|
山で天国を見た3人の弟子たち マタイ17:1−4
先週は、日本に新しい天皇が即位するのに関係して、新しい元号がが発表されたことがニュースであった。大化から始まり248番目の元号である。「令和」であるが、令とは、命令と言う、言いつけるという意味のほかに、良い、という意味がある。また「和」とは、聖徳太子の17条の憲法の1条の<「和」を持って尊しとなす>にあるように、調和がとれて仲が良い、という意味である。天皇が代われば元号が変わるのは日本の伝統であるが、イエスキリストの誕生を紀元とする西暦のほうが便利である。
私は、TVで菅官房長官が、「令和」とかかれた盾を見せるときに、みなに見えないように隠しながら、見せたことに興味があった。皆に見せるまでは、誰にも見せないようにするのが通例で、随分工夫したそうである。日本が、令和という元号をつけたように、良い国になり、隣国とも平和を作る国になるように祈りたい。
今日は、イエスが3人の弟子たちと、ヘルモン山のふもとに出かけたとき、そこで弟子たちに天国の姿を見せた物語から、学ぶ。また、我々が死んで天国くが、そこはどん世界かを、学ぶ。
I イエスキリストは、光り輝いた
(1)17:1「それから6日たって、イエスは、ペテロとヤコブ、その兄弟のヨハネの3人だけつれて、高い山に導いていかれた。」
(2)「それから6日たって」というのは、ガリラヤ地方からさらに北方にある、ピリポカイザリヤの町で、ペテロが弟子を代表して「あなたは、生いける神の子キリストです」とイエスを告白した日から、6日たってという意味である。
(3)イエスは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子だけをつれて、高い山にいって。イエスの弟子たちは、何種類もあった。500人、150人、120人、70人、12人。しかし、その12人の中でもとくに、3人は特別な人で、イエスから特別に愛されたでしである。ゲッセマネの園に入ったのも、この3人だけである。
(4)この3人を、大事なときに、大事なものを見せたのは、申命記19:15「2人または3人の証人」によって、事実が確認された。そのように、イエスは必要最小限の証人として、3人を証人としてつれていった。かっら3人に見せた天国の姿は、教会にたいして、天国を証拠付けるに十分であった。彼らは、イエスの<三羽烏>、といえる、イエスの優等生である。
(5)我々も、イエスの弟子であるが、特に、イエスの周辺にいることで満足せず、いつも、イエスのそばにいつもいる、イエスから愛された弟子になれるように、自分の言葉と態度を吟味したい。
(6)「高い山」というのは、ピリポカイザリヤの近くにある、ヘルモン山のことであり、3400メートルもある高いやまである。探検家がこの山を登ったとき、頂上では息が切れるほど空気が薄かったと報告しているので、ヘルモン山の頂上ではなく、中腹につれていってたと、考えられる。
(7)有る人は、「山は、人類の神殿としてつくられた」といった。聖書をみても、山の上で神は特別な働きをされたことが記されている。アブラハムがイサクを神に捧げたのも、モリヤの山であった。モーセが出エジプトをしたあと、シナイ山にのぼりそこでモーセの十戒めを神から与えられた。エリヤは、たった一人でバアルの預言者たちと戦ったが、そこは、カルメル山であった。イスラエルが神殿を建てたのは、シオンの山である。また、イエスは、山にのぼってたびたび祈られた。
(8)2節「そして、彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように、白かった。」イエスは、神であられるが、地上に来られた姿は、仕える者のすがたであった。しかし、この山の上では、太陽のように輝いた、とあり、イエスが本来の神の姿を3人に見せたのである。そのように、我々も天国において、罪が無く神の栄光をうけて、栄光の姿に変わる。楽しみなことではないか。病も苦しみもなく、輝いているのである。
II モーセとエリヤがでてきた
