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Clytie Changed into a Sunflower

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ドイツ・オーストリア・チェコ編

何に驚いたって、この本の表紙を見るなりの二女ちゃんのひと言。
「表紙、動的平衡とほぼおんなじやん」

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書体は「A-OTF太ゴB101 Pro Bold」と「G-OTF太ゴB101 Pro Bold」のようで、これはもう同じと言っても問題ない。
別に表紙を見せて部屋に飾っているわけでもなく、本棚で背表紙が見えているだけ。2年位前私が読んでるときに何度か目にしたんだろうけどさ。ほんまかいな。頭の中にカメラ(解像度は知らんが)あるタイプの人なのかな。4万体分の骸骨で飾られたセドレツ納骨堂のインパクトも薄らいだわ。つか、読んでる私は表紙が骸骨だらけって気がついてなくて、それも二女ちゃんに「全部骨なんやろ、テレビで見たことある」って。すんません、お母さんは遅ればせながら今驚いています。

たまたま文中で二女ちゃんこれかも!?ってのが。
通説に従えば、天才と呼ばれるような特異な能力の基礎には、認知的抑制の欠如があるという。われわれの脳は日常きわめて多くの入力に曝されている。それを適当に濾過してしまう、フィルターをかける働きが認知的抑制である。乱暴にいえば、不必要なノイズを除いてしまう。ふつうの人にとって、たいていの入力は生存にもカネ儲けにも関係がない。そういうものは要するに雑音だから、意識に上らないように抑制する。それが認知的抑制である。
この抑制が外れる、あるいは不十分だと、いわば脳が活性化する。
この見方からすると、いわゆる創造性を発揮させるには、認知的抑制を外しやすくすればいいということになる。認知的抑制はいわば紋切り型のものの見方である。
二女ちゃんが天才だ、とか言いたい訳でなく、彼女もさして興味のないものもちゃんと入力してしまうんじゃないかって思ったのさ。大人になるにつれてどんどん認知的抑制は強く働くようになる一方みたいだけどね。二十歳過ぎたらタダの人、って昔からよく言われてるんだもんね…。

この本全体として養老さんの頭で考えたこと全てがそのままつらつら書かれているようなノリに思えたなー。「…この立派な本も、蔵書の山に紛れて、どこかに言ってしまった。探すのが面倒くさい。」とか書かれてるし。題名や装丁のインパクトからすれば、もっと文章が練られているのを想像してたのでちょっとどっちらけ。雑誌の連載なのか。よく考えたら養老さんは文章の人じゃないし、仕方ないか。

カプチン皇帝廟のマリア・テレージアの棺とか、すげえ。ここに眠っている人より、これ作った人の執念を強く感じる。シーレの墓めっちゃいい雰囲気!これは、実物見てみたいな〜。
旅先のレポートに関する直接の感想はこんなもんで、後はそこから養老さんがとりとめもなく(?)考えたことが面白くて印象に残った。

二人称の死
死には人称が存在する。フィリップ・アリエスが述べたことでもあり、私自身も解剖に携わって以来、そう思っていた。
第一に、一人称の死体は存在しない。自分の死体というのあは「ない」。次に、二人称はなかなか死体にならない。その人だとわかる部分が残存する限り、それはその人そのものなのである。自分の親の死体を指して「死体」と表現する人はいない。
脳死をめぐる議論が沸騰したように、死はかならずしも客観的事実ではない。だからこそ、どこあの時点で「死」だと、法律なり慣習なりで定めなければならないのである。とくに親しかった人にとって、死者は年月を経ていわばゆっきりと死んでいく。そう考えれば、いわゆる「死体」は三人称、つまり赤の他人でしかありえないのである。
死体が人称変化するということは、死体は「客観的事実」などではなく、人そのものだということである。死者といえども人であることに変わりなはい。とくに二人称関係では、日本でもそうなる。
ニューギニアの原住民なら、頭骨を持ち出してきて、客に「これがウチのおじいさん」と紹介するという。
二人称はそう簡単には死なない。初七日から一周忌、三回忌、うんぬんと法事を続けるのは、死者がなかなか死んでくれないからである。
死んだ成員を共同体にいつまでも組み込んでおく、その儀式が埋葬儀礼や墓だといってもいいであろう。
戦後の日本の核家族化は、血縁共同体の継続に関する日常の常識をごく薄めてしまった。いわば人生の底が浅くなったわけで、それがとくに時間の扱いに表れている。現代人がただいま現在しか考えなくなったのは、核家族化と共同体の喪失に大きな原因があると思う。

