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ぶどう園に招かれた労働者 マタイ20:1−16
神の国について、イエスはたとえ話で教えた。たとえ話は、英語でパラブルであり、パラ+ボレというギリシャ語で、平行して+投げる(語る)という意味。わかりやすい生活の中の話をしながら、その話により真理を伝えるのがたとえ話である。イエスはぶどう園のたとえをしながら、神の折る世界を語った。ここで、ぶどう園の主人は天の父なる神である。ぶどう園の監督は、管理者であるイエスキリストである。労働者は神の国の働き人でクリスチャンである。
I 神は、公平に労働者に招いている
(1)ユダヤのぶどう園には、いろいろな仕事が必要である。ぶどうを刈る人、集める人、運ぶ人、蔵に詰める人。特に、収穫の時期には、一度にたくさんの仕事がある。仕事はフルタイムで毎日働く労働者と、忙しいとき働くパートタイムの労働者がいる。ちょうど、食堂では、忙しい昼ごろには集中して仕事がある。このたとえ話のぶどう園の労働者は、一日だけの契約で仕事をする日雇いの労働者である。彼らは、毎朝早く市場に行き、ぶどう園で働けるように、ぶどう園の主人が来るのを待っている。昔、日本では、日雇いの労働者を「ニコヨン」と呼んだ。それは、日雇いの賃金が「254」(ニコヨン)だったからだという。
(2)ぶどう園の労働は、早朝6時に始まり夕方6時に終わった。主人は、早朝、市場に出かけて労働者を集める。そして、一日「1デナリ」の契約を結んで、労働者をぶどう園に送る。その日も6時に市場にいき、労働者を集めて、彼らをぶどう園に送った。また、主人は9時にも市場にいってみると、「別の人たちがたっていた」。彼らは言った。「だれも自分たちを雇ってくれないのです」。そこで主人は、「相当のものを上げるから」と彼らと契約を結んで、ぶどう園に送った。その後、主人は、12時、3時に市場に行った。こうして、仕事のない人と契約を結び、ぶどう園に雇った。その後、主人は5時にも市場にきて、最後の労働者をぶどう園に送った
(3)この話から、神が人を天国に招く性質がわかる。第一に、労働者は、主人の招きがあってぶどう園にいける。自分の意思や熱心でぶどう園には入れない。同様に、神の国、天国に入るためには、自分の熱心と決心だけではなく、主人である神の招きが必ず必要である。神の招きがなければ、神の国に入れ得ない。同様に、神の国にシンボルである教会にも、神の招きがあってこれる。イエスは、言われた。ヨハネ6:44「私を遣わした父が引き寄せない限り、だれも私のところに来ることはできません」皆さんが、キリストの教会にこれたのも、天の父なる神の、導きがあったのである。
(4)第二に、ぶどう園の主人は、何度も市場にいって、仕事のない人々を雇ってぶどう園に送った。同様に、天の神は、人の人生のいろいろな時に、神の国に招かれる。ある人は、病気になり絶望したとき、事業の失敗で仕事がなくなったとき、家族との別れで孤独を味わい、学生なら試験に失敗して絶望したときに、人生のはかなさを覚える。そのようなときは、神を考え、神の招きを受ける絶好の時である。時には、ぶどう園の労働が終わる1時間前に主人が市場で招いたように、人生の老齢になったとき、神は招くこともある。
(5)第三に、労働者は、主人の招きを受けたとき、すぐに従った。それは、うれしかったからでもある。同様に、神の招きをうけたとき、それは天国への招きであり、喜んで、感謝して従うべきである。5時にぶどう園に招かれた人がいるように、神の国には、遅すぎたり、年をとりすぎたりすることはない。
II 神は、招いた人を十分な恵みを与える
(1)さて、ぶどう園で一日の労働が終わった。そこで、主人が、監督に賃金を支払うように命じた。そして、主人は不思議な命令をした。 第一は、全員に1デナリの賃金を与えた。この監督は、イエスキリストのことである。キリストは、神の恵みを、われわれに与える、救い主である。
