kohno-fam 河野博光デザイン記

人とひとの出会いから 多くの思い出が できました

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回想 その4

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車窓は、もう暗くなり、外の景色は見えなくなった。電車の中の方が明るい。前の座席の女の子たち、どう見ても、先ほど会った様な… でも、会話が、完璧な大阪弁。 … なんとなく 眼と眼が合った。
「河野さん」 エッ!ガーン!
普段着の あの 受付の 受付に居た、可愛いモンゴル衣装を着た女性(チズカちゃん)だった。頭の中が、ガッタンゴットン。
大笑いしながら京阪三条駅着。別れて帰宅。行って良かった。
こうして、モンゴルの青年スーチンドロン君との家族付き合いが始まった。

《第4章》 モンゴル文字研究会大阪にて

当時、奈良県生駒市に自宅兼アトリエを構えていた。
よく二人は、遊びに来てくれた。
モンゴル書道と話を携えて。まだ元気だった、母にもモンゴル茶を振舞ってくれた。子供たちも、よく可愛がってくれた。…楽しい日々だった。
私は、再度、集めていた世界の文字資料に目を通し、モンゴル文字完成までのヨーロッパからアジアの民族との関係や、その年表をまとめた…偶然、居合抜刀術の妹弟子(梅田女史)がチンギスハーンの歴史ビデオをくれた。何回も観ながら時代背景を確認していた。
そうこうしている間に、スーチンドロンから話が出た。
1995年。43歳。(阪神大震災のあった年)
「在学している京都精華大学の招きで、5月に内モンゴルから書道家がきます。モンゴル書道の大家です。母もその一人です。父は詩を創り、本も書いています。」 …なんと言う事だ。会える。
さっそく、日本タイポグラフィー協会関西研究会の若手デザイナー達に伝えた。彼らは、協力的だった。
「モンゴル文字研究会を開こう!」
5月20日頃だったと、記憶する。関西空港。来日。出迎えた。
中国国内で、なかなか出国許可が下りず、大変苦労されたようだった。
来日された方々。大書道家、アイリィトゥ氏。書道家、ジグジト氏。作家、フゴジレトゥ氏(お父さん)。書道家、オトンゴワ女史(お母さん)。の4名。
紹介を受けながら、5分も経たない内に、肩を抱き合いながら、出会いを喜んだ。
大阪に向かう車中。たばこを吸う仕草をして、喫煙コーナーに向かった。すると、みなさんが付いてきた。どうやら、長時間の禁煙が辛かった様だ。
たばこを吹かしながら、話を聞いた。
通訳は、京都精華大学の教授。
お父さん(フゴジレトゥ氏)は「日本が嫌いだった。息子が是非日本で学びたいと言うので許可した。」
…そうだったろうな。大日本帝国軍の犠牲になった処だから。
続けて「チズカがモンゴルに来たおかげで、日本が好きになった。こうして、電車の窓から流れる街の姿を見ると、戦後の日本は立派になりましたね。」
…この言葉に、頭が下がる思いだった。

5月27日。モンゴル文字研究会開催。
入梅。大雨の日。我が次男、春(しゅん・9才)も手伝いに連れて行った。

  つづく

回想 その3

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「河野さんですね。スーチンから、聞いておりました。ただいま、スーチンは、別の打ち合わせ中なので、すぐ戻ってきます。ゆっくりご覧ください。」
またまた絶句。 ああ この娘は、スーチンドロンと同じように、綺麗な日本語を学んだモンゴルの女性なんだ…と感心した。
(後日分かった。この女性がスーチンドロンの愛妻と成った=日本人女性、卜部智津香さん。我が家族は…チズカちゃん。と呼んでいる。)

ソビエト連邦崩壊の前年…ゴビ砂漠の北。外モンゴル(ゴビ砂漠の南、内モンゴル=中国内蒙古自治区、首都フフホト)は、ソビエト連邦からモンゴル共和国として独立。さらに、自由主義国『モンゴル国(首都ウランバートル)』と成った。そして『モンゴル国』は、長年強要されてきたロシア系キリル文字から独自の民族文字を復活出来る事になった年。
※ モンゴルの人々は、ソ連と中国に分かれながらでも、仲が良い。流石、ユーラシア大陸を治めた人達だ。

