三国志のお話し

久方ぶりにのぞいてみたら使い方がよくわからなくなってる。ちょっとリハビリが必用かな…。

三國志

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孫皓の灌仏

衛兵が後宮の土の中から金像をひろってきたので、孫皓はこれを廁に置き、四月八日に灌佛と称してオシッコをひっかけたところ、タマタマが腫れ上がって絶叫した、とある。これが有名な孫皓の灌仏^^
→『出三藏記集傳上卷第十三』/康僧會傳第四
衛兵入後宮治園。於地中得一立金像。高數尺。以呈使著廁前。至四月八日。至廁污穢像云。灌佛訖。還與諸臣共笑為樂。未暮陰嚢腫痛。叫呼不可堪忍。太史占言。犯大神所為。群臣祷祀諸廟。無所不至。而苦痛彌劇。求死不得。綵女先有奉法者。聞病。因問訊云。陛下就佛圖中求福不。舉頭問。佛神大耶。綵女答。佛為大聖。天神所尊。心還悟。具語意故。綵女即迎像著殿上。香湯洗數十遍。燒香懺悔。於枕上叩頭自陳罪逆。有頃所痛即間。

これはなかなか大事な記録で、正史である『呉書』劉繇伝には、陶謙配下の
笮融が仏寺を建立。銅人を造り、黄金を塗り、錦の衣を着せたとあり、仏像の記録としては最古の部類なのだとか。
六朝時代というのは、儒家伝統の政治や道徳といったものへの感心が著しく低下し、総体的に文学や芸能といった世界に傾倒する者が多くなっていったとのこと。三国時代の建安七子はまさに草分け的存在で、さらに三曹といえば漢詩の土壌を固めた始祖的な存在でもある。
後漢を通じて潜伏を余儀なくされていた仏教が、怒濤のごとく社会に浸透して行くのもこの時期なのだとか。
孫皓の灌仏の記録もそんな世相を反映してのものか。

【参考】
樋口隆康先生『大陸からみた古代日本』
森三樹三郎先生『中国思想史(下)』

肩書きのはなし

中華街に行くと必ずあるのが関帝廟、まつられているのは三国の英雄関羽。
清代には皇帝から「忠義神武霊佑仁遊勇威顕護国保民誠綏靖翊賛宣徳関聖大帝」という二十六字の称号を得ているそう結社系からは「関恩主」。道教では「協天大帝関聖帝君」。仏教では「伽藍関菩薩」。財神としての関羽は乾隆帝が封じたという説話があるようです。

肩書きが桁違いなのは司馬温公、『資治通鑑』に記してある肩書きを高島俊男先生があげておられる「端明殿学士兼翰林侍読学士太中大夫提挙西京嵩山崇福宮上柱国河内郡開国公食邑二千二百戸食実封九百戸賜紫金魚袋臣司馬光」、、、。
素人の僕にはもう何が何だかさっぱりですな…。
我が国で一番長いのは百人一首に出てくる「法性寺入道前関白太政大臣藤原忠道」というものよし。
こちらは可愛らしいものです。
【参考】
高島俊男先生『お言葉ですが…②』
二階堂善弘先生『中国の神様』『道教・民間信仰における元帥神の変容』

久々の投稿。
同じ様なことを前にも書いてたような気がしないでもないけど、そこはご愛嬌ということで^^
ブログの使い方がよくわからなくなっちゃってるので、リハビリしながらぼちぼち再開したいと思います。

荀(天下のボンボン

醜名でもいいから歴史に名を残したい、無名よりはまし。
というのが昔の中国の文人の本音じゃなかろうか。
そんな中、荀は自分の功績を示す書類を臨終に際し焼かせたとある。
なぜそのようなもったいないことをしたのか?荀の生い立ちを考えてみよう。
 
