんじゃ

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 熊川地区の氏神、彦火々出見尊・白髭明神・小浜藩主酒井忠勝・山の神が合祀されてる。

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鳥居をくぐり参道を登りました

拝殿

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 無事登って下山できますように!
パチパチ、真剣にお祈りしました。

久しぶりの山登りだし熊川地区なので、熊の心配もあり、
ちょっと緊張してました。


社殿の左側の奥にロープが張ってあるので、
これが登山道だと推測した。

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でも、よく見るとロープを結んでる杭が外れてる
ロープ役に立つのかな?

左手は急な崖で足を踏み外せば奈落の底です。

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この付近は新しい杭がしっかりしてるのでロープ頼りに進む

下に社殿の屋根が見える。

イメージ 6 さほど高くない山なんです、実は。


さらに進む。
逆光です

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 尾根の上が段々になってる
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両側が崖、
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 曲輪だと思われる


曲輪が幾つも現れる
城跡らしくなってきましたよ

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 嬉しくなる

横は崖です。

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次々に曲輪が出現

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振り返る
尾根上の段々の曲輪群、
画像ではよくわからないですな。


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 段差が高くなり、曲輪が広くなった

11時57分、
看板があります。

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 『主郭』に到着。
約10数分ほどだが、物凄く長く感じました。
やれやれ、ですわ

説明書きによると、
「延長170m、連郭式。
東西の両側は急斜面の要害。」
Φ(*^ひ^*)Φ
ふむふむ

「城主の沼田氏は上野国沼田庄から出たとされる。
源頼朝の時代より熊川を領有し、のち小浜城主武田氏に属した」
Φ(*^ひ^*)Φ
ここで、沼田が出てくるとは!

「天正年間、瓜生の城主松宮玄蕃に敗れ、丹後田辺の細川忠興の客となった…」
Φ(*^ひ^*)Φ
忠興の母は沼田氏なので熊川ゆかりとなりますな。

縄張り図もあります。

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 9以上ある連郭を登ってきたようです

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 主郭の上の櫓台、もしくは物見台

櫓台の後方にはちょっと大きめの堀切があります

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 尾根伝いに後方を登ってみた
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 こちらも幾つか曲輪と堀切があるけど、
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 先程の縄張図には載ってないのでよくわからない

しばらく進むとそれらしき堀無くなり

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このまま進むと背後の尾根のさらに上の山の上に行きそうなので、
これにてやめ!
引き返すことにしました

再び主郭に戻った

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帰りは連郭の数を数え始めたが、
下りが恐くてそれどころじゃなくなった

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 下草が生えてないのでつかむことができない
細い木はみな枯れ木で、持ったらポキンと折れる、
支えになるのは地をはってる木の根だけ。
杭やロープはあてにならず、
このままだと枯れ草や乾いた土に滑って斜面をずり落ちてしまう

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 仕方ないので杖を斜面の土に突き刺して、杭の代わりにしてこれを支えに斜面にへばりつき、
まさに、ほふく前進状態でゆっくり下る

そして、なんとか無事、神社に戻れました

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 あー怖かった!

無事戻れたのでお礼にもう一度参拝、
賽銭はずみました。

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 ケチな我が輩、往復で賽銭あげるなんて初めてなんですよ。

12時26分
ほっとして安心したら空腹に気づき、
境内で昼食のパンほおばった

なお、セミの声はすれども
熊・蛇など動くものの姿、まったく見なかった

下草が無いからかもね。

できれば、せめて杭とロープだけでももうちょっと整備していただくとありがたいのですが。

ま、もう2度とこの城跡には登らない…。


その4に続く



Φ(*^ひ^*)Φ
風邪、少しマシになりました。

週末の峠越えまでに完治してほしいな。

β《#^ひ^#》でヒヒーン


熊川宿その2

【熊川宿】
天正15年(1587)、若狭の領主となった浅野長吉(後の長政)が若狭街道の要所として熊川宿を整備。
天正17年には「所役免除」のお墨付きを与えて宿場の発展を促進させた。
その後も代々の領主に受け継がれ、当初40戸ほどだったが200戸を超す大きな宿場になった。

