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神は真の礼拝を求めている 出エジプト20:1−7
先ごろ、日本のノーベル生理学賞を受賞した、本庶佑(ほんじょ、たすく)さんは次のように語っていた。「家庭のことはタッチせず、研究にまい進した。研究のために十数回引越ししたが、奥さんがその陣頭指揮をとってくれた。奥さんは、<神様みたいな人>だ」。奥様も神様になる国が日本である。本当にそうであろうか。今日は、神の十戒の教えから、本当の神について考えたい。
イスラエルはエジプトを脱出してシナイ山にきた。そこで、神はモーセに十戒を与えたが、これは、人類全てに対する戒である。その要約は、イエス様が言われたが、「神を愛すること、隣人を愛すること」の二つの部分に分けられる。今日は、その前半の<神に対する戒め>から学ぶ。それは、四つの部分によりなっている。第1戒は、神礼拝の対象、第2は礼拝の方法、第3戒は礼拝の態度である。第4戒めは、礼拝の時である。
I 礼拝の対象=真実の神のみ
(1)日本に有名な一休という僧侶がいた。彼は、「分けいるる麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」と詠った。それとおなじく、宗教にも色々な神があるが、最終的には上り詰めれば、同じ神に通じるという。信じる対象が何でも同じで、同じ神を礼拝しているのだと言う。
平田篤胤(ひらたあつたね)という国学者は「神は色々あるが皆等しい神である。虫もあり鳥もある」という。それで「鰯の頭も信心から」と言う言葉もある。それゆえ、キリスト教のように、神はお一人であるというのは、心が狭い宗教で、非寛容であると批判する。
(2)聖書は、 神を信じ、神を礼拝する行為を、夫婦関係にたとえている。夫婦以外に他の人がはいれば、夫婦関係は崩れてしまう。それで「私は妬む神である」という。真実に愛し合っている夫婦は、その間に、男であれ、女であれ、他人が介入する不貞を許さない。神も同じである。神以外に、他の神がはいって、礼拝行為をすることを、神はゆるさない。偶像の神であれ、占いであれ、まじないであれ、それらを神と同じ位におくなら、不倫と同じ。神は、 それらの宗教的行為をする人を、妬む神である。
(3)それで、出エジプト20:3「私のほかに神があってはならない」と神はいう。では、どおうすれば、人間は、真の神と出会い、神を礼拝することができるのか。それは、神ご自身が人間に現れて、人間に出会って下さる以外に方法はない。
(4)ピリポがイエスに「父なる神を見せてください」と頼んだ時、イエスは「私を見たものは父を見たのです」(ヨハネ14:9)と応えられた。すなわち、人はイエスによって真の神と出会い、神を知ることができる。そして、このイエスと出会える場所が聖書である。「聖書は私について証している」(ヨハネ5:39)。聖書を読み、学ぶなら、神の恵みで人の心の目が開き、イエスと出会う。このイエスを礼拝する時のみ、人は真実の神を礼拝することができる。
II 礼拝の方法=聖書で神が教えた方法。
(1)20:4「あなたは、自分のために偶像をつくってはならない。」礼拝で神の形を作ってはいけない。神は霊であり目に見えないお方である。形にして拝むことは不可能なこと。 荒野でイスラエル人は鋳物の子牛の像を作った。そして、「これがエジプトから連れ上ったあなたの神だ」といって、それを神として罪を犯した(32:8)。
(2)神は、どのように礼拝するかを礼拝の方法も教えた。それが、偶像を作ってはいけないという。もし、人間が自分で考えた方法で礼拝するなら、どんなに素晴らしく見えても、それは神を礼拝しているとは言えない。
(3)カトリック教会は、真実の神を礼拝するなら、形や像を作ってもよいと考える。それでマリヤの像を作り、天子の絵姿を作り、天の神を礼拝しているという。しかし、作れば、それが偶像になって礼拝したくなるのが、罪人の習性であるので、聖書は絵や形を作るのを禁止する。
(4)この偶像は、時には、神以外の何かが自分の偶像になることもある。「自分のために。偶像をつくってはならない。」クリスチャンでも、自分で偶像をつくることがある。自分のビジョンや計画が偶像になる。目指す大学が偶像になる。自分の仕事が大切になればそれが偶像になる。結婚や家庭などが神よりも大切になり、マイホーム主義になれば、それが偶像で有る。偶像礼拝はしなくても、自分で神以外の偶像を作ってはいかない。
(3)神は礼拝する幕屋についてモーセに注意した。「山であなたに示された形に従って、すべてのものをつくりなさい」(へブル8:5)。モーセが自分で考えた幕屋をたてて、礼拝をしたのではない。神が指示した御言葉に従って礼拝をしたのである。御言葉の教えに従うことが、偶像礼拝から避ける方法である。
