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江戸から東京へ

江戸・東京庶民の楽しみ 96
江戸から東京へ
・まだ江戸時代
 1868年の正月は、正確に言えば明治元年とは言えない。改元が九月八日だから、この年の正月は、江戸時代最後の正月となった。
 正月三日に始まった戊辰戦争で幕府軍は大敗し、将軍慶喜は江戸に逃げ帰った。このことは、テレビやラジオがない時代であっても、たちまちのうちに知れ渡った。おそらく、江戸市中は、斎藤月岑の言葉を借りれば、「人心おのづから穏やかならず」(『武江年表』)という状況だったのだろう。二月に入ると、将軍は上野寛永寺に閉居し、上野山内は締切られた。花見時にもかかわらず人々は立ち入ることができなくなった。もっとも、両国橋詰では大坂から来た女の足芸の見世物がでるなど、他の行楽活動については従来と変わりなし。ただ、例年であればあちこちで催される開帳(寺社の仏や神など普段見ることのできない宝物を参詣人に拝観させる催し)が、許されなかったこともあって春の行楽は今一つ盛り上がらなかった。また、東海道は駿河遠江あたりから発祥したらしい「花万度を持って踊る」という騒ぎも、江戸では流行するに至らなかった。
・世相を反映する子供の遊び
 四月、八丁堀亀島橋と霊岸島東湊町高橋との間で、子供同士の喧嘩があった。成り行きを見物する人が道路に集まり、黒山のようになった。こうした戦いは、当時一種の遊びになっていたらしく、グリフィス(『明治日本体験記』著・山下英一訳)によれば、数百人にもの規模になることがあった。子供たちは、背中に旗を背負って、頭に土器(カワラケ)を縛り、敵の土器を叩き割ることを争った。この遊びはいつも盛り上がったが、残酷過ぎるので明治政府が禁止したという。
 閏四月、諸藩区に詰めとなり、江戸市中は急にさびれ、自警団も作られた。江湖新聞の「江戸市中之御救米被下候御書附」によれば、江戸市中貧民御救人別書上人数が凡そ43万人ほどとされていた。男子に5升、女子に3升づつ与えると、平均一人4升と見積もって、米高17200石とある書かれている。江戸庶民の生活は、かなり困窮していたものと思われる。
 さて、錦の御旗を翻した官軍は、ついに江戸の町を占拠。四月に江戸城明け渡し、五月には上野で官軍と彰義隊が一戦を交えた。この戦いは、歴史的に重大な意味を持ち、かつ壮絶な戦いであったが、江戸庶民にとっては大火事程度の認識しかなかったようだ。決戦の当日には、見物人が群集し、彼らを相手ににぎり飯や沢庵が売られたという信じがたい話もある。官軍や彰義隊が、庶民を標的にすることはないとわかっていたからこそ、江戸っ子たちは野次馬根性丸出しで戦争見物に出かけたのだろう。福沢諭吉の『福翁自伝』によれば、諭吉自身も常と変わらず塾で経済の講義などを行っていた。ようするに、上野周辺を除けば、江戸の人々が砲火に逃げまどい、騒然となるほどの緊迫感はなかったようだ。
・明治時代が動きはじめる
 六月に入ると、町々の境に設けられていた木戸が廃止され、番人もいなくなり、夜間でも自由に行き来できるようになった。そういった様子から、江戸の庶民は、幕府よりはものわかりのよい政府だといった感触を受けたのではなかろうか。両国川開きに花火が許可されたこともあって、数多くの船が繰りだされている。その後に続く山王権現の祭礼は、徳川家の祭だから、これは当然延期された。また、七月になると、江戸を東京と改称する詔書が出されている。
慶応4年1868年 
2月 上野山内締切り、諸人入る事ならず。花の頃も遊観なし。
2月 常陸筑波山開帳
2月 人気若手女形の三代沢村田之助、守田・中村・市村三座出演するが不入り
3月 上野山内締切り、花見の頃も立ち入りできず
3月 寄席でピストルを発砲し興業の妨害をする
春  両国橋詰で女の足芸の見せ物出る
春  東海道駿河遠江で守護札が降って始まった伎踊(オドリ)等が江戸にも及ぶ
4月 浅草矢崎本覚寺祖師開扉、十七日から30日間
4月 外神田結城座で女歌舞妓芝居興行に見物人多数、また寄席では長唄を聴かせる
4月 八丁堀亀島橋と霊岸島東湊町高橋との子供が喧嘩、道路に見物人の山ができる
4月 浅草奥山で活人形内を興行
4月 麹町九丁目心法寺境内で曲馬の見世物
閏4 江戸市中之御救米被下候御書附、辰四月、江戸市中貧民御救人別書上人数 凡そ43万人程、一人4升宛之見積て 米高17200石 尤男五升女三升宛之割り
6月 両国川開き、花火許可、船多数出て、水陸ともに賑わう
6月 日吉山王権現を日枝大神と改称、祭礼延びる
☆この年のその他の事象
1月 鳥羽伏見の戦い
1月 11日夜、蒸汽船にて将軍還御
   17日より、市井救火の人夫をして、砲術調練の足並を習はせる
2月 上野寛永寺に将軍慶喜が閉居
2月 「中外新聞」創刊
2月 東京府、猥褻な図画・見世物・器物の売買・興行や男女の混浴を取り締まる
2月 「太政官日誌」創刊
3月 五箇条のご誓文
3月 神道仏道混淆を禁止
3月 東京府、府下戸籍改正、脱籍無産者取り締まる
3月 東京府、府内を50区に分け、名主を廃し、中年寄・添年寄とする
   この頃より、諸侯井びに妻室、大方在所へ帰国あり、御旗本衆も知行所へ趣かれたる輩多し
4月 江戸城が開城される
5月  江戸府が設置される
5月 町奉行を市政裁判所、社寺奉行を
5月 社寺裁判所、勘定奉行を民政裁判所とする
5月 上野戦争、官軍が彰義隊を破る、戦火止む
6月 町々の木戸廃止
6月 上野山下の床店、請負継続の許可を新政府から受ける
・上野戦争(『武江年表』より)
 ○同十五日、雨天、暁より官軍東叡山に向はれ、山内に籠り居りし彰義隊と号せし脱走浪士と戦闘あり、谷中辺を始めとして大砲を放され、又三枚橋通へ押寄せ、双方より大鮑を発して戦ひに成り、夜に至り山門其の外に火を放つが故、惜しむべし、さしも甍を並べて壮麗たる根本堂、多宝塔、輪蔵、鐘楼、常行堂、法華堂、文珠楼(山内)、御本坊、寺中は本覚院、凌雲院、寒松院、涼泉院、覚王院、顕明院、明教院等、倶に舞馬の阨に罹り、片時の間に烏有となれり。清水堂山王社時の鐘、慈眼堂、大仏堂、忍岡稲荷社等は残る。右戦争夜半に及び、浪士大半亡び、又は逃亡して一挙に鎮まれり(寒松院は、浪士の病人、其の外焼死人多く、共の数を知らずとぞ)。本尊瑠璃光仏は退せられたり。瑠璃殿幷びに吉祥寺の勅額、寛永寺の御宸翰、さまざまの宝器仏具等多く焼け失せたる由なり。此の兵燹、大谷山下等の町家寺院に及ぼし、三枚橋、北は瀬川屋敷、五条天神官、元二王門前御家来屋敷、啓運寺、車坂町、浅草寺町の辺町屋寺院、御徒士屋敷、南は黒門町、大門町、常楽院、仲町お数寄屋町、西は谷中善光寺坂、三坂寺の辺に至る迄、町屋寺院悉く焼却せり(此の辺の輩、財を運ぶに暇なく、漸く命を全うして逃ぐるのみなり。その翌日、山内のさま街の騒劇おもひやるべし。所所通行止り、江戸中の商家も大方なりはひを休みたるもの多し)。
○同夜、番町に放火三度程有り(頓に消したる由なり)。
○同十六日夜、赤坂氷川社の近辺にて、御旗本銃隊頭多賀氏、斎藤氏の邸へ浪士大勢集り、大砲を発し、戦争に及びしにぞ、火事に成りたり。されど間もなく鎮まる。
○同十七日、飛鳥山の辺落武者を討留るのため、官軍御固あり。

