kohno-fam 河野博光デザイン記

人とひとの出会いから 多くの思い出が できました

ワハッハ!モンゴル!

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回想 その8

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モンゴル衣装の幼児達と、なんと可愛い保母さん達が…
いまか、いまかと門前で待っていてくれた。
一息、撮影が終わって、日本人一行が居る部屋に辿り着いた。
お茶を頂こうとしていたら… なにか、保母さんと通訳が慌ただしい… 「何か、あったんですか?」と通訳を通じて、尋ねてみた。その答え。
「園児の一人が、ぼくは写真を写してもらえなかった、と泣いている。」
即「その教室へ連れて行ってください」
園長先生の歓迎の挨拶中だった。
カメラを抱え、その子の居る教室に駆け込んだ。通訳も一緒に走った。
僕は、一呼吸… 日本語で、元気よく
「みんな。こんにちは。元気ですか。日本から来ました。写真を撮らせてください。」 突然、僕の乱入にもかかわらず。担任の保母さんも児童たちも、自然に笑顔で迎えてくれた。
教室全体の園児みんなが入る位置から1枚写した。
おぅ、見つけた。
さっきまで 泣いていた子。 眼が赤かった。
一番前の席に居た。その少年の前からシャッターを切った。笑顔がもどった。(帰国後、フィルムを現像した。この子は、保育園の門前で、とてもきれいな保母さんに手をひかれていた子だった。僕は、その時、歓迎の渦の中、松本氏と撮影をしていた。綺麗な保母さんと手をつなぐ児童を撮影した。取材班のカメラ位置は、同じである。その瞬間、彼は、日本人一行が建物の中に入るのを見届けているのである。横顔がとても愛らしい…確かに、彼の真正面からシャッターを押さなかった。御免。松本氏と僕は撮影機材を抱えながら走った、日本人一行が入った部屋を探すのが精一杯だった。… あの少年にもう一度会ってみたい。)

応接室に戻った。
ちょうど、コンサートの始まる時間だった。
各教室から、保母さんが園児を連れながら集まる。ダダをこねる子をなだめながら。
懐かしい… とても、懐かしい。
コンサートホールの場所は、保育園の一階、応接間のすぐ横。2階まで、吹き抜け。2階の回廊に上がれる階段がある、2階の回廊には、小さな窓それ以外に何もない。写真スタジオの照明係りの位置である。撮影場所には最適である。ささやかな空間。その1階のフロアーの隅に、なんと、なんと… 給食の調理室。地元のお母さん達が児童の昼食を造っている。懐かしい、いい匂いだ。ちょっと覗いた、「これ、どうぞ」「いいのですか」
僕は、ただただ日本語しかしゃべれない…が、そっと日本語が判る女性が、いつの間にか付いていてくれた。理解できた。一口頂いた。美味い。暖かい。嬉しかった。

コンサートが、小さなフロアーから始まった。

       つづく

回想 その7

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薄明かりのロビーのソファーに目を向けた。 絶句。
お父さん(作家、フゴジレトゥ氏)、お母さん(書道家、オトンゴワ女史)が…じっと待っていてくれた。 走り寄った。抱き合った。 部屋に入るのも忘れ。 同行してくれた中に、中国国籍を持ち日本に嫁いで来た女性がいた。無理やり通訳をしてもらった。
僕の旅行カバンは、部屋に運ばれる途中であった。
「これは、いいから」と…
お父さん、お母さんの前で、カバンを開け、
あのロングサイズのダウンジャケットとハンフー(6ヶ月)の写真を手渡した。残念ながら、大書道家アイリィトゥ氏は30分前まで一緒に待っていてくださったが、家の事情で戻られた。書道家、ジグジト氏は、怪我をして来れなかった、との事。それは、残念だったが
再会の喜びとお互いの健康を確認しながら、1時間は会談した。
訪問中に是非もう一度会いましょうと約束。まったく予定も判らないまま別れた。 荷物も心も軽くなった。
… 自分の部屋がわからなかった。が、なんとなく見つかり。午前2時ごろ就眠。 フフホトの初日だった。

晴天の朝を迎えた。同室の松本さん(康弘の活動をライフワークとして何年も前から、ビデオ取材を引き受けてくださっている方。広島県三次市在)は、早朝から散歩。流石取材班。朝食を一緒に採りながら、どうなるか判らない予定と撮影の段取りを打ち合わせ。(朝食の場には、同行した日本人は、誰も居ない。松本氏と席を立った時、だれか一人だけ現れた。別の観光客だった。朝の挨拶を交わしながら、なぜか、不安を感じた。添乗したガイドも居ない。…弟は、大丈夫か?)