III 礼拝の態度=真心を込めて捧げること
(1)7節「主の御名をみだりにとなえてはならない。」ユダヤ人は、神の言葉を厳格に守る民族である。それで彼らは、この第三戒めを、その通りに字義とおりに実行して、神の名前(英語ではYHVHで、聖4文字と呼ぶ)を発音しなかった。それで、ついて、神の名前の読み方がわからなくなった。その代わり、聖4文字の神の名前を「主」という言葉に置き換えた。それが、今日まで、神の名前の正しい発音が分からない理由である。
(2)主の御名をみだりにとなえてはならないとは、神の名を呼ぶことを禁止したのではない。詩篇などでは神の御名を呼んでいる。「みだりに」となえてはいけないのである。たとえば、仏教は念仏のよう神や仏の名を、繰り返して名前を呼んでいる。聖書は、呪いや呪文のように、習慣的に神の名前を繰り返すことを戒めている。イエスは、マタイ6:7「異邦人のように、同じ言葉を繰り返してはいけません」といわれた。
(3)礼拝でも、習慣的ではいけない。その一つ一つの礼拝行為に真心をこめて、真剣に捧げるのである。主の祈りも、単なる繰り返しではなく、その意味を考え心を込めて祈るべきである。
(4)真実な礼拝について教えている箇所がある。詩篇51:16「神へのいけにえは、砕かれた悔いた魂」とある。心がくだかれ謙遜になって礼拝することが、真実な礼拝である。
(5)神戸で牧師をしていて頃、教会学校の生徒が、友人に「僕らは祈るとき、言葉を考えて祈らねばならない。坊さんのように、何も考えないで唱える念仏とはちがう」と、誇らしく言っていたのを思い出す。クリスチャンは、謙遜になって、よく意味を考えて、礼拝するのである。
IV 礼拝の時=安息日をまもること
(1)エリック・リデルは、スコットランドの陸上競技者であり、長老教会の信徒。 パリのオリンピックの100mの選手だったが、決勝戦の日が日曜日であったので棄権した。しかし、別の日の400mに出て優勝した。 彼の勇気ある信仰の行動に全スコットランドは感動した。キリスト教は日曜日を安息日として、この世の娯楽、仕事などをしない日として守っている。
(2) ウエストミンスター小教理60「その日は、終日聖く休むこと。他の日なら正当な世俗の仕事や娯楽さえも止めること。すべての時間を公私の礼拝を守るのに費やすこと。ただし、必要やむをえない業と、哀れみの業の時間は別である」と解説している。
安息日の起源は、神がこの世界を創造された模範にならい、神の形に似せて作られた人間も、7日目に休むのが安息日である。人が休まないと、肉体的、精神的に疲れはて、病気になり死んでしまう。仏教や儒教には休みの戒はない。しかし、聖書の神は、人に休みを与えた愛の神である。
(4) 画家が絵を描く時、休まずに筆を動かさない。時々、筆を休め、遠くを見たり考えたり、少し休んで、構想を練って再び筆を動かす。もし、休まずに筆を動かせば、絵ではなく落書きとなる。安息日の休みは、静かに自分を見つめなおし、新しい出発のためにエネルギーと知恵をえるために絶対に必要である。人生は一人一人が、キャンバスの上に神の栄光のために書く絵画である。どういう絵を描き、どういう人生という芸術品を創作するか、安息日で休み、反省し、進むべきである。
体の休みは仕事を休めばできる。しかし、人の心と魂の休みは、体を休めるだけではとれない。我々の心の中で、キリストと聖霊様と交わり心と魂が休める。
(5)イエスは、安息日にもできる以下の必要最低限の仕事を教えた。第一、弟子が麦畑で麦の穂を摘んだ。食べるための必要な行動であるので許した(マルコ2:23−)。第二、イエスは安息日に病人を癒された。この癒しは普通の金儲けの労働ではなく、福祉と健康のための慈善活動である。イエスは、「安息日にいやすことは正しいいのです」(マタイ12:10)といわれ、許された(マタイ12:11−)。第三、社会の秩序の平和の仕事もある。警察、消防、病院、公的交通、軍隊、国の平和のために働きも認められる。旧約時代、兵隊は交代性で安息日も仕事をした。第四、人の魂の救いの伝道は、安息日にしてもよい。それゆえ、教会に人を招くために、教会の仕事をしてもよい。
*結論 明治時代、札幌農学校の初代校長クラーク博士が青年たちにキリスト信仰を伝えた。その中で内村鑑三、新渡戸稲造など日本の指導者が育った。彼らは日曜日を安息日とし、礼拝と教会の日として、学校の勉強をしなかった。しかし、成績はトップを占めたという。私は、その話を大学時代に読み感動して、その後45年間、日曜日には学校の勉強は全然せずに今日まで来た。今では勉強すると頭が痛くなる。安息日は神が祝福した日で、人の幸いのために神が与えた日である。
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