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論理的思考で考える
家族は愛情と血縁で固く結ばれている。こうした思い込みにこそ、多くの危険が潜んでいる。日本の殺人事件の半数以上が親族がらみであり、日本で最も治安の悪い場所は家庭内だと言っても過言ではない。
特に家族において注意が必要なのは、抽象的な理念の存在が家族の行動を縛り、ガバナンスの失敗を覆い隠してしまうリスクです。そうした理念の代表格は「愛」です。結婚披露宴で挨拶に立った新郎新婦は口をそろえて「愛情溢れる家庭を築きたい」と宣言します。あの場面ではそう言わざるを得ないのでしょうが、実際、どういったものが「愛情溢れる家庭」なのかは誰もわかりません。
妻の家事労働や親の介護など対価の支払われないボランティア活動が「愛」の名のもとに半ば強制され、その負担の重さに耐えかねて放棄すればそれは「愛」の欠如だと非難されてしまいます。また、親から子どもへの厳しすぎる躾や過度の干渉も、愛情表現のひとつだとして正当化されてしまいます。
「毒親」は、その優越的な立場を利用して、愛という美名のもとに子どもに対する支配的な関係を正当化してきたのです。
親の心配は子のためならず
「親の心配」このワードの解釈には注意が必要です。これこそが親の子どもへの干渉をすべて正当化しているからです。
心配というワードは、それを相手に伝えたとたん、利己的行為をあたかも利他的であるかのように見せる魔術のような働きをします。反論するのを困難にします。相手の心配を無にする行いは愛情に欠けると思えてしまうからです。
求められるのは「心配」ではなく「信頼」です。
厳格な親は「いい子」を育てられるか
少年犯罪が起きると「親は何をやっていたんだ」とか「親の教育がんあっていない」などと親を糾弾する報道がよくなされます。こうした親の責任を問う声は、親に対して子どもの躾を厳しくし、より厳格な子育てをするインセンティブを与えるでしょう。
厳しい躾は少年犯罪の抑止になっているのでしょうか。平成23年度版「犯罪白書」には、「親の養育態度に対する認識」という項目があり、非行少年が親をどう思っているか尋ねています。それを見ると、平成2年の調査以降一貫して「親が厳しすぎる」という回答が「自分のことを親が気にしない」を10%以上上回っています。親が厳格であっても非行の抑止にはつながらないことがわかります。
うちの兄がぐれたのも絶対親がうるさすぎたからやで。
子どもを嘘つきにしたくなかったら厳しい教育をすべきではありません。
家族法は個人を守っているか
国民一人ひとりの価値観は時代とともにどんどん多様になってきていて、もはや一定の枠に収まりきらない状況です。家庭のメンバー間ですらそれぞれの価値観を理解し合うのが難しくなっています。今の法律では想定していない人たちが増えてきているのです。
そうなったとき、「保守」の人たちは、変質してしまった家族をなんとか「まっとうな」状態に戻そうとします。「まっとうでない」家族を救えば、ますますそうした家族が増えてしまい収拾がつかなくなると考えるからです。
家族のあり方についても、愛情や血縁を頼りにした集団ではなく、利己的な個人が集まって作る組織であるという理解が必要になります。
家事や育児と言った「家庭内公共サービス」は、もはや妻の「愛情」のみに頼るやり方ではうまくいきません。妻にも一人の人間としての生きがいがあり、それを実現することで得られる個人としての幸せがあるからです。
そして子どもにも自分の生きがいがあります。「愛情」の仮面を被った親の過剰な干渉が子どもの自立を阻み、成長を歪ませるというリスクの存在を知っておかなければなりません。稼ぎ手である夫も家事や育児を妻に任せきりにしている状態では自立しているとは言えません。
どの家族メンバーも、まずは社会のなかの自立した人間を目指すことが重要です。
このように言うと、個人としての自立が進めば家族は崩壊し、「まっとうな」結婚をしようと思う人がいなくなるのではないかという意見が聞こえてきそうです。
さまざまな価値観をもつ個人が家族を形成し、そのなかで個人の尊厳を認めることによって、結果的に日本の家族が健全に生き残っていくように思います。
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ぼたんと申します
>「毒親」は、その優越的な立場を利用して、愛という美名のもとに子どもに対する支配的な関係を正当化してきたのです
同感です!親が子の進学、就職に口を出しても今なお悪く言われない世の中です。学生時代より私も大変苦労しました…誰に相談しても「親御さまに見放されていないだけ幸せなだよ」と片づけられて終わり…親とはイイ御身分なんだと実感しました
2015/5/5(火) 午前 9:06 [ ぼたん♪ ]