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改元前年の庶民

江戸庶民の楽しみ 95
改元前年の庶民
・来年は明治時代
 慶應3年の江戸庶民には、来年が明治時代になるなんて思いもつかない。元号が変わっても、庶民の生活が何ら変わらないことは、平成から令和になった時でも同様である。当時の情況といえば、孝明天皇が前年の12月25日に、崩御されたことがどのくらい伝わっていたのだろう。庶民がわかったのは、正月の5日より天皇家の服喪のため鳴物停止が伝わったからであろう。それも、鳴物停止が元日からではなく、5日になった経緯も、庶民にはわからなかったことであろう。そして、昨今の平成から令和へと年号が変わる年の瀬の騒ぎに比べると、平静であり、例年と変わらぬ正月を迎えていた。
 慶應3年は、第二次世界大戦末期から戦後にかけての時期とならぶ、日本の大変革期直前の時期である。幕末の江戸は、政治的な空白によって治安だけでなく経済的にも混乱していたことは確かであるが、第二次世界大戦末期の庶民を巻き込んだ、東京の混乱とは違うような気がする。それは、江戸庶民の大半が三度の食事にも不自由し、生活に困っていたにもかかわらず、何か精神的なゆとりが感じられるからである。が、残念ながら生きる喜びを忘れない、こうした楽天的な庶民の性格について、歴史のなかではあまり触れられていない。
 一般に、国民の多数を占める庶民が何をしていたか、何を求めていたかというようなことは、意外と書かれていない。書かれているのは、上流階級の人々、支配者層の生活が多く、その人たちの生活体験が国民の一般のものとすり替えられているような気さえする。たとえば、幕末の治安の悪さに怯えていたのは、富裕な江戸の町人であった。実際、黒船の来訪で逃げまどったのは、家屋敷のある武家や町人で、大半の庶民は逃げたくても逃げる場所がなかった。
 このように慌てふためいて行動を起こした人々はほんの一部の人で、江戸に生活している大多数の人々からは、際立って見られたのではなかろうか。むしろ稀であったために、関心が持たれたと考えられる。確かに、黒船来訪に人々が逃げまどうというようなことは、時代を象徴する光景で、事件として後世に伝える価値がある。逆に、地味で変化に乏しい庶民の生活については、歴史的には関心が低くなるのは当然だろう。しかし、庶民の生活を知るというのは歴史をふり返る上で本当に価値のないことであろうか。
 国民の大半を占める人々がどのような生活をしていたかきちんと把握していないと、江戸時代の色々なことが歪んで伝えられることになる。近年、江戸時代を見直そうとする動きが出ているのも、当時の大衆が貧しいだけの救いのない生活を営んでいたと決めつけてかかることに疑問を持ち始めたからである。たしかに日本には明治になるまで米を食べていなかった村々がたくさんあった。が、米を食べられないということが人々が生きていく上で、本当にそれほど不幸なことなのか。物質的な豊かさはなくても、風土に合った清潔な暮らしが可能で、仲良く平和に暮らしていた人々が数多く存在した。このような実情は見落とされがちであるが、江戸時代のもう一つの側面であり、多くの非凡な事件と共に後世に伝える必要がある。
 ただ、やはり庶民の生活については、歴史書や文献などに残されているものは少なく、不明な部分が多い。庶民は何を求めて生きるかというような哲学意識は希薄であったと思われる。大半の人々にとって、その日その日を楽しく過ごすことがすべてで、一日が無事に終わることがなによりであった。そこで、庶民が求めた遊楽がどのようなものであったかを縁日から探ってみよう。
・いつもどこかで開かれている縁日
 幕末の江戸の人々、特に下層の庶民にとって縁日は、日常生活に欠かせないものであった。本来縁日は、神仏に縁を結ぶ日で、この日に神仏を念ずれば、特別の利益があると信じられていた。社寺も人々の参詣を促すために法会や開帳を行い、期間中は市も立った。縁日の参詣は、宗教的なものであったが、次第に飲食や娯楽をともなうようになり、市での買い物も楽しみの一つになっていった。
 江戸の縁日は、毎日どこかで催され、一年中ほとんど切れることなくあったようだ。多い日には同じ日に、江戸の各地に縁日があり、特に奉公人の藪入(休日)と重なる閻魔参りには、百箇所に及ぶとされていた。『東都歳事記』(斉藤月岑)には、当時の縁日の繁昌ぶりや数多くの縁日がいつどこで催されるのかが詳細に記されている。また、『江戸名所図会』(松潯軒長秋編輯 長谷川雪旦図画)の「茅場町薬師堂の縁日」を見ると当時の様子が想像できる。ネット通販はもちろん、スーパーマーケットやコンビニエンスストアなどのなかった江戸時代、日中は忙しく働く職人や雇い人などにとって、縁日は、夜の憩いの場や日常必需品を得る場として不可欠なものであった。
 しかし、このように江戸町人のほとんどが訪れていたと思われる縁日だが、それに関する資料は意外に少ない。あまりにも日常的なために、かえってか、誰も特別の関心を持って観察しなかったからなのだろう。江戸の縁日がいくつあったか、またどのくらいの規模であったか、数などは不明な部分が多い。『武江年表』を書いた斉藤月岑も、開帳や芝などの動向には注目していたが、あまりに多かったせいか縁日については、新たなもや特別なものに触れている程度であまり関心がなかったようだ。
 ところで、元治元年(1864)七月二十五日に、長州征伐につき、神事・祭礼・鳴り物を見合わせるという触が出された。八月八日から、長州屋敷の取り壊しがはじまった。屋敷内には、巨木、豊太閤より給わりし石灯籠などがあって惜しいことだと月岑は『武江年表』に書いている。これによって縁日などもまったく催されなくなったのだろうか。『武江年表』によれば、七月二十三日に前年火災に遭った湯島天満宮に本社が建立し、二十三日の夜に正遷宮され、二十七日に祭礼執行とある。長州屋敷の後片付けが終わる八月十六日までは開帳などはないが、十七、十八日には芝金地院観音開帳がある。そして、この頃、斉藤月岑は浅草へ参り、鮨を食い、朝顔を見物している。
 慶応年間に入って、諸物価の値上がりや町会所の窮民への施しがあり、世情は必ずしも安定していないが、江戸の数多くの縁日は多分、行われていたのだろう。正月には浅草奥山で秋山平十郎作の生人形が、二月には回向院境内で百日芝居興行、三月には浅草の三社祭が盛大に行われている。このように、江戸の中心的なところで祭礼があることから、縁日は庶民で賑わっていただろう。九月の神田明神祭礼は仮祭であるのに神輿などが持ちだし、氏子らが罰金を徴せられているし、猿若町で芝居寿狂言興行が行われている。十一月には、雑司ケ谷鬼子母神境内鷺明神で酉の祭がはじまり、賑わっている。
 慶応二年(1866)、正月からは見世物、相撲、歌舞伎などがあることから、縁日も江戸の町々にあっただろう。五月の末から六月の始めにかけて打ちこわしがあった。両国では見世物が人気無く興行が打ちきられているが、回向院では開帳があった。このことから、打ちこわしのなかった浅草や両国、雑司が谷などでは縁日が開かれていたものと思われる。七月以降も開帳や見世物があり、縁日の情報は、外国人とのトラブルがあった上野大師の縁日の賑わいが残っている。また、冬には無断で富突興行をあちこちの社寺でやっていたことからも縁日のあったことが裏付けられる。
 慶応三年(1867)になると、正月は鳴り物停止などの触が出て、盛り場は静かだったとされる。しかし、川崎や亀戸天満宮は、人が多く出たというように、祭礼は盛大とはいかなかったが、民間の催しにはそれなりに人出があったようだ。春になっての芝居や見世物、夏の納涼とあり、秋になっても安政の大地震の十三回忌の法要が諸宗の寺院で行われ、十一月には、浅草寺観音堂が修復し遷仏供養などがあって、多数の参詣があった。幕府は大政を奉還し、江戸を混乱させようと札が降ったりする中で、仏事は行われ、縁日もあちこちで行われていた。

