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たばこを吹かしながら、話を聞いた。
通訳は、京都精華大学の教授。
お父さん(フゴジレトゥ氏)は「日本が嫌いだった。息子が是非日本で学びたいと言うので許可した。」
…そうだったろうな。大日本帝国軍の犠牲になった処だから。
続けて「チズカがモンゴルに来たおかげで、日本が好きになった。こうして、電車の窓から流れる街の姿を見ると、戦後の日本は立派になりましたね。」
…この言葉に、頭が下がる思いだった。
5月27日。モンゴル文字研究会開催。
入梅。大雨の日。我が次男、春(しゅん・9才)も手伝いに連れて行った。
デザイナー河村氏を中心とする、日本タイポグラフィー協会関西研究会メンバーが準備をしていてくれた。会場は、大阪の創造社デザイン学校。約2時間盛り上がった。特に、書道家の先生たちが、用意していた短冊に一人ずつモンゴル文字で、名前を書いてくださったからだ。
終了後、近くの炉端焼き店で夕食会を開いた。日本の酒は、アルコール度数が低すぎたようだった。息子春(しゅん)は、みなさんに可愛がられ、別れ際に「モンゴルに来たら、馬と羊をあげる。」とまで、言っていただいた。
《第5章》 内蒙古に立つ
スーチンドロンは、京都精華大学卒業の年をむかえようとしていた。就職先をどうするか…
友人知人に紹介するも…だれも、良い返事はくれなかった。
… 僕は、何の役にも立たなかった。
彼は、頑張った。唯一残されている自分の力量、モンゴル料理を広める。よく夫婦で頑張った。大阪市内の片隅で、小さなモンゴル料理店を始めた。開店の時に、岡山の産婦人科医院長山縣猛日氏が送ってくれた紹興酒を妻の運転する車に積んで、家族と共に駆けつけた… 楽しい、オープニングだった。
1997年2月7日。45歳。母下枝(享年84)他界。
夏。初盆。弟康弘(ピアニスト)から、連絡が入る。
「兄ちゃん、一緒にモンゴルに行ってくれる?写真撮影と、取材してほしい…。」との事だった。
弟は、ピアノの演奏活動を通じて、ピアノの修復をし、沢山の地域や国に贈っていた。モンゴルにも6台寄贈すると言う。
「パスポートはあるから、スケジュール表を送ってくれ。」
つづく
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始めまして ランダムから来ました
2005/11/25(金) 午前 9:40 [ くいしんぼ ]
ありがとうございます。
2005/11/25(金) 午後 2:27