朝8時。出発。モンゴル民族の保育園に行く。
わがままな、日本から同行した女の子たちが居て、出発遅れる。
晴天、日本晴れ(いや、モンゴル晴れ)。空は、とてもいい蒼色だった。

保育園着。午前10時頃。
バスの中から、松本氏と共に、言葉にならない、無言の歓喜をあげた。
「さぁ、行こう。」
松本氏は、サッとビデオカメラを肩に担いだ。僕は、スチールカメラを構えた。 二人して、バスを飛び出た。

      つづく

回想 その6

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弟は、ピアノの演奏活動を通じて、ピアノの修復をし、沢山の地域や国に贈っていた。モンゴルにも6台寄贈すると言う。
「パスポートはあるから、スケジュール表を送ってくれ。」

9月に、約1週間の日程での予定表だった。
弟がモンゴルと言うので、てっきり僕は、モンゴル国(外蒙古)だと思っていた。
日程表をスーチンドロンに見せた。彼曰く
「河野さん。この日程表によりますと、北京経由でフフホトに着きます。そして、お泊りになるホテルは、昭君ホテル。私の家の近くです。フフホトは、内モンゴルの首都です。私の故郷です。」 ………
彼は、さらに付け加えた
「この様な旅行は、僕が企画して、ご案内するべきところ、それが出来ず残念です。」

出発前日。スーチンドロンから連絡が入った。
「河野さん達がフフホトに行くことは、父や母に伝えてあります。お願いがあります。モンゴルには、長いダウンジャケットがありません。母の為に、懸賞に応募したら当たりました。今日届きます。それと、ハンフー(長男6ヶ月)の写真を母に渡していただきませんか。」
「わかった!」
夕刻、女房が運転する車で、モンゴル料理店に向かった。
早速、旅行カバンの荷物を入れ替えた。
翌日、福岡国際空港集合。北京に向かう。
北京にて、乗り換えフフホト昭君ホテルには、現地時間夕6時着予定。
北京空港で2つの問題が起こった。
1つ目。通訳から、税関から贈呈する6台のピアノに、高額な税金を掛ける。…絶句。弟が「僕が払いますから。」と…とりあえず、収まった。
2つ目。フフホト行きの飛行機がこない。…5時間待った。
待合ロビーは、灯が消され、薄暗く。食事場所もない。
喫煙コーナーとトイレに行く、ウロウロ、ウロウロ、灯の消えた小さなお土産店のウインドーを見ながら歩く、一巡り2・3分、それ以外に時間のつぶしようが無かった。
ロビーの脇に、中華航空の搭乗口とフフホト行きの搭乗口が並んでいる。なぜか、おもしろかった。中華航空の搭乗口の係員は、ビシッと決まった制服、兵隊さんの様に居る。僕は笑顔で手を振って、会釈したが無視された。フフホト行きの搭乗口の係員は、なんとなく素朴な征服で、手を振る私の仕草に、笑顔で反応してくれた。 ほっとする。
搭乗口のモニターには、現在気温フフホト −1℃ の表示が出ている。
まだ9月。日本を出発する時は、暑かった。

午後11時前に、フフホト着。空港は暗く、閑散としていた。みんな空腹。
バスに乗り込む。寒い。口が凍りついたように開かない。
昭君ホテルへ向かう(ホテルでは、もう夕食不可能との事)。途中でレストランを見つけ、閉店後にもかかわらず、なんとか交渉して、夕食が摂れた。
この時点で、僕はもうあきらめていた。今日は、スーチンドロンの父母に会えない。滞在中に、通訳に頼んで連絡をとってもらおう…と。

午後12時前。昭君ホテル着。少しの明かりの中で、チェックインが始まる。カウンターだけの灯り。ロビーの照明用コンセントは、全て抜いてある。電力消費を少なくしている。…良い事だ。

薄明かりのロビーのソファーに目を向けた。 絶句。

      つづく

回想 その5

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たばこを吹かしながら、話を聞いた。
通訳は、京都精華大学の教授。
お父さん(フゴジレトゥ氏)は「日本が嫌いだった。息子が是非日本で学びたいと言うので許可した。」
…そうだったろうな。大日本帝国軍の犠牲になった処だから。
続けて「チズカがモンゴルに来たおかげで、日本が好きになった。こうして、電車の窓から流れる街の姿を見ると、戦後の日本は立派になりましたね。」
…この言葉に、頭が下がる思いだった。