★慶應3年1867年 
1月 5日より天皇家の服喪のため鳴物停止、早春世の中は静寂に過ぎる
2月 初午稲荷祭いっさい執行なし、3月末又は4月に執行する
春頃 回向院境内・西久保普門院境内で、百日芝居興行
3月 回向院で勧進相撲
4月 浅草寺観音堂修復につき本尊を念仏堂へ移す.奥山で見せ物出るが見物人少数
     芝金杉円珠寺境内で百日興行
   牛込原町円福寺で中山法華経寺鬼子母神開帳(60日間)
   外神田繰芝居興行、間もなく止む
6月 神田三天王御旅出なし
   赤坂氷川明神祭礼、神輿出る
   両国橋畔納涼、殊に賑わう.花火はなし
8月 彼岸中雨が続き、六あみだ参礼所観音参り等は参詣人わずか         
8月 浅草田畝立花侯下屋敷鎮守太郎稲荷社に参詣群衆し始めるが次第に廃れる
9月 神田明神祭礼、神輿行列のみ神田橋より先に入らず、山車練物なし
10月 安政2年の震災から十三年の忌辰に当り諸宗寺院で法事修行、参詣あり
10月 芝金地院開帳、杓子を与える
11月 浅草寺観音堂修復終了、遷佛供養あり、信心の男女群衆する
11月 回向院で勧進相撲
    芝金地院観世音開扉、杓子を与える
冬頃 夜中、屋上や塀の中へ神仏の守札が散り人心を惑わすも、沙汰あり、やがて止む
冬頃 銃隊調訓練次第に盛になり、調練場に着くまで西洋風の太鼓を鳴らして群行する
○東両国常葉町の「蛇の目寿司」有名に
☆この年のその他の事象
2月  外国人への投石などが厳禁される
5月  外国人の劇場や茶屋等の出入許可
5月 洋傘がはやりだす       
6月 治安上、上野山内が閉鎖される
7月  築地居留地の開設が始まる
7月 四谷、新井宿の五関門が廃止
8月  楮幣が発行され、通用開始
9月 人口増で、三階建て住宅を許可 
10月 「ええじゃないか」が流行るが江戸では盛り上がらず      
10月 大政奉還
10月 江戸と横浜の間に乗合汽船運行
12月 王政復古を宣言        
12月 薩摩藩屋敷の焼き討ち     

