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尾張古地図

■ 2017.07.15 更新 : 史跡 志段味古墳群保存管理計画書を追加致しました。
■ 2017.06.23 更新 : 志段味(しだみ)古墳群の冊子を紹介致しました。
■ 2017.06.12 更新 : 名古屋市内の古墳地図を追加致しました。
■ 2017.06.10 更新 : 名古屋なんでも調査団の報告書を追加致しました。
■ 2017.06.06 更新 : 親鸞聖人の足跡図を修正致しました。

愛知県 豊田市にあり主祭神が日本書紀にも記述のある大碓命 (おおうすのみこと) として有名な 猿投神社(さなげじんじゃ) で発見された千参百年以上も前の愛知県周辺の古地図です :

尾張國 養老元年之圖 ( 今を距る千参百年前のもの )

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この図を見て感じるのは,枇杷島,津島,長島,佃島,北島,東島,中島,西島,内島,平島,大島,福島,津,桑名など現在でも地名の残っている が多いことである。
また,現在の名古屋市内にあります瀬戸,大森,守山,高針,八事,赤池,御器所,井戸田,熱田などの地名も見て取れます。

この地図が,今から千参百年前の養老元年 ( 西暦七百拾七年 ) に描かれたものだとは驚異的なことであります。
( しかしながら,一部からは江戸時代に描画されたものではないだろうかとの指摘も聞いて居ります。)
【 年号の西暦について 】
日本には,16世紀にカトリックの宣教師によって西暦がもたらされた。
西暦が使われるようになったのは,西洋に合わせる形で明治5年(1872年)に天保暦(太陰太陽暦)からグレゴリオ暦(太陽暦)への移行が決まってからのことであり,日常生活に普及し始めたのは第二次世界大戦後のことである。

ところで,今回のブログでの目標は尾張古地図への真偽を議論するのでは無く, 猿投神社の尾張古地図に描かれているように,現在の名古屋周辺は大昔には海であった ことへの検証作業を行なうことに有ります。


さて,この尾張古地図を筆者が最初に見て目が行きましたのが,図面の中央左側に位置します 養老 津屋 であります。 ( 津屋の地名を御存知の方は如何ほどに居られることでしょうか?)

この場所には私ども堀田家の先祖代々の菩提所の本慶寺 ( 真宗大谷派 ) があるからです :


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ここで,筆者の父 釋明正が遺稿に記した文章を引用致します :


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ここで,紀氏(きうじ)とは第8代の孝元天皇 (こうげんてんのう) 末裔にあたる公家になります。

昭和三十二年七月 覚王山に墓石建立の際,当家の家紋(立木瓜)に丸のあるのを疑問をもち,当家先祖の出生地 養老を調査しましたる処,
言い伝えの村に堀田姓を名乗るもの四十数戸,その内,主なる四,五軒は,一町四方以上の邸をもち,菩提所たる本慶寺は,二町四方もある大きな寺で,堀田家にかかる過去七百年にのぼる記録も系図も現存して居りました。


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筆者は,ある夏の日に父に連れられて津屋の本慶寺 ( 現在は,岐阜県海津市南濃町津屋 ) を訪れたことがあります。五歳ぐらいだったとの記憶がある。
本慶寺に着くと,住職の奥様が 『 ぼっちゃん どうぞ 』 と,カップに入ったバニラアイスクリーム1個を目の前に出された。
六十年程前の当時では,バニラアイスクリームは貴重な食品でありました。名古屋の街中で育った筆者には,1個を兄弟で分けて食べるのが常であった。
草木が茂り,蝉の鳴き声が聞こえる田舎町の御寺でバニラアイスクリーム1個が目の前に出た時には本当に驚いて 『 ここは,天国か! 』 と子供ながらに思ったものである。いまでも,バニラアイスクリームを見ると当時の事を鮮明に思い出します。

還暦を過ぎた今に成って,何故に父が幼なき長男である筆者を本慶寺に連れて行ったのかが朧気ながら分かる気が致します。

【 津屋の東側に位置する津島について 】
現在の津島には堀田姓が非常に多いです。
養老津屋地方から,古くは島であった津島へ開拓の為に渡った堀田一族の子孫がいたのであろうと考えられます。


さて,五年程前のこと町内会の長老で那古野小学校の大先輩である伊藤さんから 『 堀田さん,これに興味ないかね? 』 と受け取ったのが,手書きで模写した 「 尾張古地図 」 であった。

伊藤さんからの手書きで模写した地図


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よく見ると,名古屋が海の中に沈んで存在していない。

上図の下部に位置する 戸田五之割神明社 の現在位置地図


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ところで筆者が居住致します,名古屋市西区那古野 ( なごの ) 地区については,以前のブログ記事 円頓寺の七夕まつり(2006.7.30 記) で次の記述を致しました:
次のお話は,那古野小学校二年生の時に担任の木村松次郎先生からお伺いしたものであります :
    この辺りは,昔は一面が田んぼでありました。
    夏にはカエルが,ガァ〜ガァ〜と鳴いていたそうです。
    朝夕には霧が出て来て,この辺り一面を覆ったそうです。