宿場は
上ノ町・中ノ町・下ノ町に3区分される。

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まずは、「上ノ町」から。
『熊川番所』

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 江戸時代、小浜藩主酒井忠勝が中ノ町に設置したが、後に上ノ町に移された。

二人のお役人がいます。

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 穏やかな顔つき、

ですが、
他の街道と同じく「出女」を厳重に取り調べたそうな。
出入りの荷物に課税した収入は藩の財政に大きく貢献した。
いつの世も通行料収入は大きいですな。

高速道路ETC1000円という政策が以前あったが、
財政赤字ふくらんだだけ。
あんなこともうやるな!
やるなら無料開放にするべし、儲からんけど経費不要だから赤字も少ない…。

「かわと」ですな。

イメージ 4

 ここでは溝が道の向かって左側にあるが、
イメージ 5
この先、右側→左側→右側と互い違いに設けられていきます。

平等な町割りと火災対策なのかな?

「大岩」

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子供がここで遊んでも怪我したことないので、別名子守り岩。
道に白い石が出ると村に火災や災害がおきた、と言われてるのでその関連で大事にされてます。
とにかく火災に悩まされてきた熊川宿です。


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 家は道と並行の平入、三角が見える妻入建物が交互に並ぶ。

「中条橋」

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河内川にかかる。

これより「中ノ町」です

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この家は二階が低いので「厨子二階」と呼ぶ。
虫籠窓がある。
厨子二階の方が二階が高い「本二階」より古い。
と言っても、何度も火災にあってるので熊川宿の建物はみな江戸時代以降の新しい建物ばかりです。

ちなみに我が家も建て替える前は二階が低くて、物置になってました。

『宿場館』(若狭鯖街道資料館)200円

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昭和15年、熊川村役場として建てられた。
トスカーナ風の丸い柱、屋根の上の中央に越屋根(煙抜きのため)などの特徴が昭和初期らしい特徴だとか?

役場を建てた初代村長は伊藤竹之助氏。
苗字から察せられるように、近江出身。
伊藤忠の社長でした。
熊川は近江と縁があり、
昔、熊川の学生は朝4時に起きて今津まで歩き
今津港から船で近江八幡まで行き、近江商人ゆかりの八幡商業まで通ったそうです。
当然ながら帰宅は夜9時以降。
片道三時間半以上かかります。
毎日往復、歩いて峠を越えたなんて、凄いですね。


資料館の中に入ると、オバチャンがいて
解説してくれました。
説明が詳しくて、熊川宿のことよくわかりました。
こういう人がいると助かります。

イメージ 11

二階には商い物が展示されてました。

熊川では10年に1度の割合で火災が発生、
その対策として壁板は薄っぺらくして、
火が出たらすぐに板を外せるように取り付けてあった。

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土壁むき出しにして類焼を防いだのですね。

宿場館の向かいの細い路地は

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『長屋道』
町奉行配下の足軽長屋があった。

『熊川陣屋跡』

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京極高次の時、設置された。
酒井氏の時は熊川奉行所となった。

何も残ってないのでパス 

『旧問屋、菱屋』

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 勢馬家の屋敷。屋号が菱屋。
格子の建物が重厚感ありますな。
最盛期は年間20万駄の荷物の荷継ぎ場でした。

ここで、宿場の構成のおさらい。
★「問屋(問屋場、といやば)」
人足と馬の継立の統括をした。
★「本陣・脇本陣」
幕府が定めた公用旅行者、大名などの休憩宿泊するための特別施設。
某NHKの桑○アナが脇本陣は本陣の脇にあるから、と言ってましたね…。
宿泊によっては本陣が無かったり、逆に本陣が5つもあったりして
色々でした。
脇本陣が無い宿場もある。

本陣は将軍足利義註(よしあきら)が上洛した時に宿泊した建物を本陣と呼んだのが始まり、後に大名の宿泊所を指すようなった。
本陣・脇本陣ともに地域の有力者の屋敷で、中世に武士だった家柄が多い。
名字、帯刀が許された。
★「旅籠屋(はたごや)」
宿場で食事を供給する宿。
旅籠は、本来馬の飼料を入れる籠の意味だった。
留女や飯盛り女がいる旅籠屋は繁盛したそうです。
★「木賃宿」
我が輩がよく利用するビジネスホテル。
昔、旅人は米を携帯し宿で自炊した。
米を炊く薪を宿で提供したので、薪代を木賃と呼んだ。