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江戸の打ちこわし

江戸庶民の楽しみ 94
江戸の打ちこわし
・打ちこわしと一揆
 慶応の打ちこわしを詳しく見てみよう。まず、打ちこわしの発生する前の江戸および周辺の状況をいくつか具体的に示す。
 慶応二年、江戸市中には、米の高騰や売り惜しみをする者の処刑を宣告する張札が三月に出る。四月、五月にも打ちこわしなどを予告する張札があった。五月十日には、米の安売りを予告する偽の掲示があったが、町役人などが訪れた人々を制して事なきを得た。
 江戸近郊の村々では、五月十八日、荏原郡八幡塚村の鎮守境内で、困窮人4〜50人が名主らに金を出させて米の安売りをさせる。二十三日、同じく荏原郡堀之内村で名主宅を打ちこわし、米屋に安売りを承諾させる。二十四日、大井村御林八幡宮に百人余が打ちこわしのために集まり、「身元よき者」より三百三十両出金させている。
 そして、ついに江戸の打ちこわしがはじまった。二十八日、午後八時頃、手拭いで顔を隠した一人の男が南品川宿の御獄町稲荷社に来て、太鼓の借用を頼んだ。断られたが無理矢理持ち出し、馬場町東岳寺境内に運んで打ち鳴らしはじめた。すると、どこからともなく人々が集まり、南品川宿、北品川宿、品川歩行新宿など打ちこわした。また、北品川にもどって、東海寺門前・御殿山で打ちこわした。人数もはじめ20人ぐらいだったのが、おわりには180人ぐらいになっていた。打ちこわしにあったのは、質屋、米屋、酒屋など40余軒であった。
 二十九日の夜十時頃、人集めの太鼓が鳴り、この日は約4〜500名が集まり、本芝(現在の港区)の二二ヶ町で六七軒の打ちこわしが行われた。六月一日には、午前三時頃より、同じ芝で、19軒の打ちこわしがあり、店の商品を散乱させ、六時頃逃げ去った。二日は、牛込、四谷(現在の新宿区)などで25軒、麻布で26軒が打ちこわされた。三日は、堀留町、牛込中里町、早稲田町、馬場下町、鎌倉横町などで打ちこわしがあった。さらに、四日は本所茅場町、四谷伝馬町、五日は本所緑町、六日は赤坂で打ちこわしが続いた。打ちこわされた家は、質屋や米屋、酒屋の他に横浜貿易で利益を得て日頃からよく思われていない唐物渡世業者などの裕福な町家であった。
 江戸の打ちこわしがようやくおさまった直後(六月十三日)、武州世直し一揆が秩父郡名栗村からはじまった。穀物を食いつくした村民が、座して死を待つよりは、と蜂起。名栗周辺より農民2〜300人が飯能川原に結集した。碗箸杓子の絵を描き、「世直し」と記した大文字の幡か、あるいは「平均世直し将軍」と太筆で記した幡を真先に押し立てて、飯能村の四軒の籾屋を打ちこわしたのを機にはじまった。以後、一揆は拡大し、十万人規模になったとされている。
・誰が打ちこわしたか
 さて、市中の打ちこわしに先立って行われた村々の騒動の実行者は、被害を受けた名主などによって身元がわかっている。それでは、打ちこわしの実行者は、どの程度確認されているのだろうか。最初の品川宿では武家、町人、中間躰の者が入りまじっていたとある。その他、印半天などを着た職人、または肴屋らしき者、弁慶縞の単物を着た若衆などという記述もあることから、打ちこわしはその日ぐらしの貧民層で職人が多かったようである。それも、遠方の者ではなく、付近に住む難渋者たちらしかった。また、六月二日に捕らえられたとされる三人は、俗に言うごろつきであった。
 職業のはっきりしていたのは、六月五日、赤坂の打ちこわしをして召し捕られた、塗師、竜吐水屋、鳶職、八百屋などである。しかし、この日、打ちこわしの見物禁止の町触も出されており、つかまった8人が、果たして見物人か参加者かという疑問は残った。
 江戸の打ちこわしは、噂があると大勢の人数が集まってきた。そして打ちこわしを制止することもなく傍観していた。打ちこわしの人数は様々で、10人から120人ぐらいが多かったようだが、なかにはたった2人でこわしたというのもある。六月五日の本所の質屋の打ちこわしは、十二、三歳の子ども7人から始まった。このように、大人に混ざって子どもの参加もあった。なかには、十五、六歳の男子が屋根の上を跳ぶように自在に走り回って指示していたという記録もある。
 打ちこわしが具体的にどういうものかというと、昼間町内の者が質屋や米屋にやって来て、施しを乞う。それを断ると、今晩こわしに来ると言って立ち去る。また、朝から何となく人数が集まり、はじめは子どもの中に大人が混じっていて遠巻きに見ていたのが、若衆が長暖簾を引きちぎったのを合図に見物人がどっと声を上げてなだれ込むなど、形は様々であった。ただ、共通するのは、家財を打ちこわす、商品を散乱させるなどが中心で、いわゆる盗みが目的ではなかったこと。また、打ちこわしには、必ずといっていいほど多数の見物人がいて、打ちこわしに声援を送っていることである。
 ここで、注目したいのは、江戸の打ちこわし(五月二十八日)より前に行われた近郊農村の実力行使では、米の安売りをさせたり、金を出させるなどしていた。ところが、品川から始まる打ちこわしは、米や金などを取るよりものを壊すことが目的となっていた。そして、庶民は打ちこわしを見物しているだけで、米や金を貰うという実質的な恩恵をなにも得ていない。
 一方、武州世直し一揆は、高利貸、外国売買の商人、宿々籾問屋、高利質屋などを対象としたが、人身殺傷はなかった。一揆といっても、下層農民だけでなく職人を含み、村役人の指導もあり統制がとれていた。各村の一揆の要求と目標は共通し、一揆は行く先々でその地の人々と交代し、前の組は自分の村に帰るというように、村同士の連帯が図られていた。
 江戸の打ちこわしは、連鎖的に発生しているが、革命を目指すものではなく、日頃のうっぷんを晴らすという感情に支えられていたように見える。打ちこわしに参加した人々は、生活に困窮していたはずだが、なぜか略奪行為はしていない。打ちこわしを行なうのは、近在に住んでいる困窮民だったと言われているが、打ちこわしにあった家の顔見知りの者ではなかった。打ちこわしにあった家の人は、犯人を見ているが以前会ったことがないとしている。もし、近くの住民であれば、見物していた近所の人は、犯人を密告するか白状させられているはずだ。なお、実行者は必ずしも町人だけではなく、首謀者はわかっていないものの、計画的なものもあったとされている。
 江戸の庶民は、幕末の騒動を常に見物していたのは確かだが、中心となって行動したのかというとどうもそうではないようだ。江戸の打ちこわしが、庶民の生活苦から自然発生的に起きたという見方には、やはり疑問が残る。打ちこわしの終結は、触れが出されたからというよりは、打ちこわしが庶民の暴動を誘発させるに至らなかったためではなかろうか。

★慶應2年1866年 
1月 浅草奥山に活人形やゼンマイからくり人形等が出る   
1月 芝白金清正公前明地に牝ライオンの見世物       
2月 茅塲町薬師境内花角力、大繁盛            
2月 守田座で『富治(フジト)三升扇曽我』「いかけ松」大当たり
3月 南傳馬町辺りで年少者の歌舞伎狂言を催し賑わうが中止 
3月 回向院で勧進相撲                  
3月 浅草寺蔵前で活人形の見世物出る(膝栗毛ノ人形、遊女ノ湯浴ミ姿ナド)  
4月 座元薩摩吉右衛門等は米沢町で興行を許され、大入り  
4月 小石川白山権現社内で百日芝居興行          
5月 両国橋東詰で西洋伝来木匠の器械の見世物、流行らず  
5月 猿若町三座の芝居興行中止(人通リ絶エ、揚屋・飲食店等サビレル)    
6月 神田社地三天王御旅なし、山王権現祭礼なし      
6月 本所回向院で三河国勝鬘皇寺開帳、曲馬等の見世物あり 
6月 芝金杉円珠寺境内、百日芝居興行
7月 山谷正法寺天開帳、朝参り多い            
8月 浅草御蔵前で、7歳の天神小僧が文字の曲筆の芸を見せる
9月 上野大師縁日(貧民群集シ異人ニ怒鳴ッタタメ春米屋休業)         
11月 三芝居顔見世狂言興行なし
11月 芝金地院開帳                    
11月 回向院で勧進相撲
冬頃 寺院等で無断で富突興行、場主捕らわれ催主厳刑される 
☆この年のその他の事象
1月 薩長同盟が成立
2月 上野花見の頃、山内の出茶屋が閉めさせられる
3月 市中寄席取締り通達
4月 弁当屋が流行る(調理シテ重箱ニ詰メテ売ル)
5月 医学所出張所を増設、種痘を実施
5月 物価急騰し、打ち壊しが起きる 
6月 窮民に銭を支給する      
8月 町会所で、窮民に米を廉売する
8月 団子坂で英国人と貧民が衝突、怒った群集は猿若町の方まで追いかける
9月 窮民、施しを求めて練り歩く
10月 幕府の歩兵が吉原で乱暴を働く
10月 芸人の渡航が許される
11月 吉原の遊廓が全焼する     
11月 牛を羹にして商う店や西洋料理と称する貨食舗が所々に出現
12月 徳川慶喜、15代将軍になる