5月27日。モンゴル文字研究会開催。
入梅。大雨の日。我が次男、春(しゅん・9才)も手伝いに連れて行った。
デザイナー河村氏を中心とする、日本タイポグラフィー協会関西研究会メンバーが準備をしていてくれた。会場は、大阪の創造社デザイン学校。約2時間盛り上がった。特に、書道家の先生たちが、用意していた短冊に一人ずつモンゴル文字で、名前を書いてくださったからだ。
終了後、近くの炉端焼き店で夕食会を開いた。日本の酒は、アルコール度数が低すぎたようだった。息子春(しゅん)は、みなさんに可愛がられ、別れ際に「モンゴルに来たら、馬と羊をあげる。」とまで、言っていただいた。

《第5章》 内蒙古に立つ

スーチンドロンは、京都精華大学卒業の年をむかえようとしていた。就職先をどうするか…
友人知人に紹介するも…だれも、良い返事はくれなかった。
… 僕は、何の役にも立たなかった。
彼は、頑張った。唯一残されている自分の力量、モンゴル料理を広める。よく夫婦で頑張った。大阪市内の片隅で、小さなモンゴル料理店を始めた。開店の時に、岡山の産婦人科医院長山縣猛日氏が送ってくれた紹興酒を妻の運転する車に積んで、家族と共に駆けつけた… 楽しい、オープニングだった。

1997年2月7日。45歳。母下枝(享年84)他界。
夏。初盆。弟康弘(ピアニスト)から、連絡が入る。
「兄ちゃん、一緒にモンゴルに行ってくれる?写真撮影と、取材してほしい…。」との事だった。
弟は、ピアノの演奏活動を通じて、ピアノの修復をし、沢山の地域や国に贈っていた。モンゴルにも6台寄贈すると言う。
「パスポートはあるから、スケジュール表を送ってくれ。」

  つづく

回想 その4

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車窓は、もう暗くなり、外の景色は見えなくなった。電車の中の方が明るい。前の座席の女の子たち、どう見ても、先ほど会った様な… でも、会話が、完璧な大阪弁。 … なんとなく 眼と眼が合った。
「河野さん」 エッ!ガーン!
普段着の あの 受付の 受付に居た、可愛いモンゴル衣装を着た女性(チズカちゃん)だった。頭の中が、ガッタンゴットン。
大笑いしながら京阪三条駅着。別れて帰宅。行って良かった。
こうして、モンゴルの青年スーチンドロン君との家族付き合いが始まった。

《第4章》 モンゴル文字研究会大阪にて

当時、奈良県生駒市に自宅兼アトリエを構えていた。
よく二人は、遊びに来てくれた。
モンゴル書道と話を携えて。まだ元気だった、母にもモンゴル茶を振舞ってくれた。子供たちも、よく可愛がってくれた。…楽しい日々だった。
私は、再度、集めていた世界の文字資料に目を通し、モンゴル文字完成までのヨーロッパからアジアの民族との関係や、その年表をまとめた…偶然、居合抜刀術の妹弟子(梅田女史)がチンギスハーンの歴史ビデオをくれた。何回も観ながら時代背景を確認していた。
そうこうしている間に、スーチンドロンから話が出た。
1995年。43歳。(阪神大震災のあった年)
「在学している京都精華大学の招きで、5月に内モンゴルから書道家がきます。モンゴル書道の大家です。母もその一人です。父は詩を創り、本も書いています。」 …なんと言う事だ。会える。
さっそく、日本タイポグラフィー協会関西研究会の若手デザイナー達に伝えた。彼らは、協力的だった。
「モンゴル文字研究会を開こう!」
5月20日頃だったと、記憶する。関西空港。来日。出迎えた。
中国国内で、なかなか出国許可が下りず、大変苦労されたようだった。
来日された方々。大書道家、アイリィトゥ氏。書道家、ジグジト氏。作家、フゴジレトゥ氏(お父さん)。書道家、オトンゴワ女史(お母さん)。の4名。
紹介を受けながら、5分も経たない内に、肩を抱き合いながら、出会いを喜んだ。
大阪に向かう車中。たばこを吸う仕草をして、喫煙コーナーに向かった。すると、みなさんが付いてきた。どうやら、長時間の禁煙が辛かった様だ。
たばこを吹かしながら、話を聞いた。
通訳は、京都精華大学の教授。
お父さん(フゴジレトゥ氏)は「日本が嫌いだった。息子が是非日本で学びたいと言うので許可した。」
…そうだったろうな。大日本帝国軍の犠牲になった処だから。
続けて「チズカがモンゴルに来たおかげで、日本が好きになった。こうして、電車の窓から流れる街の姿を見ると、戦後の日本は立派になりましたね。」
…この言葉に、頭が下がる思いだった。

5月27日。モンゴル文字研究会開催。
入梅。大雨の日。我が次男、春(しゅん・9才)も手伝いに連れて行った。

  つづく

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