    この霧のことを,住んでいる人々は『 なご 』と呼んでいたそうです。
    そして,野原もあったことから『 なごの 』という地名が付いたそうです。

三つ子の魂百までもと申しますが,筆者の頭の中では 「 名古屋の昔は,一面が田んぼ 」 で有りました故に 「 名古屋が昔は,海の中に沈んでいた 」 は予想外で意外な感じが致しました。

唯,子供の頃には地面を掘ると貝殻が出ることがよく有りましたので,昔は海が近くにあったのではないかとも思って居りました。
現在でも,近所での建築現場での掘りの際には貝殻が出て参ります。

さて,2027年に開業を予定するリニア中央新幹線 :


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今年に入ってから近所で, リニア中央新幹線 の名古屋・那古野地区でのボーリング調査が始まりました。

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【 地図の説明 】
“屬,名城非常口新設工事 ( 愛知県警察本部の東隣にある公園跡地に建設中 )
    非常口は直径40メートル、深さ90メートルで、工期は2019年9月までを予定している。
番が,ボーリング調査現場 ( 東円頓寺商店街の「そば屋・えんそば」の北側の大駐車場,この「えんそば」の真下をリニア中央新幹線が通過 )

作業員の話に依れば『 岩盤が一枚も無く砂地であり,深さ60m のボーリング調査は3ヶ月の予定が1ヶ月足らずで,すんなりと完了した。』とのことである。


この事実に接したとき,初めて 猿投神社の尾張古地図には,事実が正確に描画してあるのではないか? と考え始めて,そこから色々と調べて見ることに致しました。


まず,以前から気になっていた,大学生の頃に読んだ 『 親鸞聖人の伝記 』 の中にあった東海地方での足跡図には名古屋を通過せずに一宮・岐阜方面を通過していた図が記憶に有ります。
何故に,名古屋を訪れなかったのかから調べ始めました。

ここでは,数学専攻の理系の者が,慣れない古文書を唯一人で探す作業は非常に大変でありました。
しかしながら,今回ほどにインターネットの有り難さを実感したことはありません。
検索すればするほどに欲しい情報がパソコンの前から入手出来るのですから。

そこで良く見掛ける親鸞の足跡図です :


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しかしながら,筆者が入手した事実は上図とは異なり次のようなのです :
  【 親鸞聖人の三河・知多・尾張・美濃・近江での足跡図 】
親鸞聖人が東国(関東)に滞在された期間は,建保2年(1214年)から文暦元年(1234年)頃までの約20年間とされて居ります。そして,文暦2年(1235年)親鸞63歳までに京へ帰る。
僅か一年足らずの短い期間内での帰還でありました。

三河( 地図では “ )
 文暦2年(1235年)三河(愛知県)に入られ,岡崎の妙源寺に17日間も留まって説法をする。
  愛知県 碧海郡 妙源寺 柳堂(みょうげんじ やなぎどう)(現在の岡崎市 大和町 字沓市場65)

知多・尾張( 地図では 番とH )
 三河国 柳堂で逗留中に,源義朝の墓が知多郡の野間・岩屋寺(いわやじ)にある事を知りお参りに立ち寄りました。
 その後,知多郡・横須賀から【 舟で 】尾張の蟹江に渡られて,野天説法をされたと伝えられています。その時,親鸞が腰かけられた石が文化遺産の親鸞聖人腰掛石です。その後,萱津(かやづ,古くからの宿場町)の方へ行かれた。

尾張・美濃( 地図では と屬鉢ト )
 岐阜県 羽島郡 笠松町 円城寺の辺りを訪問,木曽川の氾濫で暫らく現在の愛知県 一宮市 瀬部に滞在。

近江( 地図では θ )
 近江に入られ木部に錦織寺(きんしょくじ)を建立された。(現在の滋賀県 野洲市)


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この図では,尾張・美濃から近江へのルートに三重県内の山岳地帯を避けて,比較的平地である大垣 ---> 米原 ---> 彦根ルートを選択しました。


当時の平均寿命は45歳であり,親鸞聖人の年齢63歳 ( 偶然ですが筆者の年齢と同じです ) を考えれば,関東から陸路での京都への帰還には安全で最短の道を選ばれたことであろう。
普通ならば,岡崎 ---> 熱田 ---> 伊勢湾岸沿いに ---> 桑名 ---> 四日市へと進路を選択された筈である。

ここで何故に,遠回りとなるような南知多の岩屋寺,尾張の蟹江,そして名古屋市の北上に位置する岐阜市近郊の尾張・美濃の町を通られたのであろうか?
一行が北上して進まざるを得なかった理由のひとつには,海部郡 弥冨の西部の木曽川下流は 輪中地帯 ( 当時は海 ) であったからだろうと思います。

 【 答え 】
   知多郡・横須賀から舟で海部郡・蟹江まで渡られたことからも理解できるように,
   名古屋が昔は,海の中に沈んでいたので歩いては通過出来なかったから。

多分,当時での伊勢湾付近は次にような状態では無かっただろうかと筆者は考えて居ります :

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つまり,これは 『 猿投神社の尾張古地図 』 での示唆が正しいことに他ならない。