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江戸庶民の楽しみ 93
お蔭参りとええじゃないか騒動                        
・伊勢参りからお蔭参りへ
 江戸時代、「お蔭参り」と呼ばれる伊勢神宮への集団的な巡礼行動が周期的に繰り返された。もともと伊勢神宮への信仰は、江戸時代以前から民衆に広がっており、参詣も年を追うごとに盛んになっていた。元禄年間(1688〜1703)に訪れたドイツ人の博物学者ケンペルは、二度の江戸参府旅行で、往復四回にわたって、伊勢参りの一団の人々に出会っている。そして、「この参詣の旅は一年中行われるが、特に春が盛んで、それゆえ街道はこのころになると、もっぱらこうした旅行者でいっぱいになる。老若・貴賤を問わず男女の別もなく、この旅から信仰や御利益を得て、できるだけ歩き通そうとする。自分たちの食べ物や路銀を道中で物乞いして手に入れなければならない多くの伊勢参りの人たちは、参府旅行をする者にとっては少なからず不愉快である。」(『江戸参府旅行日記』斎藤信訳 平凡社)と書いてあるように、伊勢参りは江戸時代の初期から盛んに行われていた。毎年行われる伊勢参りのなかで、特に参詣者の多い年がある。それは、1650年(慶安三)、1705年(宝永二)、1771年(明和八)、1830年(文政十三年)てある。この年の伊勢参りは、特に「お蔭」がいただけるありがたい年としてお蔭年という観念が発生した。
 宝永二年のお蔭参りは、少年層の抜け参りから始まったとされている。抜け参りとは、若年の者が親や雇い主に知られずに伊勢参りをすることである。若い男女が群集し、昼夜共に行動するということから、当初は是非が論じられたが、次第に習慣化し、一般の承認を得るようになった。お蔭参りに参加する人々は、年齢に関係なく、十分な旅支度をせず、路銀も持たずに家を出ている者が多かった。そのため、道中、人々の援助(施業)を受ける必要があった。伊勢街道では参詣人に無料の宿泊所が設けられたり、にぎり飯、赤飯、粥、茶、などがふるまわれたりした。なお、これらの施業には、むろん、神への「報施」とか参詣人を思いやるという動機もあったが、必ずしもそれだけではなかったはずだ。それは、施業されて当然と思う人々の、それも集団の無言の圧力が存在したに違いなく、その裏には、拒否することによって群集の略奪や打ちこわしの標的になることを恐れるといった意味も大きかった。
 宝永のお蔭参りから66年たった、明和八年のお蔭参りは、最も大規模なお蔭参りと言われ、広範な階層の人々が参加していた。また、明和のお蔭参りには、お札(ふだ)が降るという不思議な現象があり、それも大規模かつ長期にわたって現象が見られたらしい。文政のお蔭参りは、明和のお蔭参り(1771年)から59年たった文政十三年(1830)、来年がお蔭参りの年にあたるとの情報が方々に流れ、待ちきれず阿波から始まった。このお蔭参りは、お蔭年が迫っていることが早くから予知されたため、六十年目の一年前に発生していた。そして、明和のお蔭参りと同様、各地にお札が降った。また、この文政のお蔭参りには、手に手に杓をもって参詣するという特徴があった。文政のお蔭参りでは、若い女性の男装や、鬼面などの面をかぶるなど、仮装の域を超えた風俗が見られた。また、明和のお蔭参りの際には、卑猥な歌を声高に歌ったり、妙な絵を幟に立てたりというような滑稽卑猥な風俗が見られた。
・お蔭参りは偶然ではない
 ところで、お蔭参りの裏には何か作為的なものがありそうだ。柳田國男監修の『民俗学辞典』(東京堂出版)によれば、お蔭参りは、「季節は三月頃が多いようで、大体において春の遊山行楽の頃であった。」とある。日本人が春を迎えると浮かれ気分になることは古代のならいである。それは、「野遊び」として、古くは古事記や風土記にも登場し、冬から春を迎える重要な催しになっていたことが伝えられている。野遊びは、古代において、歌のかけあいや踊り、男女の交歓など民衆の最大イベントであった。万葉集の第一巻の巻頭の歌が春の野遊びの歌であったことからも、当時の人々の関心の高さがうかがえる。春になって、身も心も緩む心境は、暖房器具のなかった昔の人々でなければ実感しにくいものである。時代がかわっても、春に浮かれ気分になることは、江戸の花見などによって受け継がれている。
 そこで、比較的資料が残されている文政十三年、明和八年、宝永二年などのお蔭参りの季節を見てみよう。お蔭参りのピークは、文政が閏三月、明和が四月となっているように、たしかに春の行楽シーズンである。また、元禄年間にケンペルが何回も見た伊勢参りも春であった。
 次に、お蔭参りが六十年周期に発生しているということも、単なる偶然ではないようだ。1650年(慶安三)、1705年(宝永二)、1771年(明和八)、1830年(文政十三年)と、ほぼ六十年周期であるが、慶安三年正月より始まった慶安のお蔭参りは、前年に遷宮が行われている。そして、明和・文政のお蔭参りも遷宮の直後発生している。つまり、伊勢神宮の遷宮が行われ、伊勢参りをしたいと思う心理が働いている。それも、一生の内に一度は伊勢参りをしなければという願いも計算したものと考えると、六十年周期は単なる偶然ではない。
 明治になって、廃仏毀釈が進められ、伊勢神宮は江戸時代以上に重要視されるようになった。そのため、遷宮後二年ほどの間参宮者が増加することは、明治以降にもあった。それは、文政のお蔭参りから六十年後の明治二三年(1890)、中外商業新聞は、一月十四日付で「・・本年は、伊勢大神宮のお蔭年となるが」と記している。そして、伊勢では一月早々、関東からの参宮者がなかなか多かったとある。してみると、六十年という周期は、遷宮という行事が意識されたものだと考えられるのではないだろうか。
 お蔭参りや後述する「ええじゃないか」を、民衆の開放運動として考える説もあるが、それよりもお蔭参りは、風土に導かれた現象、さらに言えば、春の到来に気持ちか浮き立った人々が起こした自然発生的な現象と考える方が自然ではないだろうか。
・企てられた「ええじゃないか」
 さて、いわゆる慶応三年(1867)に「ええじゃないか」騒動という、伊勢参りはしないが、お蔭参りに非常によく似た民衆行動が起きた。もちろん、「ええじゃないか」騒動は、六十年周期とも遷宮とも無関係に発生している。この「ええじゃないか」は、ええじゃないか踊りとも言われ、慶応三年八月中旬に尾張、三河、遠江の三ヵ国から始まったとされている。この時の特徴は各地でたくさんのお札が舞い、それも伊勢神宮のお祓いだけでなく、種々雑多な神札、神像に及んでいることに特徴がある。
 さらに、いずれもその土地における民衆の踊りを踊ったのが特徴である。正装や化粧をして踊る地方もあったが、男の女装、女の男装、褌一つ、腰巻き一つ、さらには裸体の前に半紙一枚を帯に垂らしただけというようないで立ちさえあった。地域内を練り歩き、人家で酒や食べ物を乞う者もあった。札の降った家では、酒や米を民衆に提供した。また、このええじゃないか踊りは打ちこわしと表裏一体であったとも伝えられ、特に阿波では歌ったり、踊ったりしながら、家の中に入って、畳や建具を破いたり、価値のありそうな道具類をとって踊るなどの狼藉をはたらいた。
 やがて、江戸周辺にも「ええじゃないか」は波及する。幕末の江戸で現世利益を求める信仰はかなり強いものがあり、少しも衰えることはなかった。そのため、江戸でも、お札が降って、ただちに「ええじゃないか」と世直し踊りを踊ることを強く待ち望む風潮があった。そして、十一月の末から十二月の初めにかけて、江戸では札が降り、仏像が降るというようなことが五十余例もあった。しかし、大半は参詣人が群集しただけで終わっている。
 その前年の秋、浅草寺境内では、連日窮民が群集し、幟を立てて施しを求めて練り歩いていた。また、日本橋近くでも、貧窮民たちが町名を書いた紙旗を先に立て、押し歩いた。もし、このような状況が翌慶応三年にも起こっていれば、ええじゃないかの企ては、十分に成功する可能性があっただろう。しかし、江戸の人々は現世利益を求める参詣に加わることはあっても、踊り狂うという状況にはならなかった。そして、十二月五日の町触以降に降った札は二回に過ぎなかった。しかも、群集の参詣があったのは、そのうちの一回きりで、江戸では札降りは失敗している。
 人々を陽動しようと、札や仏像を降らせたのは一体誰なのか、それは明らかでない。ただそれが、人為的であることは、実際に江戸の社寺からお札やお蔭札の類が多数紛失したことからも明らかである。実行者の目的はおそらく札降りをきっかけとして、江戸が騒乱状態になることを意図したものであろう。この「ええじゃないか」は、あきらかに人為的で、それまでのお蔭参りとは形態は似ていても、本質的には異なるものと考えられる。
 「ええじゃないか」の失敗の原因は、年の瀬も近づいた寒くて人々が浮かれようのない季節に起こそうとしたことにもある。江戸の民衆が札降りによって狂乱しようとする下地はあるにはあったが、寒さが強まり、年の瀬も近づくなかでは、人々の心をとらえることができなかった。また、江戸庶民は、慶応三年がいわゆる六十年周期で起きるお蔭年でないことを知っており、二回目の黒船来航に動揺しなかったように、もはや流言飛語には踊らされなくなっていた。前年の打ちこわしにおいても、物見高い性格から見物には行っても参加しなかったように、たとえ札が降っても、それを冷静に見つめていたということだろう。「ええじゃないか」に踊らされなかったのは、打こわしを応援しても、参加しない、盗みをしないという庶民のモラルがブレーキになっていたと考えたい。
 庶民とて、政治情勢は大体知っていて、この時期に踊り狂って打こわしをすれば、江戸の秩序が壊れることはわかっていた。それに庶民は、物価高や仕事がないことなどに不満は持っていたものの、自分たちの手で幕府を倒しても何ら解決につながらならないことを本能的に知っていたのだろう。