(2)ここから、神の国では、キリストが我々に与える方法が違う。特徴は、第一は、最後に来た人から、賃金を与えた。第二に、一日朝から働いた人も、たった1時間しか働かなかった人にも、同じ1デナリを与えた。おそらく、朝から働いた人は、1時間だけ働いたひとが、1デナリもらったので、自分たちはもっとたくさんもらえると期待した。それで、文句をいった。「この最後の連中は、1時間しか働かなかったのに、あなたは、私たちと同じようにしました」これは、不公平だといういみ。
(3)これにたいして、主人は答えた。13節「私はあなたに不当なことはしていない。あなたとは、1デナリの約束をしたではありませんか」そして、15節「自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか」と戒めたのである。主人が、自分のお金を自分の思うようにするおは、当たり前の話。
(4)ここから、神の国では、神が我々に与えるものは、神のプレゼントとりかいすべき。朝来たものにも、1時間まえにきたものにも、同じ1デナリを与えたのは、神の恵みが、どの人にも平等に与えられる、という意味。自分には自分の恵み、仲間には仲間の恵みを与えたのであり、それは神が決めることである。
(5)イエスが、十字架にかかってしなれたとき、その両側で死のうとする犯罪人がいた。その一人が、イエスをみて神の子であると告白した。この男は、イエスきりストから、天国の約束をもらった。彼は、何の善行もしないし、奉仕もしなかった。十一献金も、伝道も、教会の奉仕もしなかった。ただ、イエスを信じて告白しただけ。そして、立派に天国にいき、勝利の人生を送った。キリストの救いは、行いではないことがわかる。
(6)しかし、誤解してはならない。救われたら、何もしないことを教えているのではない。キリストの救いは、我々を恩知らずの生活、怠け者の生活をさせるのではない。この男は、何もできなかったのである。もし、この男が、十字架からおろされたら、感謝のあまり、イエスに奉仕をしたのは間違いない。逆に、感謝にあふれた生活で、キリストに仕える人を作る。我々は、いま体を動かせるし、キリストへの感謝の心を表せるのである。生きているかぎり、感謝にあふれて、精一杯、神に仕える生活をしよう。
III 神は、後のものを先にされる
(1)第二は、「最後から来たものから順番に、最初に来たものまで賃金を払ってやりなさい。」この世界では、苦労したもが最初に賃金をもらう。しかし、神の国では、その人は最後であった。神の国では、人間的な順番や評価が、逆転することを教えている。われわれは、人間の計算で、神を裁いたり、人を評価してはならない。16節「後のものが先にナリ、先のものが後になる」
(2)パウロは、かつて、クリスチャンを迫害した。罪びとの頭でもあった。しかし、神の恵みによって、多くの働きをした。ほかの使徒より、おそく神の国に招かれたが、誰よりも多くの働きをした。神の国において、先に招かれた人よりも、後で招かれたひとが先になることが多い。
(3)これは、警告であり、慰めである。第一に、自分は子供の時から教会に来て奉仕をしてきた。それで、高慢になって、その人は、神の国では最後になっていることもある。第二に、逆に、年をとって、何もできないと落胆する必要なない。その人は、忠実に、謙遜に仕えるなら、人間的には後に評価を受けても、神は、誰よりも高くしてくれる。神の国においては、地上の評価が逆転する。神の国は、まったく公平である。神に召されたことに感謝して、今日、神に招かれた人のように、一生懸命に神に仕えれば、十分な恵みをうける。
結論:歌を歌う「今日まで来たのは、主の恵み」
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メッセージありがとうございました。
私はこのブドウ園と労働者の話がよく理解できずにいました。でもメッセージのおかげで、自分の理解が幾分進んだような気がします。
また、先の者が後になるという意味も良く理解していませんでしたが、救われた者は、謙遜に主に仕えないと、高慢になり、後の者となってしまうということですね。
感謝します。主の祝福が豊かにありますように。
2016/12/7(水) 午後 0:29