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上図の 赤い丸印が名古屋の位置と考えられます。
諸説が存在しますが,この赤い丸印の右側に位置する【 浪越 】が名古屋の地名の由来だとも聞いたことがあります。
 “ 古へは島山にして海近ければ, 浪高きときは,
      山の頂をも浪の越ゆる事度々なりし故に, 浪越(なごや)と呼ぶ ”
                     『 名古屋市史 地理編 』

ここで,古い地図に標高3mまで青色着色すると不思議なことに尾張古地図の海岸線が現われました :

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以上が,筆者の歴史的な古文書の時代考証から得た結論です。


■ 参 考 資 料 ■
尾張古図と浪越伝説 ( 名古屋なんでも調査団 2011年11月 ) PDF版
尾張古図が偽図であるという噂の真相について名古屋なんでも調査団の見解としては,養老元年又は養老年間のものであるという根拠は乏しく,玉井神社又は猿投神社より出たという確証もないということから偽図とみなされてもしかたがないと言えますが,そこに描かれた地形については全くのでたらめとは言い切ることはできないということになります。


次からは,科学的に得られたデーターを見ながら裏付け作業を進めることにします。

【 標高とは 】
   日本における「標高」は,東京湾の平均海面を基準(標高0m)とした土地の高さです。

国土地理院公開の,愛知県のデジタル標高地形図 ( 平成18年9月作成 )

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【 海抜とは 】
   平均海面を基準として計測されます。
   名古屋では伊勢湾の平均海面を基準としています。

海抜を調べたい場合の Flood Map を用いて,
海抜 +13mを選択すると尾張古地図に近い状態が見て取れます :
画面左上の Sea level rise の値をいろいろと変化させて確認して見てください。

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ここで,海抜 +2mを選択すると,親鸞聖人の三河・尾張・美濃・近江での足跡図の頃に近い状態が見て取れる ものと筆者は考えて居ります。

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以上の検証作業を持ちまして導いた結論は次であります :

       名古屋の周辺は古く大昔には海であった。



そして,最後に もう2つの事項を見てみよう :

濃尾地震(のうびじしん)は,1891年(明治24年)10月28日6時38分50秒に濃尾地方で発生した,日本史上最大の内陸地殻内地震である。
震源は,岐阜県本巣郡西根尾村(現在の本巣市),北緯35度35分,東経136度20分付近であった。
規模は,マグニチュード 8.0 である。


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伊勢湾台風(いせわんたいふう,昭和34年台風第15号,国際名:ヴェラ〔Vera〕)は,1959年(昭和34年)9月26日に潮岬に上陸して紀伊半島から東海地方を中心としながら,ほぼ全国にわたって甚大な被害を及ぼした台風である。
伊勢湾沿岸の愛知県・三重県の被害が特に甚大であり,「伊勢湾台風」と呼ばれることとなった。

伊勢湾台風による決壊箇所と浸水状況図

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久し振りに,全力投球で尾張古地図への探求ブログ記述に携わってきました。
そして,数多くの事柄を新たに知ることが出来て我ながら嬉しく思って居ります。

いつの日にか 幼なき頃に父と一緒に出掛けた先祖の菩提所である美濃津屋の本慶寺を訪れてみたいものである。



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【 追加事項1: 名古屋市内の古墳 】

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名古屋市内には,おおよそ200基の古墳が確認されていますが,市内で最も古墳が集中して残っているのが,名古屋市の北東端にある守山区上志段味です。
上志段味は,岐阜県から愛知県へと流れる一級河川・庄内川が山地を抜けて濃尾平野へと流れ出る部分にあたります。上志段味にある多くの古墳はまとめて志段味古墳群と呼ばれ,国の史跡に指定されています。
尚,尾張古地図の中央右側には志段味の地名記載が存在して居ります。

詳細は 名古屋市・歴史の里(古墳) を参照してください。

ここで,名古屋市守山区上志段味字東谷の 白鳥塚古墳 (しらとりづかこふん) の位置です :

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【 追加事項2: 志段味古墳群 】
名古屋市役所・西庁舎1階の市民情報センターで,名古屋市教育委員会からの次の冊子を購入致しました :

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昭和47年に白鳥塚古墳が国史跡に指定されていましたが,平成26年10月6日に文部科学大臣が,新たに6基の古墳(尾張戸神社古墳・中社古墳・南社古墳・志段味大塚古墳・勝手塚古墳・東谷山白鳥古墳)を追加指定して「志段味古墳群」に名称を変更しました。

志段味古墳群では4世紀前半から7世紀にかけて,古墳が築かれない空白期間を挟みながらも長期にわたって古墳が造営されており,空白期間を境として,4世紀前半から中頃,5世紀中頃から6世紀前半,6世紀後半から7世紀の3つの時期に分けることができます。
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夏休みに入ったら探索してみたいものですね!


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嘗ての海が土砂で埋まりながら濃尾平野を形成,そして志段味(しだみ)の先住民の進出に依り名古屋地域の開拓と発展が成されて行ったのかと思うとき,今まで以上に名古屋への歴史的ロマンが果てしなく広がって参ります。

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