文久4年(元治1年)1864年
3月 初午祭大方二の午に延びる
   谷中延寿寺日荷上人像開帳(30日間)、朝参り等多数
   伝通院内福聚院大黒天開帳(60日間)、見せ物・奉納物多数、参詣人群集する浅草寺奥山に活人形見せ物出る(妊婦の開腹模型や異人の人形等)
   牛天神境内で百日間芝居興行
4月 守田座から出火、江戸三座が全焼
4月 回向院で勧進相撲
6月 山王権現祭礼、神輿行列あり、山車練物等なし
   湯島天満宮災後、本社建つ、正遷宮され、祭礼あり
8月 芝金地院觀音開帳                  
8月 中村座で『百猫伝手綱染分』『本調子律艶糸』大入り
10月 湯島天満宮祭礼・本郷眞光寺天満宮祭礼、山車伎踊練物等で賑わう
11月 回向院で勧進相撲
11月 下谷坂本町二丁目要伝寺、巣鴨霊感院等で酉の祭始まる、以後年々参詣人増加 
12月 本所伊予橋永井侯中屋敷示教稲荷の参詣許され、次第に繁盛する
☆この年のその他の事象
1月  火の用心、市中見廻り等の取締令
1月 吉原の遊廓が全焼する     
4月 浮浪者が横行、上野山内の取締り
6月 京都で池田屋騒動が起きる     
6月 浮浪者江戸に潜入により、放火などの恐れありと警戒体制を取る 
7月 京都で禁門の変が起こる
7月 第一次長州戦争が始まる
8月 長州藩邸取上げにより打壊される
9月 酒問屋に株鑑札を配布、冥加金上納を命じる          
10月 将軍上洛の無事を祝い庶民に祝儀が配られる
○三遊亭円朝、両国垢離場の席の真打ちになる

★元治2年(慶應1年)1865年
1月 浅草奥山で十二支に因んだ活人形の見世物出る
2月 回向院で百日芝居興行 
2月 回向院で勧進相撲
3月 浅草三社権現祭礼、山車練物多く出る
3月 守田座で『魁駒松梅魁曙幑(イチバンノリメイキノサシモノ)』大当たり
5月 回向院で陸奥金花山大金寺開帳(見世物一時参詣人多シ)を含め開帳2
6月 赤坂氷川明神祭礼、神輿のみを渡す
7月 芝薬王寺開帳
9月 中村座で勘三郎が芝居寿狂言興行大入り(前年カラ延期)
9月 神田明神祭礼、産子町職人が許可なく附祭を催し罰金
11月 雑司ヶ谷鬼子母神境内鷺明神で酉の祭始まる(以来年々賑ワウ)
11月 回向院で勧進相撲、五・六日目の見物人1万3千人
冬頃 調練場まで西洋風の太鼓を鳴らして群行(銃隊調訓練次第ニ盛ニナル)
○大坂の浄瑠璃語竹本対馬太夫が江戸に下り、人気を博す
☆この年のその他の事象
1月 市中に天誅の張紙多数
3月 物価引下げ令、買占め売惜しみ止令を出す
4月 家康の二百五十回忌を日光東照宮で行なう
5月 両国橋辺花火等、今年はなし
5月  第二次長州戦争が始まる
閏5 米価が高騰し、米穀雑穀の自由販売が許可される
7月 町会所で、窮民に米銭を支給する
8月 飛鳥山下に反射炉錐台を建造する
12月 江戸市中、強盗が出没し、不景気