本二階建てのこちらの家は、

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 福井県認定の「ふくいの伝統的民家」
福井県では伝統的建物を維持するための条例があるそうな。

ここで、ちょこっと宿場の裏山へ向かいました


その3に続く



Φ(*^ひ^*)Φ
ノーベル平和賞はノーベル賞の権威を下げる賞だと思ってる。

ノーベル文学賞も似たようなもの?

だと言ったら、

怒られるかな?

β《#^ひ^#》でヒヒーン

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2016年9月3日(土)

九里半街道は近江今津港と若狭小浜港を結ぶ若狭街道です。

イメージ 2
現在の国道303号線です


 10時08分
『JR近江今津駅』

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 湖西線で来ました。
北回りでも南回りでも運賃は一緒です。
電車の本数は南回り山科駅経由が多い。
しかし、同じ県内なのにわざわざトンネル越えて京都市山科まで行ってまた戻ってこなきゃ行けないのが癪にさわる。
今津港から彦根港、長浜港への定期渡船があると便利なんだけどね。

今津のマンホール。

イメージ 3
ヒバリとザゼンソウが描かれてる

ザゼンソウを見に行かなきゃと思いつつ今年も見逃した。
来年こそは!


 バスの出発まで40分以上あるので、付近を散策

農協の前に、江若鉄道近江今津駅の駅舎が残されてる。

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イメージ 5


 江若鉄道は浜大津と近江今津を結んでました。
将来若狭まで伸ばす予定だったので近江と若狭→江若(こうじゃく)鉄道と名付けられた。
結局、伸ばすどころか廃線(1969年)となってしまった。
1931年に建てられたので85年経過しました。
江若鉄道には大津市の紅葉パラダイスに遊びに行った時に乗った記憶があるのみ…。

再び、近江今津駅に戻るとバス停前に行列ができてました。
利用客多いみたい。

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 JRバス若江線。
じゃっこうせん、読む。
なんで江若にしなかったのか?
江若鉄道と紛らわしいからかもね。

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 10時50分発に乗りました
なんとか座れた。

バスは国道303号線、石田川沿いを山の中へ向かう。

今回はバスに乗ったが、将来は街道を歩いて峠を越えるつもりなので
沿線を真剣に眺めて下見。
道路沿いの大半、さらにトンネルの中も歩道があるので我が輩でも歩けると判断した。

「保坂バス停」

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京都と小浜を結ぶ若狭街道、通称「鯖街道」と九里半街道の分岐点です。
九里半街道は今津と小浜の距離が約38kmなので、九里半と名付けられた。

これより、山の中、トンネルをいくつも越えます。

そして、
11時18分、
『道の駅熊川宿』バス停到着。

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運賃820円、ICOCAを使用しました。
小銭無かったので助かった。

実は昔、宮津に行く時に車で立ち寄ったことがある。
その時は休憩しただけだった。

今回は宿場を歩きます。

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 鯖街道ミュージアムという施設があり、資料とマップget。

石碑(レプリカ)には

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 「左 北国ゑちせん道(越前道)」と書いてある。

撮影しなかったが、
「右 志ゆん連みち」の文字もある。
しゅんれん、わかりますか?
答えは、後で…。

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 この鯖街道ミュージアムの裏から宿場へ行けます

マンホールはアジサイの絵

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 『若狭町熊川宿伝統的建造物群保存地区』

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 「若狭町」は、貼り紙。合併前は上中町と書いてあったのだと思う。

その2に続く。

Φ(*^ひ^*)Φ

大河ドラマ、真田丸

な、な、なんと

ここで、幸村を出してきました

しかもまたまたくじ引きで。

これから最終回までは、完璧に虚構の世界

三谷ワールドの物語となるんだろうね。

ま、所詮ドラマですから、

純粋に楽しみましょう!


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