カベナント・ケンブリッジ 日本人教会

韓国ソウル市冠岳区、冠岳警察署バス停前ケンブリッジハウス2F

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主の僕モーセは死んだ  申命記34:1−5

モーセは、「地上の誰にも勝って、非常に謙遜であった』(民12:3)。そのモーセに対して、神が最後に語った説教が今日の言葉である。

      I 神は、モーセにカナンに入らせなかった。

(1)1節「モーセは、モアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に上った。」 モーセは80歳から120歳の40年間、100万以上のイスラエルの民を導いて困難な荒野を旅をした。そして、 主は、荒野の旅を終えた彼に、ついに目的地の全地方を見せられた。 感激するひと時である。

(3)そして神は、山の上で神はモーセに言われた。4節「私は、これをあなたに見せたが、あなたはそこへ渡っていくことはできない。」約束の地をモーセに見せたが、神はそこに彼を入らせない。モーセは、<なぜですか>といったとおもう。これだけ苦労して、忍耐して待った約束の地にはいれないとは。

これは、カデシの事件で神が言われた約束である。そこでは水が無かった。そこで神がモーセに、「岩に命令すると水が出る」と言われた。そこで、モーセは岩を打った。モーセは、一回だけ打つべきであったが、怒りにまかせて、2回うった。1回も2回も、大きな差はないと我々は思う。しかし、これは、神の御心ではなかった。

(4)なぜなら、この事件は「キリストの型」であった。Iコリント10:4「御霊の岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。」モーセが岩を打って水が流れたのは、キリストが十字架で打たれ、そこから聖霊が流れる神の救いを教えていた。そのキリストの十字架は、一度だけで繰りかえしはない。モーセが2回岩を打ったのは、キリストの十字架以外の福音を暗示している。これはモーセの罪である。

(5)なぜ、神はモーセの失敗をゆるしてくれないのか。それは、神は、罪を犯したら裁くという道理を重んじる方であることを示している。 愛の神であるが、同時に神の御心に反する行動にたいしては、その罰を受けるのが聖書の教えである。

たしかに、人は、どんな罪をおかしても、ごめんなさいといえばその罪は赦され、天国にいける。しかし、罪の罰は、ある。神を信じて、『ごめんなさい』と誤ったから、なんでも赦されるというのは、自分勝手な信仰であり、キリスト教信仰とは違う。もし、そうなら、人殺しも、犯罪も、盗みもすべて、「ごめんなさい」といえば、みな赦されるという不思議な人間をつくる。それでは、警察も、裁判所もいらない世界になる。「神は一人一人にその行いに応じて、報いをお与えになります。」(ローマ2:6)。この世で裁きを逃げても、来る世界で神の裁きが待っているのである。


(7)マタイ18:22に、あるひとが罪を犯して、7度を70倍するまで赦すようにイエスはいった。この意味は、心の中において、恨みや憎しみの心を完全になくし、報復をするなという教えである。ある人は、これを誤解して、人の犯した罪は、全部帳消しにすることだという。これは、私的解釈で、この世に、悪をしても平気な人が増えて<この世の地獄を作ってしまう>。たしかに、罪は赦されて天国に入れるが、他方、この世では罪に対する報いと裁きを受けるというの、聖書の教えである。

         II 神の命令によってモーセが死んだ

(1)モーセがカナンに入れないのは、実際は、困難であった。80歳の時アマレクとの戦争で手を上げた祈っていたが、疲れてアロンとフルに助けてもらった。今120歳のモーセ「目もかすまず、体力もあった」。しかし、いまから、エリコ、アイなどで戦争を続けることは現実的に、不可能だった。それゆえ、神の決定は、無慈悲とも見えるが、モーセを愛する愛からでた妥当な決定であった。ここで、モーセは、歴史の場所から消えたが、神のいるもっと良い場所に移ったのである。

(2)5節「主の命令によって、主の僕モーセは、モアブの地のその所で死んだ。」モーセは「主の僕」として死んだ。僕は主人の命令に従う。生きるのも死ぬのも、僕は、自分勝手にはできず主人の命令で決まる。モーセは、年を取って死んだのでも、体力が衰えて死んだのもない、病気で死んだのでも、事故で死んだのでもない。主人である神の命令で忠実に死んだのである。結局、モーセは、死に至るまでも、神に従順な人生をすごした。彼は、従順な人物だった。

(3)神は、愛する民の命を、その使命が続く限り、守られている。そして、使命がおわれば、与えた命を取る神でもある。モーセが自分の使命を立派に果したので、神が命を取った。それでモーセは死んだのである。

(4)我々も、このモーセの人生と生き方に学びたい。これが、キリスト者の人生である。主なる神が、僕である我々に、地上の任務と使命を果たした後、、真の牧者のキリストがいる天の牧場に招いてくださる。

    III モーセの後は、神はヨシュアに導かせた。
(1)34:9「ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満たされていた。」モーセは、いつもヨシュアといしょであった。カデシからカナンの調査をさせたとき、ヨシュアとカレブだけが、神の御心に適った報告をした。それで、他のイスラエルは荒野で死んだが、この二人がカナンに入ることを許可された。 主はモーセに命じて、ヨシュアにモーセの後継者として任命するよにした(民27:20)。

(2)神は、モーセではなくヨシュアによってイスラエルを荒野からカナンの地に導かせた。これは、信者に取り意味がある。すなわち、モーセの務めは神の律法を与えることであった。しかし、カナンに導く指導者はヨシュアであった。ヨシュアはギリシャ語でイエスである。すなわち、イエスであるヨシュアによってカナンにはいることができた。人は、モーセの律法では救われず、ヨシュアであるイエスキリストの恵みにより天国に入れることを教えている。

結論:私たちにとり、死は、信仰生活の一部分である。死ぬのも神の御心であり、生きるのも神の御心である。こうして、神に任せる人生をいきたい。

今日で、朴鍾淳牧師先生の言われたように、忠信教会でのカベナントチャペルは終了する。同時に、私の働きも終わりになる。昔、戦艦が沈むとき、艦長も一緒に海に沈むのが日本の習慣である。私は、ここで、忠信のカベナントは終わるが、朴鍾淳牧師の言われたアドバイスにしたがって、カベナントチャペルを私の自宅に移して再出発するつもりである。

25年の間、常に私と一緒に教会の働きに献身してくださった皆さんに、感謝したい。 朴鍾淳牧師先生が言われたとように、皆様は、忠信教会に招かれている。また、朴ダニエル先生の教会も皆様を歓迎している。それは皆様にお任せする。
また、ソウルの町で出会ったら挨拶ができるように楽しみにしている。
最後に使徒パウロが、エペソ教会の長老達にいったことばを、お送りして終わりたい。使徒20:32「いま、私は、あなたがたを、神とその恵みの御言葉とにゆだねます。」アーメン


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