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幕末庶民の食糧事情

江戸庶民の楽しみ 91
幕末庶民の食糧事情
・庶民の生活
 幕末の江戸庶民の食糧事情は必ずしもよかったとはいえない。が、危急の折の救済システムは比較的うまく機能していたようだ。安政二年十月二日の大地震の後は、諸物価が高騰した。が、この時、町会所は野宿の窮民ににぎり飯を与えたという。また、十一月には、町会所より、震災に遭った窮民381,200余人に御救米が施された、とある。さらに、翌年も八月の大風雨によって町会所より、市中野宿の貧民へ御救米を分けた、とある。このように、災害時に江戸市民の救済にあたる組織が存在していた。もっとも、この救済措置はそれ以前までにも行われてきたもので、幕末になって初めて実施されたというわけではない。松平定信が寛政の改革の一貫として、七分積金と町会議所事業を実施して以来続けてきた措置で、江戸の貧民が窮した揚句に、一揆などの騒乱を起こさないようにという配慮からであった。
 万延年間に入ると、さらに諸物価が高騰しはじめる。そして、翌文久元年(1861)の春には、町会所より、市中の貧民へ御救米を分けるようになる。翌文久二年(1862)は、豊作であるにもかかわらず諸物価は高騰し、貧民の困窮がひどかったために町会所の施しが行われた。幕末の騒乱に巻き込まれ、万延年間からは江戸の人々の生活が徐々に苦しくなっていったことがわかる。
 元治元年(1864)には、将軍家茂の上洛の無事を祝い、江戸町民に六万三千両の金子が配られ、平等に一軒当たり、銭三貫一三九匁が配られた。しかし、この程度で庶民の生活は好転するはずもなく、慶応元年(1865)七月には、再び市中の貧民に御救米の米銭が与えられた。そして、寛政年間以来絶えてなかった打ちこわしが、慶応二年(1866)五月に、米高騰のため発生した(慶応の打ちこわし)。翌六月には、町会所より貧民救済として一人銭二貫百匁が与えられた。このように見ていくと、幕末の庶民の生活が、政情不安のために、じわじわと苦しくなっていることがわかる。そしてこの年、幕府は、ついにイギリス公使パークスの勧告を受け、外米の輸入を許可した。
・町会所の施し
 市民への施しを『武江年表』から主なものを拾うと次のようになる。地震や流行り病、物価の高騰などに対処して金銭や食べ物が施されている。
安政二年●安政の大地震(十月二日夜)
・亥の二點大地俄かに震ふ事甚しく、須叟にして大層高牆を顛倒し倉廩を破壊せしめ、剰さへその頽れたる家々より火起こり熾に燃え上りて、黒煙火を翳め多くの家屋資材を燒却す、・・江戸中燒亡塲所合凡長二里十九町餘幅平均して二町ほどと聞けり
・町會所より日々野宿の貧民へ握飯を與へられ、又御救の小屋を所々に建て養はる、富人も又色々の施しを行へり
・十一月より町會所に於て、震災に罹りし貧民へ、御救米を分ちあたへらる
安政三年●八月・・廿五日暮れて次第に降りしさり南風烈しく、戌の下刻より殊に甚しく、近來稀なる大風雨にて、喬木を折り家屋塀墻を損ふ・・又風雨の間地震もありしなり
・町會所より市中野宿の貧民等へ、御救米を分たる、又富商よりも施行多し
安政五年●七月・・末の頃より都下に、時疫行はれて、芝の海邊鐵炮洲、佃島、靈巖島の畔に始まり、家毎に此の病痾に罹らざるはなし、・・此の病病暴潟又は暴痢などと號し、俗諺にコロリと云へり・・十月に至り漸く此の噂止みたり
・九月より町會に於て、市中其日暮しの賤民へ、白米を頒ち與へらる、米價登揚並びに、時疫行れたるが故なり
万延元年●秋の頃より、米穀菜蔬水油薪炭、其餘諸物の價貴踊せり
文久元年●春の頃より、諸物價登揚せり、是に依て二月より町會所に於て、市中の貧民へ御救米を頒たる、六月に至り停む
文久二年●夏の半より痲疹世に行れ、七月の半に至りては彌蔓延し、良賤男女の病痾に罹らざる家なし
・今年米穀豊饒にして、・・しかれども、諸物の價高貴踊し、痲疹其餘の病にて合家枕を並べて臥し、活業(なりわい)を休しもまヽありて、賤民甚困苦せる故、七月上旬より、町會所の倉廩を發して、市井の貧民へわかたる、又有徳の輩よりも施行多し
元治元年●十月、御上洛の濟せられし、御祝儀として、江戸町人一統へ六萬三千兩の金子を賜はる、竈の數に頒ち大家となく、小家となく、一軒に錢三貫百三十九文なり(幕府より) 
慶応元年●去年より米穀薪炭酒味噌油絹布の類、其餘諸物の價次第に登揚し、菜蔬魚類にいたる迄其價甚貴し
・米價諸色高値に付、同月(七月)より町會所に於て、市中の貧民へ御救の米錢を頒ち與へらる
慶応二年●近年續て、諸物の價沸騰し、今別て米穀不登にして、其價貴踊し、・・群行して、町家を打毀す・・かかる狼藉に及びしかど、またく飢餓に迫りし事故
・六月中には、町會所より貧民御救として、一人分錢貳貫白文宛を頒ち與へられ、・・
・幕末に登場した食べ物屋
 幕末の食料事情はかなり悪かったと思われるが、一方で、庶民の食べ物への関心や美味しいものを食べようとする意欲には少なからぬものがあったようだ。
・安政元年四月に、伊勢町塩河岸拍戸百川で卓袱料理が始まる。七月下旬には、翌月に病気が流行するが、牡丹餅を晦日までに食べればうつらないという噂が流れ、牡丹餅が大量に売れた。夏には、庭に池が作られるなどいささか趣のある蕎麦屋「松下亭」が入谷にできた。また、浅草梅園院境内にぜんざいの「梅園」ができている。そして、中ノ郷業平橋の手前に、庭内に湯滝のある料理茶屋「在五庵」が開店している。
・安政二年三月、牛込に居酒屋が始めて開店する。十月の安政大地震が起きたが、「近頃、あらづきのくろ米の菓子を紅梅焼と名付けて売る家が多いが、これは香餅と言うところを誤ったのではないか」と記述がある。
・安政四年には、日本橋に和菓子屋の「栄太楼」が開店している。
・安政五年に、佃島の漁民が売り物にならない雑魚や貝を醤油などで煮つめて保存のきく佃煮をつくり商品化した。
・安政六年頃、うな丼ができたと言われている。
・万延元年の江戸奉行所の調査によると、蕎麦屋の数は何と3,763店と数えられ、しかも、この中にはいわゆる夜鷹蕎麦屋の数は含まれていないという。屋台店には、天ぷら、すいとん、すし、しるこ、だんごなどがあり、その店数はどのくらいになっていたのだろうか。
・文久二年には、深川猿江に「水月庵」という蕎麦屋ができている。
・文久三年になると、出張営業をする天ぷら屋「大名天ぷら」ができる。
・慶応元年、雉子橋門内の牧場で搾った牛乳が一部販売された。
・慶応二年の二月の末になると、諸物価が高騰するなかでさつまいもだけが安く、焼き芋が大流行した。そして冬には、牛を屠殺して羹(あつもの‥菜や肉などを入れて作った熱い吸物)として売り出す店や、西洋料理と称して西洋の家庭料理のようなものを出す店があちこちにできた、とある。
 このように、幕末の町人はある種の貪欲さで新しい食べ物を作りだし、新しい料理店を次々に成立させていった。これら、新しい食べ物にすべての庶民が関与していたとは言わないが、旨いものを食べようとする意気込みは、少なからず感じられる。

