座談会での御書講義に思う
創価学会の伝統であり、最も大事な会合と言えば、毎月開催される「座談会」です。
地元の老若男女の同士達や、その友人が小単位で集う座談会には、大勢を相手に一方的に話をする大きな会合とは違い、膝詰めの、お互いの顔が見える語らいがあります。
座談会では、会合を運営する側と参加する側とが、赤裸々に何でも語り合いながら、共に泣き、共に笑う中で、「よし、がんばろう!」と、前を向いて生きていく決意を固め合うことができます。
これほど暖かく、麗しい人間交流はありません。
池田先生は、学会の本流こそ「座談会」であり、それ以外の会合は「枝葉」に過ぎないとまで言われています。
それほど大事な座談会ですが、私自身は、「運営する側」として関わることが多く、毎月の開催を決して義務的に「こなす」のではなく、参加された方が、「来て良かった!」と、思って頂けるよう、真剣に取り組んでいきたいとおもいます。
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さて、座談会の運営側として、個人的に私が担当することが多いのが、「座談会御書」の講義です。
学会の会合ではどんな企画であれ、いいかげんなことはできませんが、御書講義となれば、特に間違いは許されない大役です。
しかも、参加される方の大白蓮華には、すでに赤線が引いてあったり、書き込みがされているなどして、すでに熟読して勉強されている方も、けっこう多かったりします。
そんな中では、大白蓮華に書かれていることをおさらいするだけでは、せっかく勉強して参加される方に失礼です。
ですので私は、読めばわかること以外で、何か伝えられないだろうかと、色んな角度で考える努力をしています。
この御文を、自分の体験を交えて伝えられないだろうか。
大聖人は、どんなお気持ちでしたためられたのだろう。
この御書が、今月の座談会御書にえらばれたのは、なぜなのだろう。
等々・・・・
自分なりに思索しては、少しでも、良い講義ができるように、務めています。
とはいえ、毎回努力が実るかと言えばそうではなく、準備不足で言い尽くせなかったり、懲りすぎてかえってわかりにくくなったりと、後で反省することも度々です。
ひどい時は、不勉強と緊張が重なり、自分でも何を言っているのか分からなくなって、同じ事を何度も繰り返してしまい、「と、とにかく頑張っていきましょう・・・・以上です・・・」と、唐突に講義を終え、参加者を唖然とさせたこともあります。
まったく今思い出しても、汗顔の至りです。
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私にとって御書講義は、まだまださせて頂くような教学力はなく、なによりそのような器ではないのかもしれません。
それでも要請があれば
「はい、わかりました!」
と、喜んでお引き受けしています。
なぜかといえば、御書講義は、講義を聞くよりも、講義をするほうが、絶対に自分の力になるからです。
「人に伝えよう」とするからこそ、御書に真剣に向き合います。
関連する資料を引っ張り出し、必死でひもときながら、御文を読んでは思索し、思索しては御文を読み直しています。
そうしていく中で、時に大聖人が大きな腕で、私を抱きかかえてくれるような、あたたかな慈愛を感じたり、また、仏法の法理が、宇宙大に広がるのを感じたりします。
「やっぱり、仏法って、すごい!!」
その歓喜と感動が、いざ、自分が現実の苦境を目の前にした時に、一歩も引かずに立ち向かっていく力になってきました。
「私は必ず幸福になれる!」
御書講義をさせて頂く度に、この確信が固まっていくような気がします。
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毎回ではありませんが、講義するにあたって、原稿を用意することがあります。
今までは、講義後は原稿データを削除していましたが、考えて見れば、御文の受け止め方は、その時々で変化するものです。
いわば、原稿を作っている時の自分の境涯や、状況などが、その講義には反映されており、一回一回の講義は、自分自身の歴史と言えるかもしれません。
力不足ではありますが、自分の歴史を、残していく思いで、作った原稿を記事にしてみたいと思います。
記事にするにあたって、メモ書き程度の原稿を、一応文章化していますが、個人的な資料的な部分もあるかとおもいます。
もしご覧になった方は、暖かな目で見て頂き、お気づきの点があればご指摘やご教授くだされば幸いです。
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