「現実」とは何か
すべての「現実」は、人の意識が構築する。人の意識が脳機能の後追いであることは、すでに証明されているといっていい。のどが渇いたから水を飲むのではない。能が水を飲む方に動き出してから、われわれは水が飲みたいと思うので、たぶんわれわれにできることは、意識的に水を飲まないと「決める」ことによって、それを「止める」ことだけである。
さらに考えれば、それも不思議ではないか。なぜなら意識がそれを禁止できるということは、脳機能という物理化学現象を、意識というわけのわからないものが左右する事を認めることになるからである。目に見えず、測定不能な自分の意識が、目に見えて、測定可能な自分の行動を左右するなら、それは「念力」というしかないではないか。まったく「唯物的に」脳を解明しようとするなら、化学はその機構を説明しなければならない。われわれに心身二元論を軽蔑する権利があるのだろうか。


風葬なら、カラスがつつき、野犬が食べる。そのあとを昆虫が片付ける。それで輪廻するのだが、文明はその循環を勝手に断ち切る。死体の処理を考えていると、自然と人が「切れた」のだとしみじみ思う。

足立さんの質問とクリマさんの答えが、素人と虫屋の会話としては典型的だったから、はたで聞いていて面白かったが、内容の詳細はすっかり忘れてしまった。「典型的だった」としか、覚えていない。その場の会話は一次情報で、それを「典型的」と評するのは、二次情報である。二次情報化すると、その場に居合わせても、一次情報が記憶から消えてしまう。風景の報告に「いい景色だった」というようなもので、報告にならない。
これだ、私がよくやってるの。「その件について話をしてたことは覚えているけど、どういうやりとりだったか詳細は覚えていない」ってちょっと記憶力危ないんじゃないかと怖くなったりしてたけど、大丈夫なんですね!?

ユダヤ人への関心
極めつきのユダヤ論がある。内田樹「私家版・ユダヤ文化論(文春新書)」である。ここまでよく思考が練られた、でも平易な書物を私はほとんど見たことがない。よく考え抜かれた本は数多い。しかしそれが「よくわかる」ように書かれていることは滅多にない。

ウィーンと治療ニヒリズム
私が治療ニヒリズムという言葉を知ったのは、W.M.ジョンストン「ウィーン精神」である。
治療ニヒリズムは、治療に関してはできるだけ自然の治癒力に任せる、というものである。医者は余計な手を出して自然の邪魔をすることが多いのだ、と。とくに産科がそうだった。お産は自然であって、病気ではない。産褥熱はいまでいえば要するに院内感染で、当時の病院ではお産をしないほうがいいのだが、実際には無理だったに違いない。

自然志向の向かう先
日本の現代医療は出来高払いだから、医者が「できるだけ自然に任せる」なんていったら、制度的に稼げないようになっている。私なんて、個人的には完全に近い治療ニヒリストである。そもそも病院に行かない、できるだけ薬を飲まない。老人がうっかり病院に行くと、病気になる。風邪のあいだも、薬はいっさい飲まなかった。医者にも行かない。

自然原理主義(そんな成語はないけど)は都会が必然的に生み出す傾向の一つである。それが医学に出てくるのは、医学が「自然としての身体」を意識的に扱う以上、当然であろう。自然志向は田舎にはない。当たり前で、連日自然と闘うしかない人間に、自然志向もクソもない。だからといって「意識で自然を扱う」のは、昔もいまもむずかしいのである。

自己と社会と
若い頃は性格とか心理に関心があって、いろいろ読んだり、考えたりしたが、いまはほとんど興味がなくなった。なぜああいうことに強い関心があったのか、自分のことなのにさっぱり理解できない。若いときの私は、どう考えても今の私とは別人である。よくいえば「ものがわかってきた」のであろうが、悪く言えば堕落したのであろう。
いまではどう思っているかといえば、ほとんど行動心理学者みたいなもので、人間については、外部的に計測できることしか考えなくなった。なぜ他人の心理を考えたり推測したりしなくなったかというと、わかることはわかるし、わからないことはわからないと、諦めがついたからであろう。