荀のお父さんは、荀氏の八龍と号された荀緄。
「張璠漢紀曰、叔有八子、儉緄抱汪爽肅旉。… 時人號曰八龍。」【世説新語/行】
叔父さんは董卓のもとに仕官して、九十五日で司空になったというスピード出世の荀爽。
「張璠漢紀曰、董卓秉政、復徴爽、… 起布衣、九十五日而至三公。」【世説新語/言語】
生まれ育った環境は申し分ない、荀自身の才能も申し分無し。
曹操がのどから手が出るほどほしがったというのは、荀の才能もさることながら、高島先生がおっしゃるように荀氏という名門に付随する名声や人材もあるのではなかろうか?
このように荀とはスタート時点で既に満ち足りた人であった。
書を残して俺は凄いんだと吹聴する必要すらない稀代のうらやましい人。
天下のボンボンである。

荀にみる中国の軍師像

昔書いた記事で、抜粋して書き直した方がスッキリするなあと思われるものを何点かあげていこうと思う。
今回は荀に関すること。
 
日本で軍師を想像すると、山本勘助や竹中半兵衛などを思い浮かべるでしょうか。
 
それでは本場中国での軍師というと誰を思い浮かべればいいのでしょうか。
僕が思い浮かべるのは、曹操に「吾が子房なり」と称された荀。
子房とは、漢の高祖劉邦の軍師で、中国史上もっとも有名な軍師のひとり。
一般に日本人は軍師というと、つねに前線で将軍に戦術を献策する補佐的な人を思い浮かべる人が多いと思う。
しかし張良とか荀とかいった方々はちょっと違う。
張良は劉邦から「はかりごとを帷帳の中にめぐらし、勝利を千里の外に決する」と称され、『史記』留侯世家に「張良は多病で、かつて将軍になったことがなく、常に画策の臣として、ときどき漢王に従って出陣したにすぎなかった。…良は、かつて戦闘の功がなかった」とある。
張良にみられるような軍師像とは、後方から、将軍や、ときには君主をすら前線におくりだし、自分の戦略にしたがわせるというまことにもって気位の高い文人のことである。
これによれば、常に曹操に付き従い局面ごとに戦術を献策した郭嘉は、軍師としては多少格が下がると言わざる得ない。
曹操が「吾の子房なり」と称したのは、まことにもってごもっともなのであります。
 
荀の軍略は、たぶんに優れていたのだろうけど詳細なところは残念ながらうかがい知ることができない。
『魏書』荀傳に文書をもって意見を具申したが、臨終にさいしすべてを焼却させた。そのため、奇策や密謀のすべてを知ることができなくなった」とあるのをみればその理由がわかる。
後世の史家が記録すべき書面が残っていないのである。
我々は荀の功績を曹操の実績から推察するより他は無い。
まことに残念な事であります。
 
諸葛亮も本来ならこのタイプ。
けっして前線で応変の才をふるうタイプでは無い。
イメージ 1
 
ちょっと時期がズレちゃいましたが、正月というとお屠蘇がありますね。
曹操が広めたということになっているらしい。
曹操というと酒造のお話がでてきますが、たぶんこのお屠蘇の故事から派生した俗説なのでしょうね。
それは置いといて…。
 
お屠蘇の話が出てくるのは、葛洪(284−363)の『肘後方』に引く晋の陳延之の『小品方』に、
屠蘇酒 此れ華陀の方なり 以て伝えて曹武帝に授け 専ら世に行う
元旦 之を飲めば疫癘一切の不正の気を辟く
とあり、屠蘇酒というのが初見であるようです。
酒造法と飲み方は、
赤朮 佳心七銭五分 防風一両 菝葜五銭 蜀椒 桔梗 大黄五銭七分 鳥頭二銭五分 赤豆十四枚を用いる
三角の絳嚢を以て之を盛る
除夜 井底に懸け 元旦に取出し 酒中に置き 煎じること数沸 家を挙げて東向す
小より長に至り次第して之を飲む
薬剤は還し井中に投じ 歳歳此の水を飲めば 一世病無し
とあります。
 
関西の方で、子供が毒見をする云々は、文献を読み誤ったのでしょうかね。
なお、関東ではただのお酒をお屠蘇と言っておりますが、これは面倒くさがって手抜きをしたのでしょう。
関西の方では、まだ名残りが感じられるようです。

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