★安政7年(万延1年)1860年 
2月 本所押上春慶寺で普賢菩薩開帳(50日間)
   三月まで霖雨続き盛り場閑散.下旬、単桜咲き始める
   深川永代寺で遠州豊田郡山東村光明山鎮守開帳(60日間)
   深川浄心寺で洛北実相院宮南御殿、法円山証光寺等開帳(60日間)
3月 角力興行雨天で延び3月より興行、3月24日漸く晴れる
   市谷八幡宮境内茶の木稲荷社開帳(60日間)
   回向院で、野州安蘇郡彦間村大正院開帳(60日間)するが故あって途中で中止    
   浅草寺観世音開帳(60日間)、奥山に活人形等の見せ物、日毎に参詣人多し
4月 朔日〜8月晦日まで男女共富士登山許される、諸国より参詣人多し
5月 角筈村十二社権現境内に花菖蒲を植える、見物者多い、但し、一両年で廃れる
   浅草寺奥山で箒で作った虎の見せ物(十余間)出る
   深川永代寺で甲州八代郡左右口村円楽寺役行者前鬼後鬼の像開帳(60日間)
   27日より駒込富士内拝あり
6月 山王権現祭礼、山車附祭伎踊練物御雇独楽廻し等城内に入る、外人の見物を許す
7月 浅草寺二王門の傍に、変死体・幽霊等の作り物の見せ物出る
   両国橋西詰で蘭人の持ち込んだ豹(ナカツカミ)の見せ物出る、見物人多し 
9月 回向院で京都嵯峨清涼寺開帳(風雨で6月から延期)(60日間)見せ物多数
   親鸞聖人六百年御忌引上法會執行、東西本願寺参詣多く、末寺でも各法事修行
10月 回向院で勧進相撲
11月 伝通院大黒堂増上寺等で京都嵯峨清涼寺開帳
   三座芝居顔見せ狂言なし
○この年、子供が桶のたがを回す遊び流行
○かっぽれ、すちゃらか節が流行
☆この年のその他の事象
1月 勝海舟ら遣米使節、咸臨丸で派遣
2月 水道橋御門内講武所開創、築地講武所は御軍艦操練所となる     
3月 桜田門外の変で井伊大老が殺害される             
3月 外国人に金銀無垢類の販売を禁ず
閏3 五品江戸廻送令が出される   
4月 萬延大判・新小判等が鋳造される
5月 外国銀貨を時価で通用させる
7月 牛痘の種痘が種痘所で始められ 
8月 武士の子弟らの外国語学習が許可される            
9月 徳川慶喜らの謹慎が許される  
11月 深川海辺新田で精鉄四文銭を鋳造
12月 米国通弁官ヒュースケン暗殺

★万延2年(文久1年)1861年 
1月 浅草寺奥山で活人形やからくり人形の見せ物出る、見物人少数
     湯島天満宮境内で百日芝居興行、3月途中で止む.回向院でも百日芝居あり 
   大川筋渡し船数カ月間停止
   両国橋詰で曲馬興行、見せ物、見物人多数
   六阿弥陀如来安置寺院行基菩薩彫刻以来1150年で回向院内拝、雨で見物人少い
2月 守田座『相生源氏高砂松』大入り
3月 小石西岸寺で円光大師鏡御影開帳(50日間)                   
   西新井村惣持寺で弘法大師開帳(約40日間)、参詣人群集し、奉納物も多数
   回向院で武州多摩郡高雄山権現開帳(60日間)
   本所回向院青山鳳閣寺境内で百日芝居、青山では珍しく見物人多数
6月 入谷長松寺で朝顔の会(15〜17日)催す
7月 浅草寺奥山で朝顔の会催す 
7月 回向院で信濃荒安村飯縄明神開帳
8月 牛込若松町正光院内、湯島天満宮内で百日芝居興行
   市ヶ谷安養寺境内で軽業、手妻、独楽廻しの見せ物でる
9月 団子坂藪下の辺りに菊の造り物出る(忠臣蔵狂言の人形)
   神田明神祭礼、神輿山車附祭等出る、16日雨、17日は参詣人多数
9月 市村座で『本朝廿四孝』若手揃いで大入り
10月 湯島天満宮祭礼、山車練物出て九日は群集するが、10日当日は雨天で渡らず
   根津、千駄木藪下、巣鴨、染井の辺りに菊の造り物多く、見物人多数
   回向院で勧進相撲
秋  麹町十三丁目裏続き福聚院境内で虎(外国産、大きさ五尺余)の見せ物出る
11月 朔日酉の祭参り、終日大雨で参詣人少数(三の酉は参詣多数)
12月 浅草寺奥山に怪談
☆この年のその他の事象
1月 外国人保護の標識が辻番所に立つ
2月 物価高騰、窮民に白米を支給する
2月 大川筋渡し船数カ月間停止
4月 疱瘡が流行          
5月 英国公使館が水戸浪士に襲撃される(第一次東禅寺襲撃事件)  
6月 伊東玄朴が手術にクロロホルムを使用する           
6月 百姓、町人の大型船製造・所有が許される           
7月 洋服類似の服装が禁じられる  
7月 品川御殿山に各国公使館を建設 
秋頃 五穀豊穣にて近年稀なる事という
10月 横浜港で火事、異国人商家は無事
○三遊亭円朝『怪談牡丹燈籠』刊行

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