言語とは、ミラーシステムでは通じないことを、なんとか通じさせようとする働きである。

社会と天才の関係
私は、思想には社会の影響が大きいと思うようになり、しだいに天才という個人を信じなくなったのである。
ある時期の京都府立一中、三高というコースは、多くの優れた人物、学者を生んだ。湯川秀樹、朝永振一郎、今西錦司、桑原武夫、西堀栄三郎などである。現在では偏差値がいちばん高い高校生は東大医学部に集まるはずだが、そこから世界を動かすような学問が生まれたという話はあまり聞いていない。つまり学生を入試で選んだだけでは、天才にとってのいい雰囲気はできないらしいのである。

人生は自分のためじゃない
年齢とともに、自分が小さくなっていく。仕事を「自分のためじゃないよ」と思うようになったのも、ある年齢を超えてからである。そこから「人生は自分のためじゃない」と思うまでは、それほどの距離はない。
社会的な視点を優先するようになると、世の中はむずかしいなあ、としみじみ思う。あちらを立てれば、こちらが立たない。
自分の身の処し方だけを考えるなら、老人にさして苦労はない。自分の生死なんて、じつは自分にとっては、どうでもいいからである。どうせ近いうちに死ぬんだし、死んだからといって、本人が困るわけではない。

マンガやファンタジーという形式もそうだが、「本当の嘘」「間違いなく嘘」という公式枠をおくことは、世間にはどうしても必要だというしかない。内田樹はそれを「額縁」だと表現する。額縁に入っているのはあくまでも絵だから、その中身を「現実」と取り違えることはない。そこが額縁の大切さである。ただし額縁が立派でないと、それがじつは絵だとは気づかないこともありうる。
ウェブ時代には地球全体が北朝鮮になる可能性がある。その時にも「嘘が本当」になるはずである。その兆候はボチボチ見えているような気がする。ウェブ自体はまさに「額縁」なのだが、その中に1日、数時間浸りきっていれば、額縁は図柄の一部になってしまう。
私は欧米人が平気で「真っ赤な嘘」をつくことに、若いうちは真剣に腹を立てていた。でもいまではそれが文化の一面だと理解するようになった。

墓は身体の安息所か
欧州の人は火葬は残酷だとして嫌う。火葬を普及させるような「なにか」が日本文化に存在する。
たとえば欧州の墓地では、実際に死体の臭いを感じることがある。

わざわざ墓を作る。それは一種の表現とみてもいい。
ここまで来て、墓という自分のテーマがじつはなんだったか、少しほどけてきたような気がする。情報に対する対応、ということなのである。「情報を発信している」のが墓石だったらどうなのか。まあ、たいていの人はここで沈黙する。墓石に関するリテラシーなんかないよ、ということであろう。でも十万年前から墓は作られていたらしいということを思えば、墓石が読めてもいいのである。読めて当然という意見もあっていい。

メタ・メッセージ
墓地が面白いから、私は墓地を見ている。墓石が面白かったら、ほかのこともたいていは面白いのではないだろうか。
ふつうにいわれる情報とは、受けとる側がないと成り立たない概念である。それをすべて情報の側に押しつけてしまうのが、客観的、科学的な態度である。それを「逃げた」と表現したのである。元来それを扱うのが人文社会科学のはずだが、こちらは作業が大変だから、人気がない。それに人間の理解といったところで、どこまでどう理解すりゃあ、理解したことになるのか。それがはっきりしない。
情報の受け取り方について、メタ・メッセージという概念がある。受けとる側がどう考えたか、それを意味する。
私が墓地ばかり扱うメタ・メッセージは「人はいずれ死ぬ」ということであろう。これは単なる事実。思えば、死ぬ話には面白い結論はない。

私が臨床医になり損ねたのは、医者というのは特段の危険物だからである。それこそ近藤誠の「医者に殺されない47の心得(アスコム)」が売れるわけである。

歳をとったら、今まで見えなかったものが見えてくる。見なくて済むものも増えてくる。だから、世界は変わってきた。悪くないよ。

モンテーニュ「エセー」なんとなく開いて読んでしまうのか。

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