(1)3節「モーセとエリヤが出てきて、イエスと話し合っていた」モーセは、神から律法を受けた人。旧約聖書の律法の記録をしたひと。エリヤは旧約の預言者で、最大の人。この二人は、旧約聖書の二つの大きな山のような存在である。この二人がでてきて、イエスと何を話していたのであろうか。彼らが、話していた内容は、ルカ福音書9:31にある。「イエスが、エルサレムで遂げようとして<最期>について話し合っていた。」
(2)<最期>とは、ギリシャ語では、エクソドス、英語ではexodus脱出。これは、イスラエルがエジプトから脱出し、カナンに入る物語=出エジプト記のことである。ここから、イエスの<エクソダス>ということは、イエスが十字架にかかって死に、人類を罪から救い=脱出するとい話をしていたのである。
(3)この時、ペテロは、4節『口出ししてイエスにいった。私達がここにいることは、素晴らしいことです』。イエスが、モーセとエリヤの姿をみて素晴らしい、といった。ユダヤ人が尊敬してやまない1500年昔のモーセと1000年昔のエリヤが、いま自分のいるところで、自分達の先生であるイエスと現実にいる。なんと、おそろくべきことか。旧約の聖徒は、今もイエスと一緒にいるのは、彼らが死んで地上からいなくなたが、今も、天国では生きている証拠である。ペテロは、死後も天国でいきることの確信をえた。
(4)同様に、我々も、数十年してこの地上をさるが、なくなってしまうのではなく、イエスを信じるなら、天国でイエスと一緒に、永遠に生きる存在であることを、悟った。
(5)ペテロは、続けていった。「私が、ここに3つの幕屋をおつくりします。一つは、あなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」時は、10月の仮庵の祭りのころである。人々は、出エジプトに先祖達が経験した仮庵を7日間つくり、自分達も不自由な生活を思い出した。そして、ペテロは、仮庵を、イエスのため、モーセとエリヤのために、3つ作る、と提案した。
(6)この提案は、イエスが十字架にかかることを、否定する提案であった。なぜなら、イエスは、十字架にかかり、人類のあがないを完成して、天国に帰るのが神のご計画であった。それなのに、地上で仮庵を、作るのはどういうことか。何時までもイエスに地上にとどめて、救いを中断し、彼らと一緒にいることを願う、罪深い提案である。
III 神から、直接の声がした
(1)5節「雲の中から、これは、私の愛する子、私はこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という神の声がした。父なる神が、イエスを「私の愛する子」と呼ばれたのは、2回ある。最初は、イエスがバプテスマを受けられたとき「私の愛する子」と言われた。もう一回は、今回の、罪無きイエスが十字架にかかり、我々のために死ぬことを覚悟されたときである。それで、イエスのことを「愛する子」とよび、イエスを励まされたのである。同様に、我々が、自分を低くして、神のために謙遜に仕えるとき、神は、我々を「神の子」として見つめてくださるのである。
(2)ところで、マタイ福音書では、そのあとで、「彼の言うことを聞きなさい」という言葉が続いている。これは、ユダヤ人は、モーセとエリヤを誰よりも尊敬していたが、これからは、イエスのことばを聞きなさい、と言われた。旧約の預言者ではなく、イエスの言われることを、一番大切にするように、神が教えている。すなわち、「彼の言うことを聞きなさい」と言われたように、十字架と復活をはたらされたイエスのことば、聖書のことばに従うことが、我々が一番聞き従わねば成らないのである。
(3)釈迦、孔子、マホメット、イエスの像が、二村駅の来た側の世界統一教の玄関にかかっている。それは、統一教えが、これらの世界の宗教を統一した宗教と言う意味らしい。しかし、十字架にかかって、我々の罪の許しの保障となり、復活されて我々も復活する証拠となられた、イエス以外に神が聞きなさん、と言われた教えはない。みな、死んで今はどこにいるか分らない、人物である。我々は、ペテロが見て証言した天国があり、神がその言葉を聞きなさい、と言われたイエスの言葉だけを聞いて、天国に導いてもらわねばこの人生で、真の喜びはない。
|