モンゴル書道の肉筆。左からの縦書。
一本の青竹がすっと伸び、竹林に雀が飛び交う様な。
文字と行間。そこから織り成す、なつかしさ、不思議な美。優美さ。
おもわず、受付のモンゴル女性に
「すみません。この文字を読んでいただきませんか。」と声を掛けた。
「はい。少々お待ちください。」との返事。
もう一人、すらっとしたモンゴル女性を伴って傍に来てくれた。
なかなかの美人。読んでもらった。また絶句。
詩吟の様な、雅楽の様な、民謡の様な、漁師歌の様な…音調、リズム。
一瞬、僕は宇宙から地球を観ている自分になってしまった。
気を取り戻して、
「この書に書かれている、意味をおしえてください。」
内容は、もう、まるで
老壮、孔子、孫子、孟子、禅、哲学、民の唄、祈り… 語りつくせない感覚に陥ってしまった。吾が心、動乱。
(後日談。すらっとしたモンゴル女性は、スーチンドロンのお姉さんだった。)

「河野さん。お待たせしました。」スーチンドロンの一言に、
正気に戻った。

ロビーで、コーヒーを飲み、一服つけながら…
「そうか」 「そうだったのか」 「こうでした」 「こうだったんだ」
警備員から、「もう、閉館です。」 帰路につく。

路面電車の停留所。タバコに火を付け、一服。
日が落ちた、森と行く雲を眺めながら電車を待つ。
京阪三条駅に向かう、チンチン電車。
線路に響く、車輪の音が聞こえてきた。タバコの火を消しながら、電車の停車位置に向かう。地方路線らしく、電車を待つ人たちが集まっていた。可愛い女の子たちもいた。1輌の電車だったと思う。横長でクッションのあるモスグリーンの長椅子、余裕で座れた。ぼーっと、車窓の夕暮れの景色を見ながら、今日の出来事を振り返っていた。 眼の前の座席には、女の子たちが楽しそうに話している。
車窓は、もう暗くなり、外の景色は見えなくなった。電車の中の方が明るい。前の座席の女の子たち、どう見ても、先ほど会った様な… でも、会話が、完璧な大阪弁。 … なんとなく 眼と眼が合った。

  つづく

回想 その2

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《第2章》 モンゴル青年との出会い

1993年秋。41歳。私は、これからやって来るデジタル通信の時代をにらみながら、近畿郵政局などが中心となって行っていた『マルチメディア研究会』に参加していた。会合の場所は、いつも大阪商工会議所内。
そこに向うために、大阪地下鉄堺筋線『堺筋本町』で下車。地上出口を出た。秋の小春日和。たばこに、一服火を着けた。
その時、背後から声を掛けられた。
「すみません。道を教えて下さい。」
振り向くと、さわやかな青年だった。
「何処まで、行くの。」
「ここです。始めてアルバイトに行きます。」
差し出された地図を見ると、大阪商工会議所への道筋にあるビルだった。青年は、そこにある中華料理店に面接に行くと言う。
「ちょうどよかった、私もその方向へ行くから、案内しよう。」
そこから、約5分の道のりだった。
「君は、学生か?」  「はい。」
「何処の学校?」  「京都の精華大学です。」
「京都か。私は奈良に居るから一度は遊びにいらっしゃい。」
「ありがとうございます。」
「君の言葉には、ぜんぜんナマリがないね。ふるさとは何処なの?」
「モンゴルです。」
礼儀正しく、あまりにも純粋な日本語を話す、この青年のこの一言に…思わず絶句。 気を取り戻して、
「そうか。日本は、狭くて、みんなセカセカしていて、大変だろう?」
「はい、モンゴルに帰りたいです。」 「そうだろうな…」
中華料理店に着いた。
青年に名刺を渡し、分かれた。その日は、一日気分が良かった。
その時は、このモンゴル青年と、これほど深い付き合いになるとは想像もしなかった。

《第3章》 青年との再会。そして、モンゴル書道との出会い。

1994年、梅雨。1通の手紙。差出人、スーチンドロン。
その内容は
『モンゴル書道展』を開くので、ぜひ来て欲しいとの事。
会場は、京都国際交流会館。開催期間7月14日から20日。
 しまった と 思った。と同時に嬉しかった。
もっと あの時(道案内の5分間に)、モンゴルの青年に、小生が文字デザインを調べている一人だと…。
 開催中に行った。微少な祝いを持って…
奈良からは、近鉄丹波橋駅乗換え、京阪三条駅。路面電車に乗り換え、ガッタンゴットン、琵琶湖大津方面に向かった。
なんとか、閉館前の夕刻4時頃に着いた。
受付に、可愛いモンゴル衣装を着た女性が居た。
ここにまちがいないと思い。祝い袋をそっと差し出し、芳名録に記名して 日本語が通じるのか…おそるおそる、話かけてみました
ゆっくりと
「河野と申します。スーチンドロンさんは、居られますか?」と尋ねた。
その彼女の答えは、即
「河野さんですね。スーチンから、聞いておりました。ただいま、スーチンは、別の打ち合わせ中なので、すぐ戻ってきます。ゆっくりご覧ください。」
またまた絶句。 ああ この娘は、スーチンドロンと同じように、綺麗な日本語を学んだモンゴルの女性なんだ…と感心した。

   つづく

回想 その1

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《第1章》 文字デザインの目覚め

父が書道家でもあったせいか、17歳の頃、突然。
文字のデザイン、成り立ち、レタリングに目覚めてしまった。それまでは、好き放題の青春をおくり、ミュージシャンとスキーインストラクターを目指していた。それにもかかわらず…水を得た魚の様に。
18歳の時。美術学校デザイン科に進学を勝手に決めた。
周囲は、みんな目を丸くしていた。浪速短期大学デザイン美術科入学。ここで、最初の出会いがあった。東大阪石切在住の恩師山中氏。貧乏学生だった私の為に、居候させていただいた上。韓国ソウルの美術大学との交流会参加の為に尽力いただいた。1971年9月。19歳。渡韓。
この韓国行きがきっかけとなり、近くの国の読めない文字『大いなる文字・ハングル』の研究を時間が許す限り行い。展覧会がある度に、そのレポート作品を出品し続けていた。…その間、一国の文字を創り上げた人物像に振れる事となる。ハングル文字を、半生を掛けて創り上げた、李朝時代の王、世宗大王。(もっと知りたい人物像)
 ※この話は、別コーナー『大いなる文字・ハングル』で述べたい。

世界の文字のルーツ探訪に、関心を持ちながら、全て探求する余裕はなかった。
常に気になっていたのが、古代日本には中国から漢字が渡来するまで本当に文字は無かったのか。語り継がれてきた、あの大陸の英雄ジンギスカンやモンゴルは…。
ある仮説を自分でたてていた。
きっと、おおらかな、多人種多言語自由混合の地。決して単一でなく、寄り添って生きるバイリンガルな人たちの時代があったに違いない…と。

《第2章》 モンゴル青年との出会い

1993年秋。41歳。私は、これからやって来るデジタル通信の時代をにらみながら、近畿郵政局などが中心となって行っていた『マルチメディア研究会』に参加していた。会合の場所は、いつも大阪商工会議所内。

  つづく

一通の手紙

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モンゴルの母=敖登高娃(オトンゴワ)さん

《モンゴルの母からの手紙(スーチンドロン和訳)》
   河野様
母の手紙は、以下のような文面になります。

一、1997年夏の再会

1993年の夏に息子夫婦が挙式をあげた、思い出深い昭君ホテル(内モンゴル・フフホト)での再会の光景は今でも忘れられません。
今は亡き夫と、硬く抱きしめ合い喜びに浸る一時が思い出されます。
遠く離れた日本に暮らす息子夫婦の父親的存在で、いてくださる河野氏との再会は感謝の想いで胸が熱くなり、互いの健康を確認すると、ようやく心地よい、安堵感に包まれ、再会の実感をかみしめ合った。

なんと、内モンゴル訪問の目的が六台ものピアノを寄贈するためのものであると知り、感激いたしました。遠い海を越え、われわれの民族の音楽教育の一助にと届けてくださる、日本のピアニストと、そのお仲間の皆様に心から敬意を表します。思いもよらないほどのご苦労をご拝察いたします。

二、舞台

内蒙古大学へのピアノ贈呈式のコンサートにお招きいただきました。
康弘氏の舞台は迫力に溢れ、いきいきとした音色に、言葉をこえた心が通う舞台に、私たち夫婦も最前列に腰を掛けていられないほどの盛り上がりに、思わず大勢の学生と混じって、ステージに参加し、歓声を高らかにあげましたね。
心に残る学生との盛大な交流コンサートとなりましたね。
その後、私たちもしばらくの間、ステージで繰り広げあったかけ声が耳から離れず、自然に口から溢れ出し、楽しい宴会の席での合い言葉(ワッハッハ!)になってしまったほどです。
どうもありがとうございました。

    スーチンドロン 再拝

……………………………………………………………

              《回想》
1997年9月。45歳。
始めて、中国内蒙古自治区フフホトの地に立つ。
ここに辿り着くまでの事を回想する。

 つづく

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